第三話 銀の風
甲板に飛び移った瞬間、オリビアの鼓膜を甲高い金属音と怒号が切り裂いた。
帝国兵たちの鎧がぶつかり合い、斧と剣、盾と魔導砲が交錯する。
敵艦の甲板はすでに混戦状態だった。
だが、これは“本当の空戦”とは程遠い。
(……わかってる。これはただの局地戦、小競り合いにすぎない。)
(帝国は本気じゃない。彼らにとっては、この一隻を失っても戦局に影響はない。)
オリビアは甲板に身を沈め、戦況を一瞬で俯瞰した。
砲塔の角度、弓兵の配置、魔導制御室の位置、船体の揺れ……
そのすべてが、彼女の頭の中で瞬時に整理されていく。
(この船の運用も、まだ洗練されていない……訓練用、もしくは前線哨戒艦。)
(つまり、帝国は“力を誇示”しに来ただけ。戦う必要があるとも思っていない。)
敵兵たちの顔に、ほんのわずかな余裕が滲んでいる。
――空の覇権を握る者特有の、地を見下ろす者の油断。
「サンド、左舷を押さえて!」
「任せろォッ!」
重盾部隊が正面から敵陣にぶつかり、火花と衝撃が甲板を震わせた。
盾に叩きつけられた魔弾が斜めに滑っていき、後ろの兵をかすめて空へと消える。
ラウニィーの矢が、砲塔を撃ち抜くたびに、帝国兵の士気がわずかに揺らぐ。
「さっきまで上から撃ち下ろしてたのに……撃ち返されるの、慣れてない顔してるじゃない。」
彼女の声には皮肉と余裕が滲んでいたが、オリビアはその言葉に頷きながらも、心の奥に冷えた感触を残していた。
(……これは、ほんの小さな綻び。帝国の空の牙城を崩すには、まだ何十倍もの戦力差がある。)
エルドゥは先陣を切り、すでに敵の砲台へと突撃していた。
軽やかさとは程遠い巨体のはずなのに、彼の動きは狼のように素早い。
轟音とともに大斧が火花を散らし、帝国兵が吹き飛ぶ。
「おらぁああああッ! 帝国の犬ども、空の上でもブッ倒してやるぜぇ!」
その叫びは勇ましいが、オリビアの脳裏には別の数字が浮かんでいた。
(この戦艦一隻を奪ったところで、帝国にはあと何十隻もの飛空艦がある。)
(こっちは——この戦いに“すべて”を賭けるしかないのに。)
ヴィンスが結界を破り、ダナンが軽快に動いて魔導制御室へのルートを切り開く。
オリビアは後方から戦況を見渡しながら、息を深く吐いた。
――これは勝つ戦いじゃない。
――負けを先延ばしにするための、小さな牙の一撃。
「全員、ブリッジへ向かうわ。頭を取る。」
「了解!」
小隊長たちの返事が重なった瞬間、風が吹き抜ける。
帝国の砲撃音が遠くに聞こえる。
(……本当の戦争は、ここからだ。)
甲板の中央を越え、オリビアたちはブリッジへの通路に差し掛かっていた。
戦艦の構造はすでに頭の中に叩き込んである。
帝国の飛空艦はどれも設計思想が似ており、制御の中枢は船体中央の高所、艦長席の奥にある。
(……ここさえ抑えれば、あとは艦そのものが“味方”になる。)
(けれど、そう簡単に奪えるなら……帝国は空の覇権などとっくに失っている。)
その一歩一歩が、あまりに重かった。
砲火の熱と焦げた鉄の匂いが肺の奥にまとわりつく。
後方ではサンドの盾が敵兵の攻撃を逸らし、エルドゥがその脇から敵を薙ぎ倒す。
ヴィンスは魔導波の流れを読み取りながら、通路奥の結界を切り裂いた。
「ここから先は、正面突破になるぞ。」
ヴィンスが短く息を吐く。
「どのみち、艦長はこの奥よ」
オリビアは静かに答えた。
その瞳には、一瞬の迷いもなかった。
(この戦いは“勝利”じゃない。痛烈な、帝国の頬への一撃。
空を奪えると思わせること。それが、この作戦の核心。)
帝国はまだ、こちらを「空を知らぬ地上の虫けら」としか見ていない。
だから、ここで一度だけ牙を剥く――それだけで十分だ。
「行くよ、リヴィ!」
ラウニィーが矢を構える。
「全員、間を空けないで!」
オリビアの合図と同時に、通路が地鳴りのように震えた。
帝国兵が雪崩れ込んでくる。
甲冑の音が鉄の壁を反響し、狭い通路はたちまち血と火花の渦に包まれた。
ラウニィーの矢が一閃し、敵の前列の喉を射抜く。
サンドの盾が次の一撃を受け止め、そのまま押し返す。
「どけェッ!」
エルドゥの斧が通路ごと敵兵を吹き飛ばした。
「ヴィンス、結界は!?」
「あと数秒――通るぞ!」
魔導の火花が散り、バリケードが焼ける。
ダナンがすかさず駆け抜け、踏み台のように壁を蹴って一気に跳び上がる。
その身体がひらりと宙を舞い、先頭の敵兵を蹴り飛ばすと、通路の奥に続く艦橋のドアが見えた。
「――あれが、中枢。」
帝国の心臓部。
艦を支配するのは、構造でも兵でもない。
“艦長”という象徴的な存在だ。
オリビアは深く息を吸い、双剣を握り直した。
(ここで艦長を討つ。それだけでこの艦は……一瞬で牙を失う。)
ラウニィーが矢を撃ち、サンドが盾で壁をこじ開ける。
轟音とともに艦橋の扉が吹き飛んだ。
――その奥、わずかに赤い光が差し込むブリッジに、ひとりの男が立っていた。
深紅の軍服、白い手袋、整った立ち姿。
まるで戦場に立っているのではなく、舞踏会の中央にいるような姿勢だった。
その視線はまっすぐオリビアを射抜いている。
「……やはり、来たか。」
低い声だった。
怒りでも焦りでもない。ただ、冷たく見下ろすような声。
(……やっぱり。)
(この男は、私たちを“敵”として見ていない。ただ、少し鬱陶しい虫が艦に入り込んだ……それだけ。)
「貴様が……シルヴァランの’’銀の戦乙女’’か。」
「ええ。そう呼ばれてるらしいわ。」
「空の覇者に刃向かうとは、勇敢か……それとも愚かか。」
オリビアは一歩前へ踏み出した。
艦橋の床に、彼女の長い銀髪がさらりと舞う。
「勇敢でも、愚かでもいい。私は――空を這いつくばるつもりはないの。」
一瞬、空気が震えた。
艦長が剣を抜く。刃が赤い光を反射し、艦橋の壁を照らす。
その構えは無駄がなく、帝国の“教本”のような完璧な立ち姿だった。
オリビアもまた、双剣を構える。
風が背後から吹き抜け、彼女の髪をなでる。
「――覚悟しなさい。」
次の瞬間、二人の影がぶつかった。
金属音が甲高く響き、衝撃が床を揺らす。
帝国艦長の剣は重く、まるで空そのものの威圧をまとっているようだった。
一撃一撃が、地上の兵とは格が違う。
(重い……。)
だが、オリビアは目を逸らさなかった。
たとえ今届かなくても、刃を伸ばさなければ永遠に届かない。
「うおおおおおおッ!!」
エルドゥの咆哮が響き、後方で味方の援護が走る。
サンドが盾で後続兵を押さえ、ラウニィーが矢を放ち、ヴィンスが制御盤の防壁を崩していく。
帝国艦長の剣先が、ほんのわずかに揺らいだ。
その一瞬――オリビアの身体が風のように滑り込む。
「この空は――渡さない。」
双剣が閃き、剣先が帝国艦長の首元をなぞった。
静かな音。剣が床に落ちた。
男の瞳に、ようやくほんのわずかに“怒り”が宿る。
だが、それも長くは続かなかった。
崩れ落ちるその姿は、空の覇者などではなく――ただの人間だった。
**ブリッジを制圧した瞬間、甲板の戦いが一変した。
敵兵たちの動きに迷いが生まれ、砲台の火線が止まる。
操舵室の魔導制御がオリビアたちの手に落ちたのだ。
ラウニィーが高らかに叫ぶ。
「ブリッジ制圧! 制御、私たちの手の中よ!」
歓声が湧き起こる。
だが、オリビアの胸の奥は静まり返っていた。
(たった一隻。たったこれだけで喜んでいられるほど、私たちに余裕はない。)
(帝国は今、この艦を失っても痛みもしない。きっと、別の艦で今日と同じように空を焼くだろう。)
双剣を下ろし、赤い空を見上げた。
「……この戦いは、まだ始まりにすら届いていない。」
風が甲板を抜け、彼女の銀髪を揺らす。
夜明けの空は燃えていた。
まるでこの戦争が、これから本当に“始まる”と告げるように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます