第6話

 薄い光がカーテンの隙間から差し込み、床にまだ夜の冷たさをわずかに残していた。


 ハルトは毛布に包まったまま、ゆっくりと目を開けた。

 視界に入るのは狭いキッチンの天井と、自分の胸のあたりで小さく丸くなって眠る猫の姿だった。


 夢の続きのように頭がぼんやりしている。

 体を起こすと、腰に硬い床の感触が残っていた。

 昨夜のことを思い出そうとする。

 雨の音、濡れた髪、冷えた手。

 それから——微笑んだ誰かの顔。


 けれど、その輪郭はもう曖昧だった。


 ふと目に入ったテーブルの上には、コップが二つ並んでいた。

 片方は自分の。もう片方は夜の名残を閉じ込めたまま、冷え切っていた。


 ハルトはコップを見つめながら息をついた。

 まるで“そこに誰かがいた”ことを確かめるように。


 猫が小さく身じろぎして、丸めた背中を伸ばす。

 その仕草を見て、ハルトはつい笑ってしまった。


「お前……証人になってくれよな」


 声に出してみても、何も変わらない朝の空気が返ってくるだけだった。


 けれど、その静けさの中に、確かに何かが残っている気がした。


 洗剤でも香水でもない、体温のような匂い。

 毛布にわずかに染みついている温もり。


 思い出そうとすると、心がざわめく。

 それでも顔は思い出せない。

 声も、触れた感触も、すべてが薄い膜の向こう側にあるようだった。


 ——あの人は、誰だったんだろう。


 理性では答えを求めながら、どこかでその曖昧さを壊したくない自分がいた。


 ハルトは立ち上がり、流しにコップに残った水をゆっくりと捨てた。

 透明な音が小さく響き、その瞬間だけ、夜の残り香が過ぎていった気がした。


 窓の外では、通勤の車の音が遠くに流れ始めていた。

 日常が戻ってくる。


 それでもハルトの胸の奥では、“確かにあった何か”の鼓動が、まだ静かに鳴っていた。



 玄関を出る前、ハルトは一度だけ部屋を振り返った。

 キッチンの片隅、毛布の上で小さな三毛猫が丸くなって眠っている。

 昨夜と違って、今朝のその姿はやけに現実的だった。


 ——まるで、彼女がいた証明みたいだ。


 ハルトはしゃがみ込み、指先でそっと猫の頭を撫でる。

 柔らかな毛の感触が、ほんの少し指先に温度を残した。


「……行ってくる。ちゃんと留守番してろよ」


 猫はぴくりと耳を動かしたが、目を開けることはなかった。

 代わりに、小さく喉を鳴らした気がした。


 玄関のドアを閉めると、わずかな音が響いた。

 途端に、世界が少し冷たくなる。

 ほんの数時間前まで、誰かの気配があった場所とは思えないほどに。



  霞野美術館の通用口を抜けると、朝の光が石畳に柔らかく揺れていた。

 昨夜の雨がまだ世界を薄く濡らしている。


 ——夢みたいな夜だった。


 そんな言葉が自然と浮かぶ。

 現実味がないのに、消えてほしくない記憶だった。


 彼女の声も、温度も、香りも。

 ただ、名前だけが——ない。

 聞いてすらいなかった。


 保存科学室へ向かう途中、欠伸混じりの声が響く。


「おはようございます、相澤さん。早いですね」


 夜勤明けのアヤカが、缶コーヒーを持って歩いてくる。


「昨日は早く帰ったんですか?」 「……ああ、まあ」 「へぇ、珍しい」


 軽く笑って、アヤカは続けた。


「そういえばカイさん、体調不良でお休みだそうです。

 朝イチで連絡がありましたよ。昨日は元気そうだったのに、急ですね」


「……体調不良?」


「ええ。無理してたのかもしれません。

 ほんと、何でも抱え込んじゃうんですよね、あの人」


 その何気ない言葉が、ハルトの胸に重く沈んだ。


 昨夜の濡れた髪。かすれた声。切れた唇。


 頭の奥で断片がつながっていく。


 ——名を聞いていれば。


 ただ、それだけのことなのに。

​「彼女」と「カイ」を区別する、あるいは、その両方を結びつける、たった一つの手掛かりを、自分は自ら手放したのだ。

​ そのたったそれだけで、この曖昧な現実に手掛かりが残ったのに。


「じゃあ、お先に上がりますね。カイさんには“進捗に問題なかった”って伝えておきます」


 アヤカの足音が遠ざかる。

  ハルトは立ち尽くし、

 朝の光で揺れる床の反射をぼんやりと見つめた。


——名前も知らない誰かに、

 こんなにも心が動くなんて。


 自分でも信じられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る