聖女は素直に悪魔に溺愛されない

肥前ロンズ@「おはよう、サンテ」発売中

第1話 堕とす悪魔と落ちない聖女(1)

 この世界には悪魔が存在する。

 それらを退けるのが、退魔師と呼ばれる者たちだ。

 だが悪魔も、真っ向から力で退魔師を倒そうとはしない。時に狡猾に、時に蠱惑的に、退魔師を陥落しようとあの手この手を使ってくる。

 それは、女退魔師に取り憑く悪魔も例外ではない。

 彼女に取り憑く悪魔は、彼女を一歩も部屋に出さないように、今日もありとあらゆる罠を仕掛ける。


 彼女の目の前には、悪魔が作ったパンケーキと、悪魔が淹れたエスプレッソがある。

 ナイフを入れたらあっという間に沈んでしまうふわっふわのパンケーキ。その一面には、生地と生クリーム、そしてチョコソースで立体的に作られた豆柴の顔があった。

『僕のこと食べちゃうの……?』と言わんばかりに、きゅるんとした目で見つめてくる豆柴。心ある人間であればナイフもフォークも入れるのを躊躇う。

 しかし彼女は躊躇いなくフォークでぶっ刺した。

 チョコソースで描かれた柴犬の顔が崩れて悲しげな顔になっても、仏頂面で平らげていく。

 エスプレッソには、ミルクの泡で作られたシマエナガが浮かんでいた。『ハテナ』を頭上に浮かべ、捕食者である彼女を見つめて首をかしげるその姿は、これから行われる残虐非道な行為などまるで思いつきもしないようだった。

 無情にも彼女は、エナジードリンクのごとく飲み干した。


 それを見ていた悪魔の表情が、だんだん切なくなっていく。

 凛々しい太眉は下がり、先ほど秋波を送っていた瞳はゴマアザラシの赤ちゃんのようにつぶらになり、牙が覗く危険な獣じみた色気を持った唇はジャンガリアンハムスターのようになっていた。頭部に生えた上向きの黒角は変わらないはずなのに、ロップイヤー・ラビットのように垂れ下がっているようにも見える。


「ご馳走様」


 元々彼女は女性の中でも声が低い方だが、今は眠気もあってか更に低い。

 前日に準備していた鞄を持って、彼女はドアを開けた。


「じゃあ行ってきます」

「ちくしょおおおおお――——‼」


 悪魔の叫びが聞こえる家を後にして、今日も女退魔師・アキトは出勤する。







「で、今日も悪魔さんの誘惑を振り切って来たんだ」

 新幹線の窓際に座った楊明は、苦笑いを浮かべた。

 拼音ピンインだと「Yáng míngヤン・ミン」だが、当人は「日本語読みでいいよ」と自己申告しているため、職場では「ヨウメイ」読みだ。

 アキトの同僚であるメイは、彼女たちの攻防を聞くのがいつの間にか日課となっている。

「今日も大変だった」パーカーの胸元を握って、アキトは零した。


「豆柴とシマエナガがこっちを見て来るんだよ……あまりの可愛さと罪悪感に、心を無にしなきゃ耐えられなかった」

「……食べなければいいのでは?」

「残すのも悪いじゃない」


「せっかく作ってくれたのに」と申し訳なさそうに言うアキトに、悪魔の術中にハマってんな、とメイは心の中で呟く。


「っていうかアキちゃんに取り憑いてる悪魔さん、対象を空間に閉じ込める事が出来るんだよね? 退魔師辞めさせたいなら、呪術で妨害すればいいのに……」

「それしたら負けだから、悪魔らしく誘惑してるんだって」

「それはもう普通にアピってるだけでは?」


 誘惑にしたって悪魔なら洗脳なり媚薬なり淫紋なり使えるだろうに、やっている事はとても地道な奉仕活動である。動物好きなメイは、鳥に見られる求愛給餌を思い出していた。


「あ、そうだ。メイちゃんに前言われてたから、アイツの作る料理の写真撮って来たよ。はい」

「おお! ……いやアキちゃん、もうちょいやる気あるように撮れない?」


 一味うつっとるがな。メイのテンションは、メルヘンなパンケーキのそばに立っていた赤い調味料が見えた事で下がっていく。

 しかしアキトの言う通り、パンケーキの豆柴とラテアートのシマエナガが究極にかわいい。「これを躊躇いなく食べる者の血の色は何色だ」と言いたくなる程のかわいさである。ここにいた。メイはアキトを見た。


「えー……でもこんな手のかかるもの早朝から作ってくれるなんて、いい悪魔ひとだねえ」

「うん。いいヤツなんだよね」


「今日もおいしかった」スマホを眺めるアキトの頬は、桜色に染まっていた。それを見て、「もう退魔師辞めてその悪魔さんと一緒になった方がいいんじゃない?」という言葉がメイの喉まで出掛かる。私が悪魔の術中にハマってどうすんだ、とメイは自分セルフで突っ込んだ。

 当の本人が悪魔の誘惑に乗らないのは、彼女自身が真面目で勤勉な退魔師である事。そして彼女の代わりがきかないからだ。

 ひじり秋人アキトが退魔師として優秀なのは間違いないが、何より他の退魔師には見られない、人外を魅了する能力を持っていた。その力は絶大で、高名な退魔師や霊媒師が匙を投げるほどの問題が彼女の元に届けられる事がある。

 だがそれは、同時に彼女の身を危険に晒す行為でもあった。人外に気に入られすぎて神隠しのような目に遭う事もあれば、人間の倫理観を理解しない者の慕情によって虐げられる事もある。

 メイは最初、彼女に取り憑く悪魔もその一人じゃ……、と警戒していた。

 しかし上司である獅子王から「アレは気にしなくていい」と言われた事、「あれ、これどっちが悪魔だっけ?」と言いたくなるアキトの所業にとっとと警戒を解いた。傍から聞けば奉仕してくる男をいいように使う悪女ファム・ファタールである。まだろくに会ったことがないのに、メイはすっかり悪魔に同情していた。

 多分その悪魔さん、純粋にアキちゃんの事が好きだし心配している――メイはそう確信している。取り憑かれているはずのアキトが精力を奪われるどころか、ツヤツヤな状態でいる事がその証左だ。多分ご飯がおいしいのだろう。最近全体的にふっくらもしている。

 大体悪魔と言っても、悪意を誘発したり苦しめたりする者から、かつては「神」と呼ばれていた者、人間に力を貸す者もひっくるめて「悪魔」と呼ばれている。必ずしも人間に害を及ぼすものとは限らないのだ。

 前者の場合祟り神、後者は力を貸すために代償が要求される場合もあるので、一概に安全とは言えないが。


「そう言えば私、悪魔さんの名前知らないや」


 多くの場合、悪意を持った人外は名前を伏せる。名前を知られる事は命を握られる行為だからだ。最も高位の者、強い者は自身の力を誇示するため、あえて名前を明かす事が多い。

「ああ、言ってなかったっけ」アキトの言葉に、ああちゃんと名前を明かしてるんだ悪魔さん、とメイは安心した。


「ベルフェゴールだよ」

「ちょっっっっと待って」

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