第28節~夏休み

 蝉の声が、窓の外で途切れなく鳴き続けていた。

 夏の音は、瞑想室の静けさを薄く揺らしながら、どこか焦げつくような熱を運んでくる。

 そのせいか、いつもより空気が少し張り詰めて見えた。

 天音は、自然と背筋を伸ばしていた。


「……で?」

 最初に沈黙を破ったのは、案の定、伊武だった。

 彼の声はこの部屋の静けさには少し明るすぎるが、逆に場の空気を転がしてくれる。


「どうだった? 宵雨先生はなんて言ってたの?」


 真冬の問いかけは慎重で、けれど期待が透けていた。


「場所、借りられたのか?」

 腕を組んだ八雲の目は鋭いままだが、そこに宿る色は疑いより希望に近い。


 天音は全員の視線の先にいるピアスを見た。

 彼はギターを壁によりかけ、ひと呼吸置いてから口を開いた。


「まず、結論から言うと──合宿、できることになったよ」


 その瞬間、天音の胸の奥で、固まっていた小さな塊がわずかに溶けた。

 同時に、伊武の声が跳ねる。


「マジで!?」


「ただし、条件つきだ」

 ピアスの笑みは、少しばかりくたびれていたが、不思議と強さを帯びていた。


「静寂堂はダメだった。“音を鳴らす場所じゃない”って、はっきり言われたよ。

 でも、晴花と一緒に、ちゃんと話してきた。みんなの音のこと、想いのこと。……ね?」


「うん」

 晴花は小さく頷く。その目の端にうっすら残る赤みに、天音の胸がちくりとした。


「私、ちょっと泣いたけどね」


「泣いたんか」

 伊武が半分呆れて笑う。


「泣くほどの交渉って、どんなだよ……」

 八雲がぼやくが、その声音には尊敬が混ざっていた。


「で、結果は?」

 天音は、胸の高鳴りを押し隠して静かに尋ねた。


 ピアスは、少しだけ間を置いて笑みを深める。


「“隠し本堂”って場所を貸してもらえることになった。

 裏山の奥にある昔の修行場みたいなとこ。

 瞑想室の拡張版って感じで、音がすごく響くらしい」


 “隠し本堂”という名前の響きに、天音は思わず心の中で反芻した。

 隠された場所。

 遠くへ押しやられた音たちが、息を潜めているような空間。

 そこに自分たちの音が触れるのかと思うと、胸の奥で静かな熱が灯る。


「……隠し本堂?」

 真冬がそっと目を丸くする。


「名前からして、なんか……ラスボス出てきそう」

 伊武の軽口に、場が少しだけ緩んだ。


「でも、誰も使ってないから、掃除は必須」

 晴花がノートを開いて言う。


「明日、下見と清掃に行く。

 合宿はその翌週、三日間」


「三日間……!」

 伊武は拳を握りしめる。


「よし、燃えてきた!」


 その勢いに、天音もやっと息を整えた。

 胸の奥で、まだ見ぬ空間の匂いがする気がした。


 そのとき、扉をノックする音が響いた。


「失礼するわよー」


 霧島先生が笑顔で姿を見せた。

 その笑みは柔らかいけれど、背筋の通った“大人”の空気を纏っている。

 天音は思わず姿勢を正した。


「合宿の件、理事長から報告を受けました。

 場所の使用は許可されましたが、いくつか確認しておきたいことがあります」


 部員たちが一斉に真剣な顔になる。

 自分まで引き締まるのがわかった。


「まず、私は参加できるのは最終日のみです。

 それまでの期間、責任者は──ピアス先生、あなたにお願いしたいと思います」


 天音はすぐにピアスを見た。

 彼はわずかに驚いたが、その目はすぐ覚悟を宿す。


「……はい。責任をもって預かります」


「ありがとう。

 部活動とはいえ、これは“学校外活動”です。

 事故やトラブルがあれば、責任は大きい。

“音を鳴らす”前に、“自分たちを整える”こと。

 それを忘れないでください」


「もちろんです」

 ピアスの声の底にある熱を、天音は確かに感じていた。


 霧島先生は満足げに微笑むと、静かに去っていった。

 扉が閉じると、瞑想室に再び蝉の声が流れ込んでくる。


「……ピアスが保護者か」

 八雲がぽそりと呟く。


「内緒でゲリラライブを計画するくらいにはぶっ飛んでるのに」

 伊武が肩をすくめる。


「……そう言われると、ちょっと照れるな」

 ピアスが苦笑すると、


「褒めてないって」

 伊武と八雲が声をそろえて返す。


 そのやりとりに、天音はひそかに笑った。

 けれど、ピアスの次の言葉が、みんなの熱を静かに底上げした。


「でも、僕がどうこうってより──

 みんなが“やる”って決めたから、本気で向き合いたいだけだよ」


 瞑想室の空気が、ほんの少し熱を帯びた気がした。


「……じゃあ、明日、下見と掃除ね」

 天音は立ち上がる。


「この夏、ちゃんと“鳴らす”ために」



 ---


 夏休み初日


 蝉の声は、朝から容赦なく鳴いていた。

 生徒のいない校舎は、まるでとても大きな空洞のように静かで、同時にどこか開放的だった。

 制服の重さから解放された天音は、校舎を風が素通りしていくたび、夏が本気を出し始めるのを感じた。


 響音部の夏が、確かに始まった。


 午前のパート練習。

 午後の合わせ。

 天音と晴花は言葉を、詩を探す時間が続く。

 その表情の変化ひとつひとつが、天音には音符のように見えた。


 夜は、自分自身の“音”と向き合う静かな時間。

 天音は、瞑想室の床に落ちるわずかな風の影さえ、音の気配として受け止めるようになっていた。


「……これ、合宿前に燃え尽きるんじゃない?」

 汗だくの伊武が笑う。


「それでも、やる」

 ピアスが短く返す。


「“伝える”って、そういうことだろ」


 その言葉が、天音の胸に深く沈んだ。



 ---


 合宿一週間前


 裏山の奥。

 木々の間を抜けた瞬間、天音は思わず息をのみ、足を止めた。


 隠し本堂──

 苔のついた石段の上に、ひっそりと立つ木造の建物。

 光が届きにくいせいか、どこか時間の外側に置き忘れられたような佇まいだった。


「……すご」

 伊武がぽつりとこぼす。


「ほんとに、瞑想室の巨大版って感じ」

 天音は思わず呟いた。

 空間に広がる静寂は、ただの静けさではなく、誰かの呼吸の跡だけが残ったような感触を持っていた。


「音、すごく吸われそうで、でも響きそう」

 真冬がそっと両手を叩く。

 乾いた音が、柔らかく長く、薄い膜のように空間を満たす。


「……ここで鳴らすのか」

 八雲が天井を見上げる。


「その前に、掃除だよ」

 晴花がほうきを手にしながら言う。


「まずは“整える”って、霧島先生も言ってたしね」

 天音も自分のほうきを握り直した。


「よし、始めよう」

 ピアスが袖をまくる。


「この場所を、俺たちの音で満たすために」


 天音は、木漏れ日と影が入り混じる本堂の床を見つめながら思った。

 ここで鳴る音は、きっと嘘をつけない。

 自分の中のどんな小さなざらつきも、この静けさは拾い上げてしまうだろう。


 だからこそ──

 ここで鳴らす意味がある。


 そう胸の奥で噛みしめながら、天音はほうきをゆっくり動かし始めた。

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