Baby, it's time

中村Y字路

第1話 タツロウ

タツロウが居なくなったのは、

タツロウが現れてから3ヶ月目のことだった。


とにかく今はほんとに酷い状態で、3ヶ月でこんな事になるほど侵蝕されていたなんて信じられない。たった3ヶ月なのに。

具体的には会社を休職している。

頭ではわかっていても、私が見えなくなっただけなんじゃ、いまでもいるにはいるんじゃ、と思ってしまう。

「さよなら」も言われたし、目の前でさらさらと消えるのも見たのに。日の光に溶けるみたいに、白くきらきらとした流砂みたいに消えた。

手を振っていた。


幽霊とはなんだろう。

残留思念みたいなもの?


図書館で霊に関する本を探したけど、全然ピッタリくるものがなくて、本屋の一角にある精神世界コーナーみたいなところで気になる物を気づいたら1万円分くらい買っていた。全然わからなかった。こういうのを読むのにも素地がいるんだわ、ということがわかった。面白かったのは『視えるんです』という漫画だった。人型としてわかりやすく霊が視えるのは、一番近い感じがした。でも、触れるわけではなく、まして、具体的に男女的な意味で寝られるわけでもなかった。やはり、私の頭がおかしかっただけなのではなかろうか。



ベッドで隣にいた彼は

透ける身体をよそに、

何度も、何度も、何度も、

好きだ、と私に云っていたのだ。


聴こえない振りが出来たのは1週間で、

「あんまり無視してると、ユウリちゃんがお風呂に入って頭を洗っているときに後ろに立つからね。」

というなんだか空恐ろしい台詞が決め手の口説き文句となった。

最低である。

幽霊とのお付き合いだ。

霊感などまるでないはずの自分が、だ。

始めはもちろん、

「嗚呼、とうとう欲求不満のあまりに自分が妄想を猛々しくして幻覚が見えるようになってしまったのだ。三十路焦りのブルーマジック」

と思っていた。

しかし、会社のトイレに出没されたり、私の後ろに浮いていたりするのを霊感の強い上司が見つけて伊勢神宮を何故かすすめてきたり、歩く先々で猫がどんどん擦り寄ってきたりするうちに段々その存在が確定し始めた。

決定的だったのは、ちょっと前の地震だ。

台所のシンク上にある棚の空きスペースに押し込んでいたルクルーゼの赤いハート型の鍋が頭の上に落ちてきたのだ。

瞬間、死を覚悟した私の目の前で有り得ない方向に鍋がすっ飛び、冷蔵庫横の壁が大きく凹んだ。

「呆気なく死んじゃうんだからさ、もうちょっと楽しいことしようよ、ユウリちゃん。」

腰を抜かして座り込んだ私の目を覗きこんでくるその幽霊は、透ける身体を抱えるようにして私の側に座って言った。

「好きだよ、ユウリちゃん。ユウリちゃんが死ぬ前にその若い身体をなんとかしてみたいんだけど、どう?」

どうと言われても、と思った。しかも幽霊と交わるって一体どうなるのだ。

安いエロ漫画みたいだなぁと思いながら、とりあえずは丁重にお断りをした。

正座をして頭を下げて、それからゆっくり顔を上げたら、向かいに彼は正座をして神妙な顔をしていた。

一週間もの間もっと出来ることがあったとも実は思っている。般若心経だってそらで言えるくらい毎日きちんと仏壇に手を合わせる私だ。真剣に思えば、お経を唱えたり、どこかでお祓い出来たりしたはずなのだ。それを一週間も伸ばし伸ばしにしたのには理由がある。

顔がいいのだ、顔が。

その顔の良さは本当に迫力があるくらいすごくて、その半端ない端整さがいま神妙な表情によってさらに引き立っている。

揺らぐではないか、と、もうすでにぐっらぐらな私は思った。

俗っぽいなぁ、まだまだだな私も、とくらくらしながらもその場をすっと立ち、気を落ち着けたくて一旦外に出ようとベランダに出た。

春だというのに、外の空気は冬かと思うくらい寒くて、思いの外落ち着くには最適な温度だった。

「どうせ彼氏も何もいないじゃないの、ユウリちゃん。ちょっとくらい幽霊と付き合ったって人生かわりゃしないよ。」

いつのまにか隣に来た彼は、つまらなそうにそう言った。

「変わるでしょうよ。」

「何がよ?」

「知らないわよ。でもなんか変わる気がする。」

「…まぁちょっと寿命が縮むくらいだよ。」

「全然ちょっとくらいじゃないじゃないよ!!縮むってどのくらいよ?!」

「付き合う期間で変わる、んじゃない?その辺の細かいことは知らないよ。」

「なんでよ?」

「俺、新米だもん、まだ。」

「いつ死んだのよ?ていうかあなた誰なのよ?」

「サガラタツロウ。29歳。死んだのはひと月前です。よろしく。」

タツロウはにやにや笑いながら、透ける手を差し出してきた。

握れるのかどうかの好奇心が先に立ち、思わずその手に触れてしまった。

恐ろしいことに温度が、あった。


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