屑の感想

なのるななどない

屑の王国

 この気持ち悪さは、いつから隣にいるのだろう。

 物心ついた頃には既にいたような気もするし、どこか途中で生まれたような気もする。詳しいことは覚えていないが、いずれにせよ、いつでもどこでも常にこの気持ち悪さが全身に纏わりついているのを感じながら生きてきた。

 それが初めて和らいだのは、数年前。父が死んだときだった。病死だった。常に僕に付きまとっていた不快感が、少しだけ和らいだのを感じた。悲しみは特になかった。ただ、少しだけ胸のつかえが取れたような、そんな感覚だけがあった。

 誤解なきよう言うと、父とは別に不仲だったわけではない。働いて生活費を稼ぎ、休日は家族と遊び、褒めるべきときは褒め、叱るべきときは叱る。なんなら皆が羨むような、よくできた父親と言えるだろう。実際、僕も父のことは嫌いではなかった。鬱陶しく感じたことはあったが、それも普通の反抗の範囲だったはずだ。

 だから、父が死んだ時は驚いた。人並みに悲しむだろうと身構えていたのに、実際にはまるで悲しくないどころか、すっきりしてしまったのだから。しかし、その時はまだ深く意識していなかった。急な死に、心が鈍感になっているだけだと思ったからだ。


 それが誤りだと気づいたきっかけは、妹の死だった。


 妹は、子供の頃はそれは可愛かったが、知らず知らずのうちに反抗的になっていき、中学に入る頃には立派に不良をしていた。何かと僕と比べられることに不満が多かったのもあるかもしれない。僕は目立たないけれど、比較的成績も態度も良かったから。

 そんな妹が、父が死んでから不安定になった。泣き叫んだり、急に黙り込んだり、僕に怒鳴り散らしたり、妙に甘えてくるようになった。父子家庭だったから、庇護者の喪失で急に恐ろしくなったのかもしれない。幸いにして父は貯金をしっかり残してくれていたし、僕もその頃には就職していたので、2人でも食いっぱぐれる事はなかった。

 けれど、やがて残業が増えて、家にあまり帰れなくなっていった。妹のメッセージにもあまり返信できず、おざなりな対応になっていたのは否めない。それが良くなかったのだろう。妹はますます不安定になっていった。高校にも行かず、外で夜中まで遊び歩いたり、部屋に引きこもったりと、極端な行動は日に日に悪化していった。


 その日は、確か春の日だった。

 雪が溶け、暖かい日差しが差し込むようになってきた頃、対照的に、僕の仕事の忙しさはピークに達していた。日々ストレスを感じながら、それでも妹を養わなければならないと、身体に鞭を打ちながら働いた。嫌いな上司にも笑顔で対応し、時に深々と頭を下げながら。そうするたびに強まる吐き気を押し殺すのにはひと苦労したが、その甲斐あって職場でもそこそこ評価されるようになってきていた。

 その日、珍しく、妹から着信が沢山来ていた。けれど、仕事が忙しくて取れなかった。メッセージも沢山来ていた。死にたいとか何だとか、そんな弱音がほとんどだったように思う。思えば、このとき僕がちゃんと対応できていれば、未来は違ったのかもしれない。

 けれど、僕だって我慢の限界を迎えていた。僕がこんなに我慢して働いているのに、お前の為に働いているのに、何もしていないお前が何で死にたいなんて言うんだ。死にたいのはこっちの方だ。僕は感情の赴くままに、だったら死んでしまえ、とメッセージを送った。他にも、色々と罵詈雑言を連ねたかもしれない。

 妹からのメッセージと着信は止まった。僕は胸を撫で下ろして仕事に戻った。思い切り気持ちを吐き出して、少しすっきりしたのもあったのだろう。これまでにないくらい仕事が捗った。残業が終わり、妹にも悪いことをしたな、という気持ちが沸き上がってきた。だから、ケーキの一つでも買って帰ってやることにした。苺のショートケーキ。妹は苺のショートケーキが大好きだったから、きっと機嫌を直してくれるだろう。

 ただいま、と扉を開けて挨拶をした。無音。部屋は暗かった。また外出しているのか。そう思って電気をつけて妹の部屋を見に行った。そこには死体が転がっていた。手首を深く切って、血塗れで、目を開けたままの妹の死体だった。目が合った。その目は、泣いているように見えた。

 僕は、けれども、ああ掃除が大変だなと思うだけだった。そして同時に、胸の奥の吐き気がまたすっと収まっているのを自覚した。まだ夜は肌寒い春の日のことだった。

 

 なるほど自分は人でなしなのだ。そう自分を定義すれば、少し気が楽になった。つまり僕は、人が死ぬと気分が良くなるような生き物なのだ。常に付きまとう気持ち悪さは、そんな人でなしへの罰なのだろう。

 死のう。そう思った。こんな生き物は生きているべきではないと。

 しかし不思議だったのは、ニュースを見ても何も感じない事だ。海の向こうのニュースでは、戦争や災害で今日も沢山人が死んでいる。だというのに、それを聞いても、気分がすっとすることはなかった。

 もしかすると、この人でなしを満足させるには、情報ではダメなのかもしれない。目の前で人が死ぬ実感が必要なのかもしれない。そう考えるのと同時か、あるいはそれより先か、僕は自殺サイトを検索して、その内容を食い入るように眺めていた。

 そこにあったのは苦しみの山だった。苦しみから逃れたいという原始的で、それでいて切実な願いたちだった。自殺と名を冠してはいるが、僕のように、自分を殺さなければならない、などと考えている者は一人もいなかった。みんな、ただ、死にたいだけ。その純粋さを少し羨ましく感じたが、すぐに不謹慎だと頭から振り払った。


 僕が欲していたのは、自殺オフというものだった。言うなれば集団自殺だが、要は一人で死ぬのは寂しいから皆で死のう、という目的のオフ会だ。以前の僕であれば鼻で笑って、死にたきゃ一人で死ねよと吐き捨てていただろう。どうせ死ねば無。孤独なんだ。それを望んでおきながら、死ぬ寸前まで人と関わりたいなんて笑わせる、と。

 けれど、今は気持ちが少しはわかる。死ぬ前に、せめて気分よく死にたいのだ。生きている間に救われなかったぶん、少しでも報われて死にたいのだ。僕もそのために自殺サイトを見ているのだから、気持ちがわからないはずはない。死にたい動機と同じく、集団自殺を希望する動機もまた周りとは違っていたが、まあ、結果は同じだ。

 しばらくサイトを巡っていると、一件、近所で行われる自殺オフがあった。参加者は僕を除いて5名。丁度いい数字だった。僕は早速それに参加表明した。服毒自殺。場所はわかりやすく山奥。現地集合。そこできっと、僕は救われる。


 そして当日。僕らは最初で最後の顔合わせをした。

 男女比が丁度一対一で、合コンみたいだな、とぼんやり思った。主催者と思しき女が、参加者たちに薬を手渡した。これを飲めば苦しまずに死ねるのだという。女は薬に詳しいのか、その成分と効能をベラベラと話していたが、誰もマトモには聞いていなかった。みな、死ねさえすればそれでいいのだから。

 一人一人、薬を口に含み、水で流し込む。そして、横になって、その時を待つ。僕も薬を口の中に入れて、水を飲んで、横になった。薄目を開けて、辺りを見る。変化はない。しばらく待ってみる。変化はない。……いや、よく見れば、あった。

 目の前の女――40くらいの、小太りの女だった――は、会った時から息が荒く、ずっと肩で呼吸をしていた。その動きが、止まっていた。そして、耳を澄ましても、呼吸の音はない。息をしていないのだ。知らない間に、本当に眠るように死んでいた。

 なのに、僕の心は、あまり晴れなかった。せっかく目の前で人が一人死んだのに、嘘みたいに何も感じなかった。気分が良くならないだけならまだしも、嫌な気持ちにすらならかなった。無だ。こんなはずじゃなかった。せめて、最期に一度だけ、満足いくまで人の死を味わってから、この人でなしを永久に葬り去ってやろう。そう思っていたのに。これじゃ死ぬに死ねない。気持ち悪さが、今この瞬間も僕の身体を覆っている。そんなのは嫌だ。せめて死ぬ瞬間くらいは、満たされていたいじゃないか。

「あれ……あなた、死んでないね?」

 ふと、そんな声が聞こえた。それは、実に久方ぶりに聞いた、人の声な気がした。女の声だった。先ほど、薬について説明をしていた主催の女だ。いつのまにか、僕の目の前に立っていた彼女は、僕の瞼を無理矢理こじ開けてきた。

「ほら、やっぱり生きてる。瞳孔を見ればすぐわかるんだから、死んだフリしてもダメ」

 それが、彼女と僕との出会いだった。


 一言で言えば、彼女は異常者だった。医学部の大学院生を名乗る彼女は、独力で薬を開発したらしい。そして、開発したからには試してみたかったそうだ。だから、自殺志願者を集めて、人体実験をしてみたのだという。結果は大成功。僕以外の参加者は眠るように死の淵に沈んだ。

 そんな話を、彼女は心底楽しそうに語っていた。異常者と言う他ない。

 僕がなぜ生きていたかというと、その劇薬を口に含んだが、まだ飲み込んでいなかったからだ。皆が死ぬのを見届けてから死のうと思っていた。だから、死ぬわけにはいかなかったのだ。

 そんな僕に彼女は興味を示したようで、根掘り葉掘り色々聞いてくるのがとても鬱陶しかった。それはまるで、目に映る全てに興味を示す子供のようだった。やっていることはそんな可愛らしいものでは決してないのだが。

 僕は、根負けして、人の死が見たかったことを白状した。してしまった。父の死と、妹の死。その二つだけが、これまで生きてきて、僕がまともに呼吸をできた瞬間だったことを。誰にも理解されるはずのない、頭のおかしい話を、しかし彼女は終始笑顔で楽しそうに聞いていた。そして、やはり楽しそうにこう言った。

「だったら、世界中の人達を殺してみようよ」

 何の悪意もなく、何の呵責もなく。冗談だろうと思った。けれど、どうやら本気らしかった。彼女の専門は、薬学ではなく微生物学なのだという。なので本来、毒や薬を作るより、ウィルスや細菌を研究したり変化させたりするほうが得意なのだとか。研究室でも期待の新人と呼ばれていると、聞いてもいないのに自慢していた。

 それを鵜呑みにしたわけではないが、その提案には心惹かれるものがあった。殺して殺して殺しまくれば、もしかしたら、法則性がわかるかもしれない。僕が誰の死に心を癒やされ、誰の死では無意味なのか。それがわかれば、僕は救われるかもしれない。

 正気の考えではないと、我ながら思う。けれども、目の前にもっとおかしな奴がいたせいか、僕の心は麻痺していた。人生に絶望していたせいもあるかもしれない。そんな絶望の中に、一筋の蜘蛛の糸が下りてきたら誰だって掴まずにはいられまい。それが例えお釈迦様の垂らしたものではなく、悪魔がこしらえた糸だとしても。


 白状すると、それからの人生は少しだけ、ほんの少しだけ楽しいものだった。

 彼女と、どうやって人の死を見るかを語り合う日々。それを実現させるために各々がどうやって尽力すればいいかを考える日々。それは端から見れば狂気の沙汰でしかないが、僕たちにとっては充実した時間だった。僕は目的のために社会復帰して、仕事に打ち込み、着々とコネクションを増やしていった。

 その裏で、彼女の実験にも手を貸し続けた。彼女の作る新薬――それらは全て毒薬であったが――や、品種改良した細菌やウィルスで人体実験をした。用意するのは彼女、実行犯は僕だ。

 僕が被害者たちを手に掛ける様や、それにより被検体がどんな反応を示すのかなどを、彼女は熱心に観察しながら、記録を取り続けた。何度も、何度も。飽きもせずに。死体の処理こそ――特に最初のうちは――大変だったが、それは非常に有意義な時間だった。一歩一歩、目標に近づいていく実感があったからだ。

 また、実験の過程で一つ、わかったことがある。僕にとって、遠い人の死ほど無意味で、近しい人の死ほど気持ちが和らぐということだ。例えば、かつての会社の上司を実験台にしたときは、かなり心がスッとした。僕を目の敵にしていたクソ上司だった。だから最初に、嫌いなやつが死ぬことで、心が穏やかになるのだと推測した。

 けれども、それだと父や妹のことが腑に落ちない。無意識下で二人のことを嫌っていたのかとも思ったが、そうではない。確かに妹には嫌なところもあったが、それでも間違いなく彼女のことを愛していた。父に至っては、嫌う要素なんてどこにもなかった。よって、嫌いなやつを排除することで救われるという説は、棄却された。


 真実に至ったのは、昔の級友と久々に再会したせいだった。

 彼は当時、別段目立つタイプではなかった。けれどもなぜか無性に話が合った。だからよくつるんでいた。それだけの関係だった。卒業してから会ったこともなければ、連絡を取り合ったこともなかった。そんな彼と、仕事の場で再会したのだ。

 彼は、見違えたように明るく生き生きとして、活力に漲っていた。声をかけてきたのは彼からだった。というか、僕はそもそも彼が、あのときの級友だと気づけなかった。しばらく話し込んでからようやく気づいたくらいだ。

 仕事で才能が開花し、成功を収めつつある彼に、人生を謳歌する彼に嫉妬心がなかったかといえば、完全に否定はできない。けれど、それよりも、楽しかった。話が弾んだ。そして、彼と話し込むうちに、また例の隣人が――生まれた頃から僕に纏わりつく、あの不愉快な重みが少しずつ少しずつ強くなっていくのに気がついた。


 だから、彼を被検体に選ぶことにした。


 実験はいつものように大成功だった。彼は、苦しみ悶えて、地面に倒れ、動かなくなった。よりにもよって僕の友人相手の時にこんな劇薬を選ぶなんて、本当に僕のパートナーは性格が悪い。仮にも仲の良かった相手が苦痛に喘ぎ藻掻く姿は、見ていて本当に苦しかった。と同時に、そう感じる程度の良心が残っていた自分に、少し安堵もした。

 けれども、やはりというべきか、心が乱されたのは彼が苦しんでいる間だけだった。白目を剥いて動かなくなった彼を見て、僕の心は、スッと静まった。同時に、気持ち悪さも嘘のように静まっていることに気づいた。それどころか、とても穏やかで、晴れやかな気分になれた。こんな気持ちになれたのは、妹が死んだときぶりだろうか。

 それを自覚した瞬間、わかってしまった。嫌でも腑に落ちてしまったのだ。僕にとっての気持ち悪さの正体が。いつも僕に纏わりついて離れなかった、魔物の正体が。


 その名は、関係性。


 つまり、僕に関わる他人の気配や、他人の意思や意図など……それらが名状しがたい気持ち悪さという形で、いつでも僕の側に佇んでいたのだ。

 なんて、度し難い。

 人は関係性によって、群れを成し、社会を作り、ここまで存続して生き物だ。だのに、そんな当たり前の形こそが、僕の不快感の原因だったのなら、まさしく僕は『人でなし』と呼ぶに相応しい。人であることに耐えられない異物。それが僕なのだ。

 ああ、何のために僕は生まれてきたのだろう。なぜ生まれてしまったのだろう。僕は、今度こそ、本当に生きていることに耐えられなくなった。だから、彼女の作る毒薬を飲んで、死のうと思った。

 けれど、彼女はそれを許してくれなかった。それどころか、嬉しそうに、楽しそうに、天使のように無邪気な悪魔は、いつものように笑って、こう囁いたのだ。

「丁度いいじゃない。予定通り、世界中の人達を殺せば、あなたは救われる」

 これが悪魔でなくて何であろう。しかし、その甘美な提案に、僕は逆らうことができなかった。けれど、彼女はどうして僕の願いを叶えようとするのだろう。その動機がわからなかった。僕が尋ねると、彼女は子供のようにケラケラと笑いながら答えた。

「だって気になるじゃない。人類を絶滅――もしくは半壊させた末に、どんな世界が待っているのか。そのとき、私はどう感じるのか。気になったら、やるしかない。でしょ?」

 まるで共感はできなかった。けれど、奇しくも目的は一致していた。


 それからだ。僕がますます仕事に打ち込むようになったのは。転職先に選んだのは貿易会社。世界各国と取引をして、更にコネクションを増やす。そのために語学も学んだ。日本語しか話せなかった僕は、ものの数年で5カ国語を操れるようになっていた。目的のためなら、人はなんだってできるのだと、そのとき初めて知った。

 そして、僕の共犯者である彼女は、医者になっていた。微生物学の現場で、日々研究をする日々を送っていた。そこでは既にかなりの実績を挙げており、上からも高く評価されているらしい。お互いに、順風満帆な人生だった。

 そんな僕らは、交際を開始していた。申し出は彼女からだった。相変わらず理解はできなかったが、見た目も好ましいし、特に断る理由はなかったので了承した。お互いに仕事が忙しく、あまりプライベートな付き合いはなかったが、それでも合間合間に沢山色々話はした。身体を重ねることもあった。端からは、至って普通の恋人に見えただろう。

 本来ならば、これで終わりだ。過去に色々な過ちは犯したけれど、今は2人で幸せに暮らしている。後味の悪いクライムサスペンスの終わりとしては上々だろう。悪人が裁かれることなく世間に溶け込み余生を送るなんて、ありふれた現実だろう。

 ――本来ならば。

 僕らは、そういう関係ではなかった。はじめから、今まで、ずっと、目的が変わったことは一度たりともなかった。即ち、世界中の人類を殺し尽くすこと。僕がコネクションを増やし続けたのも、彼女が研究に打ち込んでいたのも、全てはそのためだった。

 僕が築き上げたのは、表のコネクションだけではない。権力に支配された狂人や、テロリスト、自殺志願者······ありとあらゆる者たちに、彼女の作り上げた新型ウィルスをプレゼンした。それは、概ね好感触だった。支配や攻撃のためにウィルスを使いたい者たちには、ワクチンも売りつけることにした。僕らの顧客は世界中に広がっていった。


 そして、とうとうこの日がやってきた。

 顧客にはあの手この手で、使用開始日をズラしてもらい、世界中でほぼ同時に使ってもらえるようにした。だってそうしないと、全世界を巻き込めない。どこかで先にウィルスがばら撒かれてしまったら、それに対処しようと人々は動き出してしまう。それでは、僕らの目的は果たされない。

 僕は、僕を取り巻く全てを消し去って、自由になりたい。彼女は、人々の死を感じ、人類の滅亡を見てみたい。そのためだけに、これまで生きてきたのだ。今さら失敗なんてしたら、それこそ僕らの人生はなんだったんだって話になる。

「もうすぐだね」

 うきうきした声色で、僕の腕の中の彼女は囁いた。ああ、もうすぐだ。あとは放っておいても、勝手に世界中にウィルスがばら撒かれる。致死率100%の、改良型ウィルス。僕と彼女は、その抗体を予め接種している。僕と彼女だけが、だ。

 つまり、売ったワクチンは全て偽物だということだ。当たり前だ。僕と一度でも関わった人間を、僕と『関係性を築いてしまった』人間を、僕が生かしておくわけがない。彼らの死をもって初めて、僕を苦しめ続けていた魔物も死ぬのだから。


 僕らは、住んでいるマンションの屋上に立っていた。そんなに高級なわけでもない、十階立てくらいの中層マンション。その屋上には、誰もいなかった。

 風が心地良い。フェンス越しに下を見れば、人々がひしめき動いている。何も知らずに、当然のように今日と同じ明日が続くとばかりに、警戒心もなく、蠢いている。

 遠くを見れば、そこにも人々の営みが見える。どこにだって、人はいる。どこにだって関係性は生まれる。どこにだって、僕の地獄は存在する。そんな逃れ得ない現実に、今日こそ終止符が打たれるのだ。

 僕と彼女は、ただ風を感じながら、その時を待った。とても穏やかな気持ちだった。言葉を交わすこともなく、ぼーっと下を眺めていると、一人が苦しそうに崩れ倒れた。それに気づいた男が駆け寄ろうとするが、すぐに同じように倒れた。

 そこからの混乱は、すさまじいものだった。

 急いで逃げようとするもの、誰かを助けようとするもの、他者をを突き倒し蹴落とすもの。反応は様々だった。人間性が透けて見えるな、と思った。こんな極限状態でも、善人は善人だし、悪人は悪人なのだな。ぼんやりとそんなことを考えた。

 けれど、どんな選択をしようと、結果は同じだ。

 彼女が研究に研究を重ねて作り上げたウィルスは、致死率100%。ひとたび触れれば、死から逃れる術はない。らしい。彼女がそう言ったのだから、実際そうなのだろう。まあ、原理はどうでもいい。実際、目の前でばたりばたりと人々が倒れゆく。それが事実だ。その光景を見ながら、僕は心の柵がひとつひとつ壊れていく音を確かに感じていた。

 ふと隣を見ると、彼女は心から嬉しそうに、身体を震わせて、眼下の光景を食い入るように見ていた。何を考えているのだろう。何年も一緒に過ごしてみたが、結局、この女の考えていることはちっともわからなかった。自分のウィルスの出来栄えに興奮しているのだろうか。それとも、人々の死に酔っているのだろうか。

 ――いや、どちらも違う気がする。恐らく、彼女は、人々の反応を見て、楽しんでいるのだ。その反応の違いを観察しているのだ。なんとなく、そう思った。

 きっと、これを観ることそのものが目的で、過程はどうでもよかったのだろう。ウィルスで死のうが、刺し殺そうが、核爆弾で吹き飛ぼうが、心底どうでもいいのだろう。

 そう考えると、なんとなく彼女のこれまでの言動にも筋が通るような気がした。幼子が見知らぬものに何でも興味を抱くように、彼女も、ただ知らないことを知りたいだけなのかもしれない。少しだけ、彼女のことが理解できたような気がした。

 ……理解できたところで、これっぽっちも共感はできなかったが。


 遠くから響いていた絶叫や怒号も、どんどん小さくなり、やがて、消えた。静かだ。風の音と、僕の心臓だけが聞こえる。ああ、心臓の音って、こんな音だったんだ。生まれて初めて、自分の鼓動を聞いたような気がする。

「そろそろ、下を見に行こうか?」

 彼女に従うように、屋上を降りていく。階段にも、死体が転がっていた。こちらに倒れ込むかのような姿勢のそれは、まるで僕たちに平伏しているかのように見えた。実際は、屋上に逃げようとしただけだろうが、無駄だ。だって、屋上より遥か上空を飛んでいた鳥すらも墜落するようなウィルスだ。逃げられようはずもない。

 しかし、人も、死んでしまえば意思も心もない、たたの肉片、ただのゴミクズだな。と、ふと思った。そんな屑肉に傅かれている僕たちは、さながら屑の王と屑の女王だろうか。そんな益体のないことを考えながら、階段を下りていく。

 妹が死んだときは、片付けが大変だなどと思ったものだが、こうもそこら中に散らばっていると、その気も失せる。どうせ、放っておいても困るのは僕たちだけだ。なんせ、世界には恐らくもう僕たちしか生き残っていないのだから。

 外に出ると、誰もが死んでいた。何度か挨拶を交わしただけの隣人も。いつもすれ違うサラリーマンも。近所の高校に通う学生も。いつも利用していたスーパーの店員も。そこに見知った顔を見つけるたび、僕の心は少しずつ、少しずつ自由になっていく。


 もう、十分だろう。


 だから僕は、自分にそう言い聞かせる。もう十分に満たされた。もう十分に息ができる。これ以上を求めてはいけない。そう必死に言い聞かせていると、くるりと彼女がこちらに振り返った。それは、初めて見る表情だった。困ったような、はにかんだような、まるで年端も行かぬ少女のような顔で、彼女は言った。

「次は、あなたの番だよ」

 その言葉が何を意味しているのかは、すぐに分かった。分かってしまった。だって、僕は彼女のことを最後まで分からず仕舞いだったけれど、彼女は最初から僕のことを何でもわかっていたから。だから、僕が今、何を考えているのかも、当然わかっている。わかった上で、そう言っているのだ。

 彼女は僕に近づくと、僕の手を握った。やめろ、と喉から震える声が漏れた。そんな僕を見て、彼女は笑った。くすくすと、普通の女の子みたいに。それから、優しい瞳で僕を見つめながら、握った僕の手を、彼女の首元に近づける。僕は首を横に振った。けれど、彼女はそれを否定する。

「ここまでは、私が夢を叶えるターン。あなたのおかげで、私は、見たいものが見られたし、やりたいことがやれた。本当に、本当に、ありがとう」

 それは、嘘偽りない、心からの音色だった。違う。僕は何もしていない。彼女の目的にフリーライドしていただけだ。だから、感謝をするなら僕の方だ。これからは、君のために人生の全てを捧げたっていいんだ。そう思っていたのに……。

「それは、私も同じ。私はなんでもできたけど、何をしたいかだけわからなかった。だから、あなたの夢に乗っかって、やりたい放題やらせてもらった。あなたがいなかったら、私は何もできず、何者にもなれずに燻ったまま死んでいたかもしれない」

 そんなことはない、と言おうとした僕の唇を、彼女の唇が塞いだ。しばらく唇を重ねたまま、僕らは静止する。ややあって、彼女からそっと離れた。僕はもう、何も言えなくなっていた。そんな僕を見て、彼女は優しく、本当に優しく言葉を紡ぐ、

「それじゃ、こう考えてよ。これは、私の最後の夢なの。一度でいいから、経験してみたかったの。心から愛する人に殺されるのって、どんな気持ちなのか。ね、お願い。私の最後のわがまま、いつもみたいに、聞いてくれるよね?」

 ああ、その言い方はずるい。そう言われたら、もう反論できない。だって、それだって君の本音だろうから。だったら、それを叶えるのが恋人の――僕の役目だ。

 僕は、彼女の首にかけた手に、ぐっと力を入れる。華奢な首だ。あの悪魔のような女のものとは思えない。その肌に、僕の指が、掌が、食い込んでいく。彼女の顔は赤く鬱血していき、締まりきらない喉からヒューヒューと小さな風音が聞こえる。

 それでも、彼女は抵抗しなかった。身体反応として僕に抵抗しようとしている手足を、必死に押さえ込んでいた。その動きも弱々しくなっていく。掌に伝わる反発も弱まっていく。そんな中、彼女と目が合った。苦しさに顔を歪めながら、それでも彼女は精一杯、目だけで微笑んで、その唇を動かした。あいしてるよ、と。

 それを最後に、完全に動かなくなった。


 僕が手を離すと、どさり、とその場に彼女は崩れ落ちた。ああ。その瞬間。その刹那の快感を、僕は決して忘れないだろう。ずっと隣にいた、ずっとずっと僕を苦しめ続けていた、あの怪物が消えた。もう、どこにもその気配はなかった。

 ウィルスで人がどれだけ死んでも、顔見知りの死体をどれだけ見ても、決して晴れることのなかった、むしろゆっくりと濃さを増していったあの感覚。物心ついたときから隣にいた、心底から気持ちの悪いそれ。関係性と言う名の悪魔が、ようやく死んだ。

 そして、悟った。いつのまにやら、彼女こそが、僕の最も大切な人に――最も近しい存在になっていたことに。いつの間にやら、心を許しきっていたことに。

 僕は、彼女の亡骸を抱き起こして、一度だけそっと抱きしめた。抱きしめて、耳元で囁いた。ありがとう、愛してる、と。それから、おもむろに彼女の身体を地面に寝かせた。眠るように横たわる彼女の口元は、心なしか、笑っているように見えた。

 それで終わりだ。彼女は死んだ。


 もう一度言おう。人は死んでしまえば肉の塊に過ぎない。死肉は魂も心も持たないゴミクズだ。そして、生きている僕もまた、救いようのない人間の屑だ。この世界に残っている人類は、きっともう、僕しかいないのだろう。

 であれば、ここにはもう、屑しかない。折り重なった屑の山の上の、屑の王。国民は総勢1名。屑の、屑による、屑のための王国。屑の王国が、今ここに完成した。

 ふう、と一息ついて、僕はマンションの自室に戻る。僕と彼女が暮らしていた、今は僕だけのための空間。そのダブルサイズのベッドに、身を投げる。ああ、とても眠い。

 今なら、心地よく眠れる気がする。もはや、僕に纏わりつくものは、何もないのだから。ここが僕の玉座。僕の世界。僕の生まれた意味そのもの。身体がベットに沈んでいく。それと同時に、意識も闇も中へと、ゆっくりと沈み込んでいき――


 ――その日、僕は生まれて初めて、心の底から安心して、深い深い眠りに落ちた。

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