第8話 清水が過失傷害罪で刑務所へ収監された
退勤間際に優子が差し入れて呉れたコーヒーで清水は少し元気を取り戻していたが、それで納得した訳でもないし、胸がすっきりした訳でも無かった。火事場の余燼のようなものが残っていた。
この程度の問題でクレームになったことは今まで一度も無かった。あの新任課長が格好を着けたのだろう。
バーテンが差し出した何杯目かのバーボンを啜りながら、清水はそう思った。
得意先と納入業者の間ではこうした軋轢は、時々はあった。理のあるクレームには注文を戴く納入業者の方があっさりと肯く。だが、そうではない、曖昧な、買い上げる立場の強さをひけらかすようなクレームもある。そういう時は、普段よく売っている誇り高き骨っぽい営業マンほど、カッとなる。「何がお客様は神様だ!」と吐き捨てるように呟く。
そこまで考えた時、突然、奥のボックス席の方からホステスの悲鳴が聞こえた。
「嫌や!やめて!やめて下さい!」
清水が振り返ると、客の一人がホステスの首に腕を巻いて無理矢理にキスをしようとしていた。テーブルを挟んだ向かいの席では、もう一人の客が別のホステスのミニスカートの下に手を差し入れようとして、拒むホステスと争っていた。
漸く首に巻かれた腕を振り解いたホステスとスカートの下の手から逃れたホステスが立ち上がって、怒鳴った。
「何するのよ!いい加減にしてよ!」と二人の男を突き飛ばした。
酔った二人の客は濁った眼で立ち上がったが、その眼には怒気が燃えているようであった。
舞子ママが二人の前に立ち塞がって、毅然とした態度で、言った。
「お勘定は結構ですから、どうぞお引取り下さい」
「何だと、このアマ!それが客に対して言う言葉か!」
いきなりママを突き飛ばした。
よろめいた舞子ママを、最も近いカウンター席に座って居た清水が抱き止める形になった。
ママを後ろに庇って立ち上がった長身の清水が、相手を見下ろす格好で一言発した。
「君、止めなさいよ。此処はそういう店じゃ無いのだから」
「うるせえ!手前は黙っていろ!」
いきなり一人が殴りかかって来た。かわし損ねて一発浴びた清水は、仕事のことで心の平静さを失っていた所為か、カッとなって頭に血が上った。次の瞬間、強烈な左フックを相手の顔面に叩きつけていた。横にぶっ倒れた相手はカウンターの椅子に顔をぶっつけて口から血を吐いた。前歯が一本折れて床面に落ちた。
グラスが砕け、酒が流れ、客たちが叫喚した。
もう一人が猛然と清水に掴み掛かって来た。腹部から腰の辺りにしがみ付かれた清水は、両腕で相手を振り回して正面を向かせ、突き上げるようにしてアッパーを相手の顎に見舞った。後ろ向きに腰から崩れ落ちた相手は、倒れた拍子に床面に両手を突いて、左手首を骨折した。
客からの一一〇番通報で駆けつけた警察官に、清水は相手の男二人と共に、その場から警察に連行された。
正当防衛は認められなかった。相手の傷害の大きさと清水が嘗て持っていたプロボクサーのライセンスが禍した。清水は若い頃、プロボクシングライト級の六回戦を闘えるライセンスを所持していた。こんなライセンスを持っていた男がパンチを振るえば相手がどうなるかくらいは解かっていた筈だと、過剰防衛と見做された清水は、過失傷害罪で刑務所へ収監された。
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