--第38話 帰還の道 ― 白き脱出戦 ―


 ――砦が、崩れていく。


 氷壁が裂け、瓦解した塔が鈍い音を立てて雪原へ沈んでいく。

 レヴナ・フォートの中心部で、蒼い光が最後の閃きを放った。

 凍て血の将軍バルデン――その巨躯は、今や粉雪と共に消え去っていた。


 剣を支えに立つハルヒの息は荒く、肩口からは鮮血が滲んでいる。

 凍てた鎧に走った亀裂が、戦いの激しさを物語っていた。

 リィナは震える手で彼の腕を掴み、必死に支える。


 「ハルヒ、傷が……! これじゃ……!」


 「構うな。……まだ、終わってない」


 そう言いながら、ハルヒは崩れゆく通路の先を見据えた。

 氷の壁の向こう――わずかに見える蒼白の夜空。

 そこが、出口だ。


 砦の最奥から吹き上げる冷風が、彼らの背を押すように唸りを上げる。

 バルデンが死に際に放った呪詛の魔力が、構造そのものを崩壊させていた。


 リィナが顔を上げる。

 砦全体がきしむ音の中で、彼女は微かに笑った。


 「……やっと、帰れるんだね」


 ハルヒは短く頷いた。

 「まだ帰ってない。――生きて、外に出るまでが戦いだ」


 そう言うと、彼はリィナの手を取って駆け出した。

 雪煙が舞い、崩れる床を跳び越え、砦の回廊を走る。

 壁の裂け目から、蒼い魔力の稲光が走った。

 それはバルデンの残滓――彼の怨念が形を変えた魔の残響だった。


 「下がれ、リィナ!」


 ハルヒは剣を抜き、反射的にその光を叩き斬る。

 時の刻剣アーク・レイが閃き、魔の奔流を断ち切った。

 蒼い火花が散り、砦の天井が大きく崩れる。


 リィナは咄嗟に歌を紡いだ。

 彼女の歌声が空気を震わせ、舞い散る氷片の中で風の結界を生む。

 「――《エアリア・ヴェイル》!」


 舞い上がる風が二人を包み込み、落下する瓦礫を弾いた。

 その瞬間、リィナは膝をつき、息を切らす。

 「……ごめん、もう長く……!」


 ハルヒは彼女の肩を支えた。

 「十分だ。……ありがとう。行こう、リィナ」


 砦を出る最後の通路――そこに待ち受けていたのは、

 なおも息絶えていなかった魔族の一団だった。

 黒い甲冑を纏った魔兵たちが、血のような光を宿す槍を構える。


 「逃がすな! 将軍の仇を討て!」


 数十の咆哮が、氷の回廊に響き渡った。


 ハルヒは剣を握り直し、リィナを背に庇った。

 「……来い」


 刹那、閃光。

 疾風のように踏み込み、最前列の魔兵を斬り払う。

 蒼の光が尾を引き、次々と敵を薙ぐ。

 だが数は多く、圧力は増すばかり。

 ハルヒの呼吸が荒くなり、剣の軌跡が重くなる。


 そのとき、リィナの歌が響いた。

 「――《風よ、導きを》!」


 通路に風が走る。

 嵐のような気流が魔族の陣を割り、雪煙を巻き上げた。

 その隙に、ハルヒはリィナの手を取り、駆け抜けた。


 氷壁を抜けた瞬間、夜空が広がった。

 星も見えない、灰色の空。

 凍てつく風が吹き荒れる中、二人は雪原に転げ出る。


 背後で、砦が音を立てて崩れた。

 白銀の破片が宙に舞い、巨大な影が雪に沈む。

 それは、長きにわたる魔の支配の終焉を告げる音だった。


 ――だが。


 リィナがふと、背後を振り返る。

 雪煙の向こう、崩れた砦の影から、何かが蠢くように立ち上がっていた。


 「……ハルヒ……あれ、見て……」


 ハルヒは息を止める。

 闇の中で、黒い霧が渦を巻いていた。

 そこから溢れ出る無数の赤い光――まるで目のように、彼らを見つめている。


 「……あれは……まさか……!」


 地鳴り。

 雪原の下から響く異様な唸り。

 やがて闇が形を取り、数百、数千の影が這い出してくる。


 それは、魔族とは違う“何か”だった。

 深い奈落の底から溢れ出るような――“深淵の軍勢”。


 ハルヒは剣を構え、リィナを庇った。

 「逃げるぞ、今すぐ!」


 「でも……あれ、何なの……?」


 「わからない。けど、感じる……あれは“この戦いの次”に待つ闇だ」


 遠く、吹雪の向こうに灯りが見えた。

 仲間たちが待つ、北方前線の陣地だ。

 そこまで辿り着けば――。


 「リィナ、走れ!」


 二人は雪を蹴り、白い闇を駆け抜けた。

 背後で、砦が完全に崩壊する。

 その音を背に、二つの影は夜の帳の中へと消えていった。

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