第2話

 その日は珍しく残業もなく、定時に仕事を終えた。

 もっとも、カイが退勤してからはすでに一時間ほど経っている。


 昼間の光が抜け落ちた美術館の廊下を抜けると、ガラス越しの夕闇が、ゆっくり紫から群青へ変わっていく。

 ハルトはその移ろいを横目に、静かに館をあとにした。


 帰宅するには、まだ少し早い。

 電車で二駅先、繁華街の外れにある小さな居酒屋へ足を向ける。

 木の扉を開けると、油の弾ける音と出汁の香りが迎えてくれた。


 白い湯気が立ちのぼるカウンターには、仕事帰りの人々が思い思いに盃を傾けている。

 煮込みの湯気の向こうで、テレビのニュースがぼんやりと流れていた。


 店主が「おつかれさま」と声をかける。

 ハルトは軽く会釈し、焼き魚とビールを頼んだ。

 香ばしい塩気が、昼間の緊張を少しずつほどいていく。


 ——ただ、この店が色街の外れにあることだけは難点だった。


 暖簾を出れば、ネオンの光が道路を染める。

 行き交う人の笑い声と、虚ろな音楽が入り混じり、夜の街がどこか遠い場所のように呼吸している。

 その呼吸に、ハルトはいつも踏み込む気になれなかった。


 軽く酒を飲み、腹を満たし、会計を済ませる。

 ふと時計を見る。まだ八時前。

 このまま帰れば、明日は少し早く出られるかもしれない——

 そんなことをぼんやり思いながら店を出た。


 外は、昼の名残を引きずるように湿った夜気だった。

 遠くのバーから漏れるジャズが、水を含んだ風に溶けていく。

 信号の青がアスファルトに滲み、タクシーのテールランプが途切れ途切れの赤を描いていた。


 横断歩道に差しかかったとき、向こう側の歩道を歩く二人組が視界の端をかすめた。


 一人はスーツ姿の男。

 その隣の女性の後ろ姿に、ハルトの足が自然と止まった。


 理由はわからない。

 ただ胸の奥が、何かを思い出したように脈打った。


 首筋の線、歩くときの重心の置き方、人の波を避けるわずかな身体の傾き。


 それらすべてが、カイの仕草に重なって見えた。


 ——考えるより先に、心臓が動いた。

 理屈ではなく、身体が覚えている。

 あの息づかいと、空気の揺れ方を。


 街灯の下で、女性の髪がふと光を帯びた。

 銀のような淡い光。それは、美術館の修復室で見た、午後の光に照らされたカイの横顔と同じ色だった。


 だが、この夜の街で、その色を放つはずがない。

 そう思うほどに、その光は不自然だった。


 ハルトの唇が、無意識にその名を形づくる。


 ——カイ。


 信号が変わる。

 人の流れがその姿を覆い隠し、振り返ったときにはもう、彼女はいなかった。


 風が、先程のグラスに残っていた酒の匂いを、ハルトにふと思い出させた。

 ほんの微かな苦味と、舌の上に残った甘さ——。

 その曖昧さが、現実と夢の境をぼかしていく。


 ハルトは立ち尽くしたまま、胸に残ったざらつきの正体を掴めずにいた。



 翌朝。


 ハルトは目覚ましが鳴るよりずっと前に目を覚ました。

 薄いカーテン越しに、夜の青と朝の白のあいだの光が差し込んでいる。

 寝返りを打っても眠気は戻らなかった。


 早く目が覚めたのは偶然のはずだった。

 それでも、なぜか寝直す気にはなれなかった。


 昨日は久しぶりに早く帰宅し、軽く酒を飲み、シャワーを浴び、早々に床についた。

 身体の疲れは抜けているのに、胸の奥にはまだ何かが残っている。


 ——街灯の下で見た、あの女性の姿。


 どこかで見た横顔。

 あれが夢か現実かさえ、曖昧だった。


 思考を振り払うように顔を洗い、早朝の電車に乗った。

 霞野美術館の正門をくぐると、冷えた空気が肺の奥まで染み込んでくる。

 人の少ない館内はしんと静まり返り、東の空の光が床を淡く照らしていた。


 ——この時間の美術館は、まるで別の場所みたいだ。


 展示室の奥で眠る作品たちが、呼吸をひそめて夢を見ているように思えた。


 ワークスペースに向かう途中、ハルトはふと足を止めた。

 保存科学室へ行ってみよう——そんな衝動が湧いた。

 理由は言葉にするほどのものではない。

 ただ、昨日の夕方に見たカイの姿が、頭の端から離れなかっただけだ。


 廊下の角を曲がったとき、欠伸を噛み殺しながら歩いてくる女性とすれ違った。

 淡いベージュのカーディガン、髪をゆるく結んだアヤカだった。


「おはようございます、相澤さん。珍しいですね、こんな時間に」


 眠気と柔らかい笑みを含んだ声だった。


「どうしたんです? いつもより一時間は早いじゃないですか」

「……たまたま目が覚めてね」

「ふふ、健康的でいいじゃないですか。私はこれから帰るところです」


 アヤカは肩をすくめて欠伸をひとつ。


「夜の方が静かで好きなんです。人がいない時間の方が、作品と向き合える気がして。この勤務形態、ほんと助かってますよ」


 そう言いながら、聞かれてもいないことを続けた。


「そういえば、天野さんならもう来てますよ。さっきすれ違いました。“夜明けの光は、色が一番正直になるから”って。新しく差し込む光ほど、絵は本音を見せるんだそうです」


 ハルトは思わず立ち止まった。


 ——夜明けの光で、色を見る。


 昨日も“光の質”にこだわっていた。

 それがただの職業的な習慣なのか、もっと深い理由なのか。


 アヤカはその表情を見て、くすりと笑った。


「相変わらず天野さんのこと気になりますね。……あ、そうそう。朝の保存室、けっこう寒いですよ。暖房まだついてませんから」


 軽く手を振りながら廊下を抜けていくアヤカの背を見送り、ハルトはガラスの向こうへと視線を向けた。


 彼の胸には、アヤカの言葉が静かに沈んでいく。


 ——新しい光ほど、絵は本音を見せる。

 では、昨日自分が夕暮れの中で見たあの金泥のきらめきは、いったい絵のどんな“本音”だったのだろうか?


 保存科学室の扉の奥から、淡い光がこぼれていた。

 夜の青と朝の白の境目に漂うような、どこか人の気配を包み込む光。


 何かが待っている気がした。

 ——いや、

 もうそこに在るものへ、ようやく自分が追いつこうとしているだけなのかもしれない。

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