第10話



「こ、こちらです…」



 ソフィア夫人は俺をパーティー会場から侯爵邸の奥へと案内する。

 今日は大きなパーティーなので使用人もパーティーの方にかかりきりのようでソフィア夫人が案内する侯爵家の人間の居住区域には人気がない。


 俺もソフィア夫人と一緒のところを見られると何かと都合が悪いのでちょうどいい。

 ソフィア夫人に連れられて侯爵邸の奥の二階へと上がる。



「ここが私の部屋です。いつ来ても使えるようにしてあるはずなのでここをお使いください」



 重厚な扉の一つを開けたソフィア夫人は俺の方を振り向いて中へ入るよう促すが自分自身は部屋に入ろうとはしない。

 それは当たり前の話で夫でもない男と密室にいることは普通の貴族夫人は不貞を疑われるので俺だけを部屋で休ませようとソフィア夫人は考えたのだろう。

 だがここまで来て獲物を逃がす俺ではない。



「ありがとうございます。ソフィア夫人。良かったら服が乾くまで部屋の中で少しお話しませんか?」


「え? あ、あの…でも…」



 俺の言葉にソフィア夫人は狼狽える。


 自分は人妻だから俺と密室の部屋にいるのは避けなければならない。

 しかし、俺の誘いを無下に断って俺の機嫌を損ねることもしたくはない。


 そんな葛藤がソフィア夫人の緑の瞳に宿る。



「もちろんソフィア夫人とお話している間は扉を開けたままにしておきますので」



 結婚している夫人やまだ結婚前の令嬢と二人きりになる場合は礼儀として扉を開けておく。

 そうすれば密室ではないので不貞を疑われることはないというのが貴族の常識なのだ。

 俺がそう提案したのでソフィア夫人も少しホッとした表情になる。



「は、はい。それなら…」


「では部屋にどうぞ」



 先にソフィア夫人が部屋に入り俺がその後に入る。

 そして約束通り扉を少し開けておく。


 ソフィア夫人は俺が約束を守ったのでさらに安心したようだ。

 表情には僅かに笑みが戻っている。


 獲物を狩る場合は焦ってはいけない。

 それにソフィア夫人との同意が取れなければ一晩の恋はできない。



「ソフィア夫人はどうぞソファへお座りください。上着を脱いでよろしいですか?」


「あ、は、はい。どうぞ」


「では失礼して」



 俺は濡れた上着を脱いだ。

 やはり濡れたのは一番上の上着だけのようだ。

 これなら乾くまでそんなに時間はかからないだろう。


 その間にソフィア夫人は部屋の中にある小さなソファに座る。

 部屋の中をそれとなく見渡すと天蓋付きのベッドが一つあり家具は女性向きの物だ。


 ここがソフィア夫人の個人の部屋だというのは間違いないだろう。

 結婚前に使っていた部屋に違いない。


 俺は上着を乾かすために部屋にあったコート掛けに掛けておく。

 そしてソファに座るソフィア夫人に近付いた。


 ソファがあるといっても応接室のような場所ではないので二人掛けのソファが一つしかない。

 必然的に俺がソファに座るとなるとソフィア夫人の隣りに座ることになる。



「お隣に座ってもよろしいですか? ソフィア夫人」


「は、はい…どうぞ」



 小さな声で答えるソフィア夫人の隣りに俺は座った。

 触れていなくてもソフィア夫人の身体に緊張が走るのを俺は感じ取る。


 まずは獲物の警戒心を解かないといけない。

 強引に追い詰めると獲物は逃げてしまうからだ。



「ところで私はオスフィール伯爵とはあまり直接お話したことはないのですがオスフィール伯爵はどのようなお仕事をされているのですか?」


「え、えっと、夫は領地経営で手に入れた資金で絵画の売買を行っているんです。あまり仕事の内容までは深くは知りませんが…」



 俺が普通に世間話的に話し出したのでソフィア夫人も僅かに緊張を解いたようだ。



 オスフィール伯爵は絵画の売買をしているのか。



「そうですか。それなら今度オスフィール伯爵にお会いしたいですね。ちょうど王宮に飾る絵画の入れ替えを検討していたので」


「え? それは本当ですか?」


「ええ、私はこれでも宰相補佐官ですからね。王宮の備品などの管理をしているのです」



 それとなく俺の地位をチラつかせてみる。

 自分の売った絵画が王宮に飾られたりしたら絵画の取引をするオスフィール伯爵にとっては名誉な話になる。



「そ、そうでしたわね。し、失礼なことを申し上げてすみません。バールデン伯爵様。でもそのお話を夫が聞けば喜ぶと思います」



 ソフィア夫人は改めて俺がただの伯爵ではないことを認識したらしい。

 そこで俺は攻撃に出る。



「私のことはエミリオと呼んでくださいと言ったではありませんか?」


「え? で、でも…それは…」



 俺はソフィア夫人の緑の瞳を見つめたまま手袋をした手を掴み手袋越しに手の甲にキスをする。

 ビクッとソフィア夫人の手が震えたが俺は視線を外さない。



「オスフィール伯爵とも親しくしたいのですがその前に私はソフィアと親しい関係になりたいのです。私ではあなたのお相手には不足でしょうか?」


「い、いえ、あの、でも…私は…」


「この部屋に我々がいることは誰も知りません。今宵のことはソフィアと私だけの秘密です。あなたの一晩の恋人になる栄誉を私に与えてはくれませんか? それに私と親しくすることはオスフィール伯爵家としても利益があるのでは?」



 笑みを浮かべて俺が甘く囁くとソフィア夫人の緑の瞳が揺れる。

 だがここで地位をチラつかせて脅すように関係を持ってはいけない。

 たとえ真実はソフィア夫人が俺に地位をチラつかせられて関係を持とうが最後の決断は相手側にさせるのが俺の流儀だ。



「私はソフィアの意志を尊重します。あなたが私と関係を持ちたくないのならこの部屋を出てください。そうしたら私は上着が乾いたら一人でパーティー会場に戻ります。もしそうなっても私がオスフィール伯爵やキャベルン侯爵に何か不利益なことをすることはないと誓いましょう。けれどもしあなた自身の意志で私と一晩の関係を持ちたいと思うならご自身でこの部屋の扉を閉めてください」



 俺はソフィア夫人の手を離す。

 ソフィア夫人と俺はしばらく無言で見つめ合った。


 そして意を決したようにソフィア夫人はソファから立ち上がり部屋の入り口の扉に向かう。

 俺は黙ってそのままソフィア夫人が俺に堕ちるか見ていた。


 一瞬、ソフィア夫人は開けられた扉の前で立ち止まったが、次の瞬間、ソフィア夫人は自分の手で部屋の扉を閉めた。

 部屋の中には俺とソフィア夫人だけ。これで部屋は密室になる。



 堕ちた。



 俺は密かに笑みを浮かべた。




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