第十五話 夜の刃
森は冷たく湿っていた。葉の一枚一枚が夜露を含み、踏みしだくたびにかすかな囁きを漏らす。
ラウニィーは先頭で手を上げ、握り拳で合図した。小隊が一斉に停止する。背後で甲冑が触れ合う音さえしない。呼吸は喉の奥で浅く刻まれ、全員の鼓動が同じテンポで揃っていた。
「前衛、二。右から回り込んで見張りを落とす。……合図を待って」
囁きより小さな声。二人が影のように滑り出る。
詰所は木立を背にした石造りの建物で、夜間の灯は最小限。王国式の配置、見張りの交代間隔、通路の死角――すべてが身体に沁み付いている。味方だった時間が、今は刃の角度まで教えてくれる。
(戻れない。戻らない)
胸の内でひとつ、言葉を置く。
前衛の一人が指を立てた。完了の合図。ラウニィーは頷くと、扉の前に立った。触れる指先が冷たい。深呼吸はしない。肺の空気の量で足取りがばれることがある。
押し開ける。最小の軋みだけを残して隙間ができる。
「――誰だ!」
鋭い怒声。すぐに松明が灯り、黄の光が廊下を満たした。
「接敵、展開!」
ラウニィーが告げるより早く、兵たちはそれぞれの持ち場へ散っていた。短剣が、盾が、靴底が石を蹴る音が重なる。
敵――いいや、同じ王国の兵――が飛び出してくる。刃と刃がぶつかり、火花が視界を刺す。誰も悲鳴を上げない。喉元で押し殺された声だけが、息の熱で宙に溶けた。
奥から、低く澄んだ声。
「……ラウニィー?」
双短刀を携え、黒髪を高く結った女が現れる。闇の靄を纏ったように輪郭が揺れて見えた。エルンスト中隊長。細い唇が、驚きと怒りの間でわずかに震える。
「何をしているの。ここは自分たちの陣地よ」
「わかってる」
「なら、どういうつもり?」
「説明しても、あなたは信じない」
「……オリビアが、そう命じたのね」
沈黙。
それだけで、充分だった。エルンストの瞳に鋭い線が走る。
「裏切ったのね」
「裏切ってはいない。信じる方を選んだだけ」
「それを反逆と言うのよ」
「わかってる。それでも止まらない」
言葉が終わるより早く、床の影が伸びた。柱の陰、兵の落とした松明、わずかな光の切れ目――そこから黒い帯が這い出す。エルンストが一歩、刃と共に滑る。
ラウニィーは弓を引いた。一本、二本。矢が闇の帯を貫くが、双短刀が返しの角度で叩き落とした。金属音が重なり、矢羽が床に散る。
近い。速い。矢より速い。腕の内側が痺れるほどの重圧が迫る。
「小隊長。あなたのために、ここで止める」
双短刀が交差し、刃の間に薄い闇が張る。斬るだけでなく視界を切り取る魔法――闇の結界が一瞬だけ眼前を暗く染めた。
ラウニィーは半歩退きながら、柱際に身体を寄せる。右上、左下、次は喉――エルンストの軌道は流れるようで、しかし必ず急所へ落ちてくる。弓を盾のように使って受け、肩が突き上げられる。乾いた痛みが走り、歯の根が鳴った。
(強い。格が違う。……わかってたはずなのに)
左頬に熱。刃先が皮膚をかすめ、血が一筋、顎を伝った。
足が闇に絡まれ、膝が落ちる。即座に矢筒の底から一本を掴み、床へ叩きつけた。矢柄が折れ、ささくれ立った木片が跳ねる。その乱反射のような動きが、闇の結界にわずかな綻びを作った。
ラウニィーは身体を捻って抜け、短剣を抜く。弓を背に回し、逆手の刃で双短刀を受け止めた。金属の摩擦が耳を焼く。
「援護します!」
「下がって! 包囲だけ維持!」
部下の声に即座に返す。小隊の楔は保つ。だが刃の交わりは、この二人で終わらせる。
エルンストの刃が、今度は静かに迫る。騒ぎの中心で、二人だけが音を絞っていく。呼吸の間が読める距離。目の動きが技へ直結する間合い。
「あなたに選べる道はないのよ、ラウニィー。命令に背いた瞬間に、すべては終わる」
「命令のために、人を燃やすわけにはいかない」
「それでも、国は回っていく。回さなければいけない」
「国が回るために、ひとりの命が“部品”にされるなら――私は、その歯車を止める」
刃が弾けた。
エルンストの双短刀が、低い唸りを上げる。闇が刃に張り付き、角度の誤差を帳消しにする。高密度の連撃。右の刃が前腕の外側を打ち、痺れが指へ走る。その瞬間を狙って左の刃が喉を掬う。
ラウニィーは顎を引いて避けたが、首筋に冷たさが走った。血がじわりと滲み、襟を染める。
(押し負ける。……違う、押さない。読む)
彼女は視線を足元へ落とした。
石畳の継ぎ目。雨で削れた浅い溝。落ちた松明の黒い炭。
呼吸をひとつ、半歩遅らせる。自分の間合いではなく、相手の間合いへ一瞬だけ身を置く。
「――っ!」
双短刀が来る角度を、半足ずらして迎えた。受けず、撫でる。
刃の重さはそのままに、力の方向だけをずらす。エルンストの右足が継ぎ目の溝を踏み、わずかに沈む。
ラウニィーは腰を切り、短剣で手首を払い上げた。刃先が天井の光を弾き、エルンストの利き手の角度が崩れる。
「……っ、やるわね」
「あなたが教えてくれた。地形を読めって。訓練場で、何度も」
言いながら、傷口が痛む。会話は技の間を広げる。ラウニィーは言葉を飛ばし、自分の間合いを確保する。その一拍で弓を拾い直し、近距離で矢を撃つ。
火花のように小さな炎が矢先に灯り、闇の帯を焼き切った。
エルンストは一歩引く。だが退きながらも刃の線は崩れない。後退は次の前進のための溜め――それが中隊長の呼吸。
廊下の先で、部下の一人が押し込まれるのが見えた。
「右側面に二、援護に一、残りは包囲を締め直して!」
命令が走り、足音が応える。小隊の足並みは乱れない。戦場の端から端まで、糸を張るように連絡が走る。
「……さすが。小隊長の仕事を忘れないのね」
「あなたも。部下をひとりも見捨てない顔をしてる」
ふっと、エルンストの目がわずかに伏せられた。次の瞬間、足元の影が爆ぜた。
闇の濃度が高まる。視界が短く切り取られ、距離感が狂う。
ラウニィーは壁際へ滑り、指先で空気の流れを掴んだ。松明の炎がどちらへ流れるか、熱の層がどう波打つか――それだけが刃の角度を教えてくれる。
右。
短剣で受け、左へ身体を滑らせる。
左下。
弓で払ってから、低く沈む。
喉。
顎を引き、首の筋で刃の腹を滑らせる。浅い切り傷が増える。視界の端で黒い点が跳ねる。
(ここで倒れるわけにはいかない)
オリビアの声が、一瞬、脳裏に浮かんだ。「任せる」と言ったその一言の重さ。
胸の奥の火が、痛みを押し流す。
ラウニィーは矢筒の底に指を入れ、細い糸を引き出した。練り蝋を含ませた細工糸。弓弦に絡め、矢に沿わせる。
近距離で矢を撃つ。風切り音が響くほどの距離じゃない。ほとんど突き。
糸が闇に引っ掛かり、視界の幕を一瞬だけ剥いだ。光が差す。
その一拍で、ラウニィーは踏み込んだ。
短剣が双短刀の根元を叩く。
金属音は小さい。けれど、力は曲がらない。
エルンストの片刃が手から離れ、床を滑っていく。残った刃で即座に反撃してくる――が、今度はラウニィーが刃の腹で受け、そのまま押し流した。
距離が詰まる。肩と肩が触れる距離。汗の匂いが混じる。
「あなた、本当に……本気なのね」
「当然よ。私も、あなたも」
「私はこの軍でしか生きてこなかった。妾の子ってわかってから、家には居場所がなかったの。だから……ここにしがみつくしかなかった」
「しがみつける場所があるのは、幸せよ。……でもね、そこが人を傷めつける場所になったなら、手を離してもいい」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃないから、今こうして刃を合わせてる」
返す言葉は刃。
エルンストの連撃が続く。ラウニィーは踏みとどまり、呼吸を合わす。
一撃ごとに腕が重くなる。指の感覚が薄い。
足裏が石の温度を拾えなくなっていく。
奥歯を噛む。舌の付け根が鉄の味で痺れた。
(もう一手。――決める)
ラウニィーは床に落ちた片刃を、つま先で蹴った。
刃がカランと跳ね、灯りの下を滑る。その反射の瞬きを、エルンストの瞳が追った。
視線のブレ。
その一瞬だけ、闇の密度が緩む。
「今だ」
耳の奥で声がした。自分の声かもしれない。
ラウニィーは弓を逆手に構え、弦の張力で残った双短刀を弾いた。
金属音。刃が宙を舞う。
同時に短剣の切っ先を、喉元へ、紙一重まで寄せる。突きは止めたまま。動けば切れる、動かなければ当たらない、その距離。
静けさが一瞬だけ戻った。外の叫びが遠い。炎のはぜる小さな音だけが近い。
「……ここで終わりにしよう、エルンスト。あなたを殺したくない」
エルンストは肩を上下させ、しばらく目を閉じた。
汗が頬を伝い、床に落ちる音が聞こえた気がした。
「そんなこと、許されると思う? 私は中隊長。あなたは命令違反。――立場だけで言えば、ここであなたを切るしかない」
「立場だけで人を切るなら、あの艦の中と同じよ」
息が止まる気配。
松明の影が揺れ、二人の顔に不規則な暗さを刻んだ。
「……私は、この軍でしか生きられなかった。ここを失ったら、何もなくなる」
「何も、なんてことはない。もし本当にそうなら、私が隣にいる。オリビアもいる。サンドも、エルドゥも。あなたを必要とする人は、ここ以外にもいる」
「言葉で、そんな……」
「言葉でしか届かない場所がある。あなたの中にも」
短剣の切っ先は、紙の厚みほどだけ下がった。
エルンストの睫毛が震える。瞳が潤み、光を受けて揺れる。
「……本当に? 私にも――ここじゃない、いていい場所が、あるの?」
その声は、戦場の中で初めて零れた素の声だった。
ラウニィーは剣を引き、ゆっくりと手を差し出す。右手のひらは血で汚れていたが、指先はしっかりと開かれていた。
「一緒に探そう。今からでも、間に合う」
エルンストは唇を噛んだ。血が滲む。
それでも、そのまま泣き笑いのような顔で――手を取った。
指は震えていたが、握る力は強かった。
「……お願い。連れていって」
「ようこそ、エルンスト」
手と手が重なった瞬間、闇の濃度がわずかに薄くなる。
小隊の兵たちが静かに息を吐き、包囲を解いた。倒れた兵士の呻き声に、仲間が駆け寄る音が続く。
ラウニィーはエルンストの手を離さず、短く周囲に声を飛ばした。
「負傷者をまとめて。敵兵には手当てを。動ける者は外周の警戒を強化――誰にも知らせないで、ここを抜ける」
命令が流れ、全員が動く。
エルンストはしばらく黙ってその様子を見つめていた。指先の震えはまだ止まらない。
ラウニィーは横顔を見て、少しだけ声を落とす。
「怖い?」
「……怖い。でも、今の方が――まっすぐに立てる気がする」
「大丈夫。私たちが隣にいる」
外気が吹き込み、松明の火が揺れた。
夜はまだ深い。けれど、遠くの東の稜線が、ほんの少しだけ薄くなる気配がある。
二人は互いの手を離し、同じ方角を見た。
「行こう」
「ええ」
足音が重なる。
夜の刃は、もう血を求めていない。
その切っ先は、これから向かう場所を、静かに指していた。
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