第13話

 ──間に合わない。


 館外に飛び出した瞬間、カイの思考はその事実だけを繰り返した。


 夕焼けはもう色を失い、建物の影が地面を長く伸ばしている。

 夜の気配が、すぐそこまで迫っていた。


 背後で、ロックダウンの重いシャッターが落ちる音が響く。

 ギリギリだった。

 もう少し遅ければ、変化は館内で起こっていた。


「カイ、こっちは安全だ!」


 少し離れた場所でハルトが手を上げる。

 息を荒げながら、安堵の色を浮かべて。


 ──その顔を見るのが、辛い。


 カイは手を挙げて応えたふりをしながら、

 わざと別方向へ一歩、二歩と下がる。


「大丈夫です。ここで……ひとりになります」


 その言葉の意味に、ハルトの眉がわずかに動く。


「でも、体調が——」

「すぐ戻りますから。本当に……大丈夫です」


 笑ったつもりだったが、

 唇の端はきっと引きつっていた。


 ハルトは迷うように一歩踏み出し——

 しかし、その目の奥で何かを察したように足を止めた。


「……分かった。何かあったらすぐ連絡しろよ」


 その声が、妙に優しい。

 その優しさが、胸に刺さった。


「はい」


 短く返して、背を向ける。


 足音が遠ざかっていく。

 その気配が完全に消えるまで、

 カイは息を潜めて動かなかった。


 ──そして。


 日が沈んだ。


 瞬間、世界の色がわずかに揺れた。

 皮膚の下で微かな熱が走り、

 骨の奥で別の“呼吸”が目を覚ます。


 境界が、静かに反転していく。


 胸の高さ、喉の奥、骨格のわずかなライン——

 すべてがひとつ、ひとつ、夜の形に寄っていく。


 痛みではない。

 苦しみでもない。

 ただ、抗えない変化。


 カイは路地に身を隠しながら、ゆっくりと深呼吸した。


 その呼吸が落ち着くころ、

 腕にかけていたジャケットの袖がふわりと余り、髪が肩に触れる感覚が戻ってくる。


 “カイ”が消えていくのではない。

 “女性の体”が表へ出ているだけ。


 それでも、胸の奥でひどく揺れる。


 今夜は、ハルトが近くにいたから。

 変化の前に見た彼の表情が離れないから。


 ​最後に彼が呼んだ「カイ」という声が、

まだ耳の奥に残っているから。

​──だから逃げた。

​見られたら終わる。

境界線を越える瞬間だけは、絶対に悟られてはいけない。

​路地裏の暗闇に身を潜めているのに、

まだ耳の奥では、ハルトが戻ってくる足音が聞こえる気がして——

ふ、と呼吸が乱れた。

​彼はすぐそこまで追ってきていないか?

夜の街でも、自分は彼の優しさから逃げ切れないのか?


 肩にかかる髪を整え、足の感覚を確かめるように一度地面を踏む。


 いつもの“夜の私”が、ようやく形を取る。


 街のネオンがゆっくり瞬きをはじめる。

 その光に照らされ、彼女は静かに顔を上げた。


 ──ひとりの夜が始まる。


 でも、胸の奥のざわめきは消えなかった。


 ハルトの言葉と、ハルトの手の温度と、ハルトが見せた迷いと決意が、まだ自分の中に残っていた。


「……どうして、こんなにも」


 誰に聞かせるでもなく、ほとんど呼吸のように漏れた声。


 夜の空気が、カナの頬をかすめる。

 その冷たさがようやく変化の熱を鎮めていく。


 歩き出す。

 人の影が揺れる方へ。

 灯りのざわめきへ。


 けれど後ろを振り返ると——

 さっきまで自分をかばった男の姿が、

 小さく立っていたような気がして。


 彼女は目を閉じ、首を横に振った。


「……忘れなきゃ」


 そう呟いても、胸の奥は痛いほど静かにうずいた。



 応接室の空気は、夜の冷えをそのまま閉じ込めたように重かった。

 ハルトは背筋を伸ばして座り、向かいの椅子にいる藤森館長を見つめた。


 館長は、しばらく書類に目を落としていた。

 めくる紙の音だけが、静かな部屋に淡々と響く。


 やがて藤森は手を止め、書類を机に置いた。

 ゆっくりと眼鏡を押し上げ、穏やかながら読めない声音で口を開く。


「……セキュリティログは確認した。緊急時とはいえ、許可のないバックヤードの解錠は重大な違反だ」


 声は責め立てるものではない。

 淡々としているのに、それだけで胸に響いた。


「はい……すべて、私の判断です」


 ハルトは、自分でも驚くほど自然に答えていた。

 とぼけたり言い訳したりするという発想が浮かばなかった。


 ——嘘をついて守れるようなことじゃない。


 その確信が、自分の中にあった。


 藤森はわずかに目を細めた。

 しかし、感情は読めない。


「……火災報知の誤作動と、夜間の避難措置は確認済みだ。作品保護のための緊急判断は、一定の裁量を認められている」


 一拍置いて、続く言葉は短かった。


「——数日の謹慎で済ませる」


 ハルトは息を飲んだ。


 もっと重い処分を覚悟していた。

 退職の二文字すら覚悟していたのに。


 藤森は、視線を真正面から向けてきた。

​ その一瞬、ハルトは館長の瞳の奥に、書類の紙の色とは違う、どこか古く、寂しげな痛みの影を見たような気がした。


​「礼は必要ないよ。特別扱いするつもりはないから」


​ その言葉は、なぜだか重く響いた。

​ 怒っているでも、庇っているでもない。

 ただ、線を引くような声音。

​ ハルトの胸には、安堵とは別の、妙な虚無感が広がった。


 職を賭すほどの自己犠牲の覚悟が、館長の一言で、まるで子供の火遊びのように扱われたように感じられたからだ。


​「……私は、あなたの判断が必ずしも間違いだったとは思わない。ただし——理由は問わない。問わないほうがいい」


 それが、藤森の精いっぱいの“言葉”だと分かった。


 理由を聞かない。

 つまり、知ろうとしないと告げている。


 そしてそれは、

 すでに何かを知っている人間の言い方でもあった。


 胸がざわつく。

 藤森が“何を”知っているのか——カイの何を。


「……ありがとうございます」


 そう告げて頭を下げると、館長はわずかに頷いた。


「帰りなさい。今日は長かっただろう」


  解散を告げる声だったが、不思議と冷たくなかった。

 一歩外に出て扉が閉じた瞬間、ハルトは深く息を吐いた。


 ——問わない理由。

 ——知らないふりをする線引き。


 藤森館長のあの目が、脳裏に残る。


 まるで、「気づくな」と告げているようだった。

 ハルトが踏み込むには、まだ早い領域があるかのように。


 さっきまで感じていた罪悪感より、別の感情が胸を締めつけた。


 ——カイは、いったい何を抱えている?


 そしてそれに触れかけた自分は、どこまで踏み込むつもりなのか。


 館長室のドアの向こうの長い沈黙が、その答えを急ぐなと言っている気がした。

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