第20話 畑と故郷とハイレグ
全員が川での水浴びを終え、服を着直したころには、太陽はちょうど真上に差し掛かっていた。
冷たい水で一度身体の熱を洗い流したおかげか、さっきまで感じていただるさがいくらか軽くなっている。
「いやー、さっぱりしたねぇ!」
ノノが腕をぐいっと伸ばす。
「これだから、この川はやめられないんだよねー。さて、みんな、お昼食べよっか!」
荷馬車のそばに戻り、俺たちは簡単な昼食を広げた。
硬いパンと干し肉、それからノノが荷台からごそごそ取り出してきたドライフルーツ。
川の水で冷やした木の実もいくつか。
「はい、アウラちゃんこれ。昨日よりはちょっとマシな干し肉だよ」
「ランク付けされてるのか、干し肉……」
笑いながら受け取る。
噛みしめると、しょっぱい味が口の中に広がった。
(……でも、不思議なもんだな)
同じパンと干し肉でも、昨日の夜と今日の昼では味が違う気がする。
昨日は、背中のどこかにずっと緊張がへばりついていた。
今は──森の匂いも、川の水の冷たさも、ちゃんと「気持ちいい」と感じられるくらいには、心が軽くなっている。
「アウラ、どうかした?」
パンを齧っていたティナが、不思議そうに首を傾げた。
「水浴びしたお陰か、気持ちがすっきりしててさ。いつもよりうまく感じるなーって思ってただけだ」
「ふふ、そう?」
そんな他愛もない会話をしながら昼食を終えると、俺たちは再び森の中の道へと足を踏み入れた。
森の中の道は、朝方よりも少しだけ薄暗く感じた。
木々の葉が光を遮り、地面に落ちる影がまだら模様を作っている。
「ここを抜ければ、あと一日半くらいでソーン村だよー」
御者台の上で、ノノがいつもの調子で言う。
「森を出たら、また畑が増えて、最後のほうはずっと畑の中の道って感じかな」
「畑の中の道、か……」
そういう風景は、なんとなく安心する。
街の喧騒や人混みより、畑と空のほうが落ち着くのは、俺がインドア社畜だった反動なのか、それとも今の身体のせいなのか。
(……まぁ、どっちでもいいか)
足元を見て、一歩一歩を確かめるように歩く。
昨日は、いつ何が飛び出してくるか分からないような感覚で、全身が固まっていた。
今日は──もちろん気は抜いていないつもりだが、それでも視界の端に見える木々や、鳥の声や、風の音を「怖いもの」ではなく「そこにあるもの」として受け止められている気がする。
森を抜けたのは、夕方より少し前だった。
木々の密度が少しずつ薄くなり、視界の向こうに淡い金色の光が広がっていく。
「──出るわよ」
ティナの声に、最後の枝葉をくぐり抜けるように一歩踏み出す。
途端に、世界が開けた。
眼前に広がるのは、ゆるやかな丘と畑の連なり。
風に揺れる麦の穂のようなものが金色の波を作っていた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
「……きれいですね」
カイトも同じように感嘆の声を上げていた。
「ここから一日くらい歩けば、ソーン村の入口が見えてくるよー」
ノノの声も、どこか誇らしげだ。
「さ、今日は森を抜けたあたりで野営して、明日の夕方には村に着く感じかな」
「また野営か……」
思わず苦笑する。
「文句ある?」
「ない。むしろちょっと楽しみになってきたくらいだ」
焚き火と、味のしみたスープと、どうでもいい会話。
それが「旅をしている」という実感に繋がっているような気がする。
その日の野営は、本当に何事もなく終わった。
薪を集め、テントを張り、ノノが手早く用意したスープをすすりながら、俺たちは昨日と同じやり方で見張りを決めた。
カイトとティナ、ノノと俺。
交代で夜を見張る。
だが、あの得体の知れない魔物の影は、森の向こうに置いてきたかのようだった。
森からの獣の声はあれど、近づいてくる気配はない。
スライムのぬるりとした音も、骨の軋む音も、当然ながら聞こえない。
「こういう夜が、普通なんだよな?」
焚き火のそばで、小声でノノに尋ねる。
「そりゃそうだよー。毎回昨日みたいなことが起きてたら、誰もこの道通らないって」
「……それもそうか」
「まあでも、ああいう変なのが一度出たってことは、ギルドにはちゃんと報告したほうがいいね。情報は命だからさ」
ノノは「ね?」と笑う。
その横顔は、いつも以上に「商人」っぽく見えた。
(旅慣れって、こういうことなんだろうな)
ただ強いとか、ただ怖がらないとかじゃなくて、「怖い」をちゃんと怖がりながら、それでも歩き続ける準備をしている感じ。
そんなことを考えながら、俺は夜空を見上げた。
昨日より星が、少しだけ近く見えた。
◇
何事もなく順調に進んだ、三日目の夕方。
ノノが「そろそろだよ」と指差した先に、それは見えてきた。
「あれが……ソーン村?」
丘の上から見下ろすように、村が広がっていた。
木で組まれた小さな家々がいくつも集まり、その周りを畑が囲んでいる。
家々の屋根は赤茶けた瓦や木板で、不揃いなのに、どこか温かい。
煙突から上がる煙と、遠くから聞こえてくる子どもたちの笑い声。
「そう! 我らがソーン村!」
ノノが胸を張った。
「ふふ、なんだかんだで、やっぱり帰ってくるとほっとするねー」
「ノノの顔が、いつもより柔らかい気がするわ」
ティナがくすっと笑うと、ノノは照れくさそうに頭をかいた。
「そりゃあね、故郷だし。さ、行こっか。村の入り口で馬止めないと」
荷馬車をゆっくりと進めると、やがて村の入口──というより、畑の間を抜けた先にある広場のような場所に出た。
そこでノノが馬を止めるなり、どこからともなく人が集まってくる。
「おお、ノノちゃんじゃないか!」
「戻ってきたのかい!」
「今回はちょっと長かったじゃろう?」
年配の男や女が、口々に声をかけてくる。
ノノは慣れた様子で手を振った。
「ただいまー! みんな元気してた?」
「元気元気! お前が色々と運んでくれるおかげでの!」
「ほっほ、今回は何を持ってきてくれたんじゃ?」
「ちゃんと注文通りだよー。塩と干し肉多め、布と、あと新しい鍋とかも!」
「おお、それはありがたい!」
村の空気が、一気に明るくなるのが分かった。
この村で、ノノがどれだけ頼りにされているのか、一目で伝わってくる。
(いいな……)
自然と、そんな感想が口からこぼれそうになる。
俺には「故郷」と呼べるような場所は、もうない。
元の世界の部屋は、ただ寝るだけの箱みたいなもので。
会社は、帰る場所ではなく、出勤して消耗しに行く場所でしかなかった。
そんなことを考えていると──
「……お?」
一人の中年男が、俺を見て目を丸くした。
「なんだあの格好は」
その一言を合図にしたように、周囲の視線が一斉に俺に集まった。
(あっ)
しまった。
完全に忘れていた。
俺が今着ているのは、ハイレグアーマーだった。
「都会は凄いのが流行ってるのね……?」
「ほ、ほぉ……あれは……」
「見ろよ、あの脚……」
「いや、胸だろ!」
「鎧……なのよね、あれ……?」
「尻が凄い……」
おっさん達の視線が、遠慮なく俺の胸や太ももあたりに集中する。
お前ら、視線くらいもうちょっと誤魔化せ。田舎の純粋さってそういう意味じゃないからな。
「か、かわいい……」
今度は、少し若めの男の声が聞こえた。
「なぁ、あの人、独り身かな……嫁になってくれないかな……」
「やめとけやめとけ! ああいうのはきっと街の偉い人の愛人とかに決まってる!」
「でも見ろよあの……」
「わしがもう少し若ければ……!」
おっさん同士で意味の分からない攻防をするな。
こっちはこっちで、精神の防御力がゴリゴリ削られているんだ。
ティナがため息をついて、俺の前に出てくれたところで、ノノがぱん、と手を叩いた。
「はいはーい、みんな! この人たちは今回、一緒に旅してくれた冒険者さんたちだからね! 変なこと言って困らせない!」
「お、おう……」
「ノノちゃんがそう言うなら……」
ノノの一声で、村人たちの視線が少しだけ和らいだ。
代わりに、「都会ってすごいんだなぁ……」「あれで寒くないのかねぇ……」といったひそひそ話が増える。
増えてるだけで、減ってはいない。
(まぁ、いつものことではあるんだが……)
街では「変態の新人」として噂になり、
道を歩けば、子どもたちの好奇心と大人たちの生暖かい視線を浴びる。
いまさら、村で注目されたところで驚きはしない。
驚きはしないが、恥ずかしさは別である。
「さてと、それじゃあまずは長老のところに挨拶行こっか」
ノノが言った。
「今回の荷物のこともあるし、村の外から来た冒険者さんって紹介もしないとだしね」
「長老か」
こういう村には、だいたい「村長」か「長老」か「猟師のおじさん」みたいな、話を通すべき相手がいる。
ゲームでよくやってきたイベントだ。
……ただ、この格好で挨拶に行くのか、と考えると、胃がちょっとキリキリした。
長老の家は、村の中央に近い場所にあった。
他の家よりも少しだけ広く、古びてはいるが、どこか風格がある木造の家だ。
「長老、いるー?」
ノノが戸を軽く叩き、扉を開ける。
中には、白い髭を胸のあたりまで伸ばした老人が座っていた。
「ほっほ、ノノか。戻ってきたか」
「ただいまです、長老! 荷物も無事に持ってきたよー。それとね──」
ノノが振り返り、俺たちを手で示す。
「今回、一緒に来てくれた冒険者さんたち! 街からの護衛と、ちょっと変な魔物の件もあったから、情報も持ってきてくれたよ」
「ふむふむ……それはそれは──」
長老は、俺たちを見るために、ゆっくりと立ち上がりかけ──
そして俺を見た瞬間、その動きがぴたりと止まった。
「……おおおおおおぉぉっ!!」
「え」
予想以上の大声に、思わず身を引く。
「ちょ、ちょっと長老!? どうしたの!?」
ノノが慌てて駆け寄る。
長老は、震える指でこちらを指差していた。
「そ、その格好……」
(ああ……)
来たな、という気持ちと、やっぱりか、という諦めと、帰っていいですか、という逃避が同時に湧き上がる。
「わしが……わしがまだ若かった頃……。そう、まだ腰も膝も元気で、毎日畑を駆け回っておったころじゃ……」
長老は、遠くを見るような目になった。
「この村に、一人の旅人が現れてのぅ……」
「旅人?」
ノノが目を丸くする。
「そうじゃ……そやつも、そこの嬢ちゃんと同じような、いや、もっとこう、えっちな──」
「やめて下さい長老」
そこから先は聞きたくなかった。
だが、長老の回想は止まらない。
「もう、わしは衝撃を受けてのぅ……!」
目に光が戻る。
やめてくれ。
「鎧とは、あのように着るものなのかと……! あれは忘れもしない、わしの人生におけるベスト・オブ・エロティックじゃった……!」
(そんなランキング作るな)
頭を抱えたくなる。
横でノノが肩を震わせている。笑いを堪えているのが丸分かりだ。
「しかしのぅ……あの日以来、二度と拝むことはなかった……。わしの青春の光景は、あの一度きりかと思っておった……」
長老は、しみじみと遠い目に戻った。
「それがじゃ……歳を取り、目も悪くなり、足腰も弱ってきて……。もうすぐ土に還るかなぁと思っておった今になって……」
再び、俺の全身をまじまじと見つめてくる。
「まさか、生きておるうちに、もう一度あの系統を拝めるとは……!」
「系統って言うな」
思わず口から出た。
長老は聞こえているのかいないのか、感極まったように手を合わせる。
「……わしは、もう悔いはない!」
「勝手に悟るな!!」
とうとう突っ込まずにはいられなかった。
ティナが「ぷっ」と噴き出してから、慌てて口元を押さえる。
「長老……」
ノノが、呆れ半分、笑い半分の声を出した。
「相変わらずの趣味だねぇ……」
「む……むぅ、別にやましい目で見ておるわけではないぞ?」
長老がむきになる。
「芸術じゃ! 芸術! あのバランス! 守っておるようで守っておらぬようで、しかし要所は押さえ──」
「説明しなくていいですから」
これ以上語らせたら、本格的に居たたまれなくなる。
俺は全力で会話に蓋をした。
(……やっぱり、変な趣味のやつって、女神以外にもいるんだな)
世界が違っても、時代が違っても。
人類の業は、どうあっても消えないらしい。
ある意味、感心すらしてしまう。
「ごほん」
ティナがわざとらしく咳払いした。
「長老、とりあえず話を戻してもいいかしら」
「おお、そうじゃったそうじゃった」
長老はようやく真面目な顔に戻る。
さっきの興奮具合のせいで、説得力は壊滅しているが。
「ノノや、今回も無事に帰ってきてくれて何よりじゃ。運んでくれた品、詳しくは明日、倉庫で話を聞かせてもらうとして──」
ちらり、と再び俺を見る。
「それと、そこの嬢ちゃんたち。よう来てくれた。村の外を歩くのは危険も多かったじゃろうに」
「まあ……色々とありましたが」
あの魔物のことが、頭をよぎる。
「後で、ギルドへの報告も兼ねて、その変な魔物の話も聞かせてもらおう。村のほうからも、街のギルドに使いを出すとする」
「助かります」
ティナが丁寧に頭を下げた。
「それでの」
長老は少し表情を和らげた。
「今夜の宿じゃが……ノノの家なら、床の一つや二つ、どうとでも空くだろう」
「えっ、うち?」
ノノが目を丸くする。
「そうじゃ。ノノの家は広いし、わしの家に泊めるより、あやつらも気が楽じゃろうて」
「まぁ、そうかもね」
ノノが苦笑する。
「というわけで!」
くるりと振り返り、俺たちに向き直った。
「今夜はわたしんちに泊まってっていいからね! 父さんも母さんも、きっと喜ぶよ!」
「いいのか?」
「もちろん! 冒険者さんが家に泊まってくれるなんて、そうそうないしね!」
ノノは胸を張った。
「アウラちゃんの鎧も、きっと母さんびっくりするよー。父さんは……どうかな、長老と同じ反応しないといいけど」
「それは本気でやめてほしい」
この村に、ハイレグアーマー愛好家の系譜が何人もいたら、さすがにやっていける気がしない。
「ふふ」
ティナが小さく笑った。
「でも、屋根のある場所で眠れるのはありがたいわね」
「うん!」
カイトの顔もぱっと明るくなる。
焚き火と星空の下で眠るのも悪くない。
でも、旅の途中で「誰かの家」に泊まるというのは、また別の安心感がある気がした。
長老の家を出ると、外は夕焼けの色に染まり始めていた。
畑の向こうに沈みかけた太陽が、村全体を柔らかいオレンジ色に包んでいる。
「じゃ、こっちこっち!」
ノノが先頭に立って歩き出す。
その背中を追いながら、俺はふと振り返った。
長老の家の窓から、こっちを嬉しそうに眺めている白い頭が見える。
(……まぁ、喜ばせたなら、良しとするか)
ハイレグアーマーが誰かの人生の悔いを一つ消した、という事実は、ちょっとだけ救いがある……ような、ないような。
そんなことをぼんやり考えながら、俺たちはノノの家──今夜の宿へと向かって歩き出した。
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