黄色い花

@sabo527

黄色い花

 寝込むようになって、彼の胸の真ん中あたりに出来た豆粒くらいの膨らみはますます大きさを増していった。。

「先生、お弟子さんがまた参られましたが如何しましょう」

  女中の問いに、今は独りにしてくれないかと彼は答えた。

  皆俺が死ぬのを待っているのだ。死など大事ではないのに、死の前に会っておきたいと思う輩が多いのだろうなどと彼は皮肉を巡らし、なんとも無しに胸の出来物をいじっていると、それは突然芽を吹いた。


  比喩でも何でも無く、薄緑の芽が彼の胸の中央から生えてきたのである。


「珍妙なこともあるもんだな」

  気持ち悪くもあり、彼がそれをつまみ取ろうとすると、驚くべきことに彼の耳に芽の悲鳴が聞こえた。

「お待ち下さい、お待ち下さい」

  驚いて手を止める彼の目の前で芽はみるみるその丈を伸ばし、やがて小さな黄色い花を咲かせた。

「有り難うございます。花をつけることが出来ました」

「話せるのか?見たこともない花だが」

「あら、つれないこと。あんなに愛して下さいましたのに」

  聞けばそれは落花生の花だと言う。確かに彼は、周囲が止める程に落花生を好んでいた。 花はその恩を返したいと言う。

「やがて、私は貴方の胸の中に実を成します。そうすれば、貴方は再生を繰り返して死ぬことの無い体になりますよ」

  少し考えて、いや考えるまでも無く答えは決まっていたのだが、彼はそれを断った。

「死ぬは大事にあらず。自然の摂理であればどうしてそれに逆らえようか」

「なれば、貴方の生きた証である数々の作品に永遠の命を授けましょうか」

 それもまた考え物だ。忘れ去られるものならそれはそこまでの物だろう。それよりは自分を慕って集まった若者達や教え子の方が余程財産だと彼は思っていた。

「その若者達やご家族、ご子孫にも関わりがありましてよ」

  声に出しては言っていなかったはずだが。花は構わずに進める。

「人間を、営みを、俯瞰視した貴方の小説はその高邁さがやがては傲慢と見られましょう。それは人の見方ではありません。神ならざる人の身で高位から愛情を注いだお話の数々は凡人を妬ませるには充分に過ぎました」

  それが身の後世に災いを成すと花は言う。

「笑える話ではないな」

「この国は」花は突然『国』、と言った。 

 「この国は選べない選択肢を突きつけられながら、やがて引き返せない混乱へと陥ります。その時に、貴方の小説やその生きた時代は、多くの辛酸を舐める人々の恨みの対象にされます。無論、貴方のお弟子さんやご家族も」

  どうすればいい、と彼は心で問うた。言葉に出さなくても花には通じることは分かっていた。なんとか出来ないものか。

「では、その時に死ぬはずの貴方のお話に命を吹き込みましょう。苦渋に満たされた世の中でも貴方の小説が人に光を与えられるように」

 そうしてくれないか。彼は心から願った。が、青々と艶めいていたその葉の先が少しずつ色褪せていくのに彼は気づいた。

「枯れていやしないか」

「時間が足りなかったのかも知れません。実を結ぶ前に貴方の命が尽きてしまってはどうにもいけません」

 その声も次第に弱っていく。

  花が首をもたれていく。葉はますます色を失い、彼は呻くように叫んだ。 その呻きに、女中が慌てて駆け込む。

「先生、どうなさいました。苦しいのですか」

  彼は胸元をはだけ出し、懇願した。

「ここに、水を、かけてくれ。死ぬと困るから」

  女中が綿に含ませた水を彼の胸元に垂らすと、花は再びその色を取り戻した。 約束しますよ、と、花が彼にささやく。

 ありがとうと答えて、彼の意識はストンと落ちた。


 明治の文豪夏目漱石の著作は、その死後も永く忘れ去られること無く人々に愛されるものとなった。

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