第十話 雷鳴の朝
頬に触れた風が、うっすらと震えた。
(……風が、怯えてる?)
夜明け前の境目。星が雲に飲まれ、砦の影が一段濃くなる。
焚き火が少し心細そうに揺れた。
「なんだか、急に冷えてきた」
ラウニィーが羽織を胸元で握る。
「風向きが……変だな」
横になったままサンドが眉を寄せる。
「起きろ。酒臭い」
エルドゥがサンドの脛を軽く蹴る。
「いってぇ……」
オリビアは空を仰ぐ。雲の裂け目――黒い艦腹が音を吸いながら滑り出す。
腹部の魔導砲口が、暗い眼孔のように並んでいる。
「帝国の……飛空艦!」
声が落ちた瞬間、空気がぴんと張った。
「全員、配置につけ!!」
号令は刃のように鋭い。笑い声は一瞬で消え、鎧の留め具が閉じる音、剣が鞘から抜ける音、弓弦が張り直される音が重なる。
ヴィンスが短く「持ち場へ」とだけ言い、杖頭に魔力を宿す。
ラウニィーは矢筒を確かめ、ダナンは簡易救護の指示を手短に出す。
エルドゥは肩回しをして斧を構え、サンドは水を浴びるように一気飲みして立ち上がった。
「……酔い、醒めた」
雷鳴が一拍遅れて落ちる。砦の壁が黒く焦げ、石片が雨のように降った。
黒装束の部隊が滑るように降下する。
着地の足音が一糸乱れず、呼吸の合図すら聞こえない。
先頭に立つ男は、灰色の瞳に一切の感情を映さない。双短剣に纏う雷が空気を裂いた。
「“銀の戦乙女”はどこだ」
帝国親衛隊長――リュカ・ヴェルナー。名を呼ばずに名を問う声は、勝敗を既に決めている者のそれだ。
「……来たな」
ヴィンスが小さく息を吐く。
「矢の予備、少ないよ」
ラウニィーが囁く。
「ならば一矢を重く」
オリビアが短く返し、風で矢道を読んでやると視線で伝える。
「大丈夫、殿は任せろ」
サンドが盾を掲げた。
「さっき床に沈んでたのに」
ラウニィーが呆れ半分に言う。
「酒と戦は別だ!」
わずかな笑いが緊張を割り、すぐに消えた。
瓦礫が転がる中央で、オリビアは双剣を持ち直す。
リュカが間合いを詰めるたびに、雷の匂い――焼けた金属と乾いた空気の匂い――が濃くなる。
「名は」
「……オリビア・エルフォード」
「よかろう。“銀の戦乙女”」
「名乗らせておいて、高圧的ね」
「死者に敬意は払わない主義だ」
閃光。初太刀は速すぎて、音が後からついてくる。
オリビアの風圧受け流しを、リュカは角度で潰し、短剣の腹で弾く。刃と刃が擦れ、火花が散る。
足元では砂が盛り上がり、風が段差を作る。オリビアはそこに足を置き、横薙ぎへと体を滑らせる。
リュカの短剣が上から叩き落として進路を潰す。雷が皮膚のすぐ外側で唸り、鳥肌が立つ。
「速い」
オリビアが歯を食いしばる。
「遅い」
リュカは感情なく答え、二段目の踏み込みで防壁の薄い場所を正確に突く。
風の膜が裂け、オリビアの肩口に電撃が走った。視界が白く跳ね、指先から力が抜ける。片方の剣が石畳で転がった。
「オリビア!」
サンドの大盾が割り込む。雷撃を受けた瞬間、金属が悲鳴を上げる。サンドの腕が痺れ、巨体が後方に弾かれた。
「ぐっ……まだ……立てる……!」
「下がって!」
ダナンが駆け寄り、肩を支える。
「矢、通らない……!」ラウニィーの矢は空中で焼け、黒い灰になった。
「持ちこたえろ!」ヴィンスの水弾が雷の幕に弾かれ、霧のしぶきだけが残る。
リュカが無言で距離を詰める。短剣の切っ先が、今度は喉元を素直に狙ってきた。
オリビアは一歩退き、風で斜め上へ逸らす。しかし雷は“待つ”。そこに二撃目がすべり込む。
(……届かない。)
気づいたときには、髪が湿っていた。
戦いの最中、いつの間にか雨が降り始めていたのだ。
空は曇り、音もなく落ちる雨粒が砦の石畳を濡らしている。
足元で跳ねた水滴が冷たく、泥混じりの地面は兵たちの足を鈍らせた。
この雨が“静か”であることが、逆に戦場の緊張を鋭くする。
オリビアは剣を構えながら、肺の奥が焼けるような息を吐いた。
目の前には、精鋭の帝国兵たちが押し寄せてくる。
その波の後ろには、リュカ。あの男の雷が、霧のない戦場なら一瞬で部隊を薙ぎ払うだろう。
背後には、自分を信じて戦ってきた仲間たち。
ラウニィーの声、サンドの踏み込み、エルドゥの斧の音。
一つでも欠けたら終わる。
彼らを、死なせるわけにはいかない。
喉の奥がひどく乾いていた。
雨が降っているのに、口の中は砂を噛むようにざらついている。
肩が、足が、熱く痛む。
胸の奥に沈殿していた“恐れ”が、静かに膨らんでいくのがわかった。
――負けたら、誰も戻れない。
喉元へ銀の閃きが来た、その瞬間だった。
地面のひびから、冷たいものが指先に触れる。
雨が染み込んだ石の目地に沿って、透明な線が走った。
――雨? ちがう。これは……。
呼吸が一拍、止まった。
視界の色がふっと薄れ、音が遠ざかる。
剣戟の音も、雷鳴も、兵の叫びも、まるで海の底に沈んでいくようにぼやけていく。
世界が、静止した。
雨粒が空中で止まっていた。
一粒一粒が光を受けて淡く輝き、オリビアの頬を撫でる。
時間の感覚が、まるごと剥がれ落ちていくようだった。
胸の奥に溜まっていた感情――焦り、恐れ、そして“守りたい”という叫びだけが、真っ直ぐに浮かび上がる。
――護らなきゃ。
掌の中に、確かに“水”があった。
雨ではない。
彼女の意志に応えるように、冷たく、静かに脈打っている。
オリビアの手のひらから水がこぼれ落ち、風がそれを抱き込む。
渦が生まれ、白い霧が立ち上った。
霧はただの水気ではない。刃の届く線を曖昧にし、雷の狙いを鈍らせる密度を持つ。
「……水、だと」リュカが初めて声を揺らす。
「ヴィンス!」
「合わせろ!」
ヴィンスの掌にも水が集まり、魔力の微弱な震えが霧全体へ伝播する。
二人の水が周波を合わせたように共鳴し、霧が一気に濃く、重くなる。
帝国兵の足元で濡れた石が滑り、二、三人が同時に体勢を崩した。
雷撃が霧を裂くたび、光は拡散し、焦点がぼやける。
オリビアは剣を拾い上げながら、戦場を“聴く”。
仲間の呼吸、足音、武具の擦れる音、悲鳴を飲み込む気配――
戦いを続ければ、失う。
その思いが、先ほどの“静止”の余韻とともに胸を締めつけた。
決断は一拍で降りた。
「――全隊、撤退する!!」
号令は霧より濃く、砦全体を震わせた。
「ラウニィー、負傷者を最優先!」
「わかった、左翼から運ぶ! サンド、肩貸して!」
「当然だ!」サンドがラウニィーの横に入り、倒れた兵を抱え上げる。
「エルドゥ、後列の合流線を開けろ。通す!」
「了解、道を作る!」エルドゥが斧で瓦礫を払う。
「ヴィンス、霧の密度は保って。強すぎると味方も迷う。私の合図で層を薄くする」
「了解。層を三段に分ける。進路だけ開ける」
「ダナン、歩けない者には簡易支柱。出血の強い者は布で圧迫を。行ける?」
「行ける!」
撤退は敗北じゃない。今は“次へ繋ぐための勝ち筋”だ。
オリビアは風で隊列の輪郭をなぞるように、背中を軽く押す。
走るべき方向、踏むべき段差、避けるべき穴――風がそっと耳に触れて合図する。
雨脚は少しずつ強くなっていた。
それでも不思議と、彼女のまわりの雨は霧へと変わり、流れを描いている。
水が、彼女の決意に応えているのだ。
霧の向こうで雷が唸る。リュカの声が短く響いた。
「逃がすな」
だが、視界は奪った。追撃は遅れる。
石畳から土道へ、砦の外縁を抜ける。霧は低く漂い、足元だけを濡らす高さに保たれている。
「右、根っこが出てる、気をつけて!」
ラウニィーが声を飛ばす。
「任せろ!」
サンドが抱えた兵の足先を庇うように体勢を変える。
「交代だ、オレさまが持つ!」
エルドゥが負傷兵を肩に担ぎ替え、呼吸を整えずにそのまま走る。
「ヴィンス、息が荒い。もう少し霧を私に」
「……受け取れ」
短く返事をすると、霧の“層”の一部がオリビアの手元に移ってくる感覚がした。水と風が重なり、ぴたりと噛み合う。
背後で雷光が走り、樹冠の間を白く照らす。距離はある。いける。
「左へ折れる。小川沿いに出る。音で紛れる」
「了解」
小川のせせらぎが、荒い呼吸と血の匂いを薄めていく。霧はそこへ吸い込まれるように低く走り、足跡を隠した。
「……逃げるか。だが、次は仕留める」
霧の奥からリュカの声。約束のように冷たい声だ。オリビアは振り返らない。約束は約束で、こちらにもある。
森の奥、湿った土の匂いが濃い場所で足を止める。葉の先から滴が落ち、誰かの肩で弾けた。
サンドは背を木に預け、深く息を吐く。
「……生きてるな、オレたち」
ラウニィーが頷き、額の汗を拭う。
「指示が速かった。助かったよ」
エルドゥは斧の刃を布で拭きながら「次はもっとやれる」と短く言い、ダナンは手早く包帯を巻き直している。
ヴィンスは少し離れた場所で空を見上げ、静かに息を整えた。
「水、か」
オリビアは自分の掌を見つめた。薄い泥が爪に入り込み、その下で、まだ冷たい水の感触がかすかに残っている。
「さっきのは……偶然じゃないよね?」
ラウニィーが問いかける声は、どこか子どものように真っ直ぐだ。
「分からない。ただ――確かに、そこにいた」
「“いた”?」
「風と一緒に。私の中に」
ヴィンスが歩み寄る。表情は淡々としているが、瞳だけが少し熱い。
「水の波形が、お前の風に“重なった”。理屈は後でいい。実戦であれだけ制御できたなら、鍛えれば武器になる」
「訓練計画、組もう」
「頼りにしてる」
短いやり取りの後、二人は同時に小さく笑った。戦場で交わすには贅沢な、未来の話だ。
ラウニィーがオリビアの袖を指でつまむ。
「リヴィ」
「うん」
「大丈夫。アタシたち、まだいける」
その一言で、胸の奥に残っていた震えが少し収まった。
オリビアは立ち上がり、空の切れ間を見上げる。木々の間から朝日が差し、薄い霧が金にほどける。
「この空は……必ず奪い返す」
風がその言葉を拾い、葉を揺らした。水の粒は朝日に溶けた。
戦いは、ここから空へ向かう。
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