第十三話 決断の朝
夜明け前。灰色の空はまだ光を許さず、冷たい風が野営地をなでていく。
その風は、まるで何かを予感させるように、湿り気と鋭さを帯びていた。
兵士たちは焚き火の前で黙り込み、剣を研ぎ、槍の先を確かめ、互いに無言で頷き合っていた。
――誰もが気づいていた。今日の戦は、いつもの戦ではないと。
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① 作戦会議
幕舎の中、地図を広げた卓を囲んで、大隊長の声がだらだらと続いていた。
その内容は、実情を踏まえない愚策ばかりだった。現場の血も、兵の疲弊も、物資の限界も――すべて無視した理想論。
「このルートで正面突破すれば、敵は総崩れになる」
肥えた指が地図の上を乱雑になぞる。
オリビアは一言も発さず、ただ睨むように地図を見ていた。
その中で、大隊長がさらりと付け足すように言う。
「それと……我が軍にも切り札がある。上からの話だ。お前たちはただ従えばいい」
ざわり、と空気が揺れた。
全員が、その言葉の意味を理解していた。
――飛空艦。
あの、帝国が戦場の均衡を壊した悪魔の兵器。
奪取したあの艦が、ついに自軍に使われる時が来たのだ。
「まさか……」オリビアは息を呑み、低く問う。「あの艦を動かすつもりですか?」
大隊長の目が冷たく光る。「ああ、王と元帥の決定だ」
「動力はどうするんですか」
静かに、しかし鋭い声音。
幕舎の空気が一瞬、張り詰めた。
大隊長は鼻で笑った。「それはお前の知ることではない。黙れ、中隊長」
「……」
「余計な詮索をすればどうなるかわかっているだろうな」
その言い方は、忠告というより脅迫に近いものだった。
オリビアは奥歯を噛みしめる。何も言えない空気の中、胸の奥に暗い影が広がった。
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② 作戦決行の日
空は厚い雲に覆われていた。
朝だというのに、光は弱く、まるでこの日の戦いを拒むかのようだった。
土の上を踏みしめる兵士たちの足音、甲冑の擦れる音、呼吸の白い吐息が、重たく積み重なっていく。
オリビアの中隊は、いつもと同じ進軍隊列を組んでいた。
だが――彼女の胸には、いつもとはまったく違う冷たいものが渦巻いていた。
視線の先には、霧が漂う戦場。
それは戦う相手が帝国兵であるはずなのに――胸の奥底に巣食う不穏な感覚は、別の場所に向かっていた。
(もし……あの艦が、本当に……)
脳裏に焼き付いている。
鉄と鎖の中で呻き、泣き、力を奪われた人々の姿。
飛空艦の中枢部――あの忌まわしい“心臓”の光景。
そのとき、地鳴りのような音が響いた。
振り返る。
後方の空に――漆黒の影。
重厚な音を立てながら、空を裂いて飛空艦が姿を現した。
翼のような艦体の下から、青白い魔力の光が漏れ、雲を焼くように進んでいく。
味方兵の中から、歓声とざわめきが同時に起こった。
「ついに……我らにも飛空艦が……!」
「勝てる!これで勝てるぞ!」
だがオリビアの耳には、その声が遠く、歪んで聞こえた。
彼女の足元の地面が、揺らいで見える。
声が、泣き声と悲鳴に変わって聞こえる。
(……許さない)
唇を噛み、オリビアは息を吸い込む。
「全隊、進軍速度を落とせ」
号令に、兵士たちが驚きの表情を浮かべた。
ラウニィーが馬を寄せる。
「リヴィ……どういうこと?」
「――任せる。中隊を」
短い一言に、ラウニィーは息を呑む。
しかし何も問わず、力強く頷いた。
「……わかった。行って」
オリビアはその背に、一瞬だけ目を向ける。
長い戦いの中で、言葉を重ねなくても伝わる信頼。
彼女は馬を返し、ただ一人、本陣の方角へと駆け出した。
冷たい風が顔を切る。
鼓動が速くなる。
――この先にあるのは、戦場ではない。決断だ。
⸻
③ 真実の発覚
幕舎の中。
大隊長は葉巻をくわえ、まるで勝利が約束されているかのような薄ら笑いを浮かべていた。オリビアの険しい足音にも眉ひとつ動かさない。
「やはり来たか。正義の戦乙女さんよ」
「動力は、何ですか」
オリビアの声は静かだった。しかし、その奥底に震える怒りがあるのは誰の耳にも明らかだった。
大隊長は嘲るように笑う。「貧困街の人間どもだ。徴兵し、魔力を抽出して動かしている。王と元帥、そして貴族の推薦もある。決定はすでに下っている」
「……っ!」
「奴らは生まれからして何の価値もないゴミだ。だが、動力としてなら多少役に立つ。感謝してもらいたいくらいだな」
その言葉に、頭の奥が真っ白になった。
血の音が耳を打つ。
怒りと嫌悪が爆ぜ、声が震えた。
「……人の命を、何だと思っている!」
大隊長は鼻で笑った。「ただの資源だ。貧しい者は戦争の燃料になる。昔からそうだったろう」
オリビアの拳が、鞘の柄を握りしめたまま白くなる。
言葉は、もはや通じない。
彼女は静かに、しかし揺るぎない決意と共に踵を返した。
(言葉は、もういらない。――行動で示す)
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④ 決断
中隊の列に戻ったとき、空はさらに暗く沈み込み、遠くで飛空艦の魔力音が轟いていた。
地面まで伝わるその振動は、まるで大地そのものが怯えているかのようだった。
「中隊、停止!」
オリビアの声は強く、鋭く、空気を切り裂いた。
戸惑いと緊張の波が兵の間を走る。
ラウニィー、サンド、エルドゥが前に出る。彼らの視線には、ただならぬ気配を感じ取っている色があった。
「……話がある」
オリビアは馬から降りた。
地面に足を着けたその瞬間、周囲のざわめきが自然と消えていく。
彼女の声が、戦場の空気に溶け込んだ。
「――あの飛空艦は、我らのものだ。そして、その動力は……貧困街の人々だ」
兵士たちの顔が一斉に揺れる。
驚愕、混乱、怒り、そして恐怖。
誰もが“わかっていた”のかもしれない。だが、目を逸らしてきた現実だった。
「私は……それを許さない。国や軍が何を言おうと、あれは――私が憎んだ帝国と同じだ」
ラウニィーが唇を噛み、サンドが盾を鳴らす。
エルドゥが低く唸った。
「軍を裏切ることになる」誰かが小さく呟いた。
「わかっている」
オリビアの瞳には迷いがない。「死罪になるかもしれない。すべてを失うかもしれない。それでも――私は行く。あの艦を落とし、人々を救う」
沈黙が、張り詰めた刃のように場を包んだ。
最初に声を上げたのは、ラウニィーだった。
「……私は行くよ。ずっと、あんたの隣にいるって決めてるから」
赤い髪が風に揺れる。
その笑顔は、涙をこらえた強い光を宿していた。
「オレもだ、隊長」サンドが拳を胸に当てる。「オレは……守りたいもんがある」
「まったく……若い奴らは騒がしいな」エルドゥが豪快に笑い、大斧を担ぐ。「お前らが地べたを走るなら、オレは空を叩き落とす係だな」
その言葉に兵の何人かが笑い、息を呑み、それでも一歩を踏み出した。
その一方で――ヴィンスが、静かに前へ進む。
「……やめろ」
その声は震えていなかった。理性的で、冷静だった。
「オリビア、それは反逆だ。国への裏切りだ。お前は――処刑される」
「わかってる」
「だったらやめろ!!」
ヴィンスの声が初めて荒れる。
その目に宿っていたのは怒りではなく――恐怖だった。
オリビアが、本当に戻れない道を歩こうとしていると理解していたからだ。
「止める。……力づくでもな」
杖先が輝き、水の奔流が渦を巻く。
次の瞬間、魔力が爆ぜた。
風と水が衝突する。
ヴィンスの魔法は以前より遥かに鋭く、重く、緻密だった。彼もまた敗戦を経て成長していた。
だが、オリビアはすでに「風」を読むのではなく、「空気」を支配していた。湿度、気圧、流れ。
――世界そのものが、彼女の魔法の一部になっている。
轟音とともに魔法が弾け、空気が震える。
ヴィンスの奔流はねじ曲げられ、霧散した。
「……っ、化け物め」ヴィンスが笑う。「強くなったな」
「私には――失いたくないものがある」
その声は静かで、どこまでも真っ直ぐだった。
ヴィンスは沈黙し、息を吐く。そして、かすかに笑った。
「……最後の情けだ。艦を落とすまでは、報告はしない」
「ありがとう、ヴィンス」
その言葉に、長い時間を共に戦ってきた絆が滲んでいた。
ヴィンスは背を向け、ダナンもまた軍に残る姿勢を見せた。
視線が交錯する。もう、立場は違う。――だが、互いを軽んじることはない。
オリビアは深く息を吸い、皆に向けた。
「ついてくる者は、共に行こう。残る者は――その信念を貫いてくれ。どちらも、私にとって大切な仲間だ」
ラウニィー、サンド、エルドゥ、そして彼らの部隊が前に出る。
残った者たちも顔を伏せ、決意を固めたように拳を握る。
「――ここまで、共に戦ってくれてありがとう」
オリビアの声に、風が吹いた。
夜明け前の空が、まるで何かの始まりを告げるように鳴った。
飛空艦が空を覆い、遠い雷鳴が響く。
彼女たちは走り出す――自軍の飛空艦を落とし、囚われた人々を救うために。
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