第12節~現れ①


音が消えたあと、瞑想室にはしばらく誰も言葉を発さなかった。


壁の反響がゆっくりと沈み、空気がまだ震えを覚えている。


天音はノートを握りしめたまま、ただその気配を聞いていた。


“鳴った”──その事実が、思考より先に心に沈んでいた。




八雲はギターをそっと床に置き、指先を見つめている。


その表情には驚きよりも、確かめるような静けさがあった。


真冬は窓辺に立ち、灰色に染まり始めた空を見ている。


「……ねえ、ピアスくん」


彼女の声は、夜に溶けるように柔らかかった。


「遺物って、なんなの?」




ピアスは少しの沈黙のあとで答える。


「“音を持ち込む”でも、それがどう作用するのか、僕にも分からない」


「ただ、この世界が完全に拒絶していたわけじゃないなら……まだ“応える余地”があるのかもしれない」




天音は息を吸い、静かにノートを閉じた。


「じゃあ、明日、その“余地”が分かるかもしれないね」


自分の声が、思ったよりも落ち着いているのが少し不思議だった。




伊武は壁際に腕を組み、黙っていた。


晴花はギターに手を伸ばしかけて、すぐに止める。


みんなの視線が、同じ一点──床に置かれたギターへ向かっていた。


誰もが何かを言いたかった。けれど、言葉にしたら壊れてしまいそうで。


天音も、ページの端を指でなぞるだけで、声を出せなかった。




霧島先生が腕時計を見て、静かに言った。


「もう遅いわ。今日はここまでにしましょう」




その言葉に、誰も反論しなかった。


けれど、部屋の空気にはまだ熱が残っていた。


“もっと確かめたい”という思いが、天音の胸の奥でじんじんと灯っていた。


けれど、それを口にするには、夜が深すぎた。




八雲が無言で扉へ向かい、真冬はノートを抱えて続く。


晴花は制服の袖を整え、伊武は拳を握りしめたまま歩き出した。


霧島先生が最後に灯りを落とすと、瞑想室は静けさを取り戻す。




天音は扉を出る直前、もう一度だけ振り返った。


暗闇の中で、ギターの弦がかすかに光を反射していた。


まるで、次の音を待っているように。






---




翌日放課後──旧校舎・倉庫前




放課後の空気は少し蒸していたが、旧校舎の奥だけは冷たかった。


風が抜けるたび、埃の匂いがふっと漂う。


鉄の扉の前に、天音たちは並んで立っていた。


ピアス、伊武、晴花、真冬、八雲、そして霧島先生。


全員が無言のまま、昨日の“音”を思い出しているようだった。




天音の胸の奥には、あの震えがまだ残っていた。


記憶ではなく、身体に染みついた残響のような感覚。




霧島先生が腕時計を見て、低く言った。


「……そろそろね」




その言葉と同時に、宵雨が姿を現した。


白髪を束ね、穏やかながらも鋭い眼差しをしている。


昨日と同じ服装なのに、空気の重みが違って見えた。




「よく来たな」


宵雨の声は低く、倉庫の壁に反響して響いた。


「約束通り、倉庫を開ける。ただし、触れるのはピアス先生だけだ。」




ピアスが頷き、一歩前へ出る。


その背を見つめながら、天音は自分の指先が冷えていくのを感じた。




宵雨が鍵束を取り出し、鉄の扉に差し込む。


金属が軋む音が、まるで何かを目覚めさせる合図のように響いた。




ゆっくりと開いた扉の向こう──


薄暗い部屋の中央に、それは置かれていた。




木と金属が融合したような奇妙な装置。


鍵盤が並び、表面は光を吸い込むような黒。


それは、長い眠りから醒めたばかりの“何か”のようだった。




最初に息をのんだのは真冬だった。


「……これが、“遺物”……?」


その声は囁きのようで、すぐ空気に溶けた。




伊武は思わず一歩引き、腕を組んだ。


「なんだ……この存在感!ビリビリと伝わってくる!」


晴花はその横で眉をひそめ、でも目を離せずにいた。


「すごい、わからないのに……目が離せない」




八雲はじっと沈黙していた。


彼の目は装置の──黒い鍵盤の継ぎ目たちを見つめていた。


まるで、そこに“音”が潜んでいると分かっているように。




そして、ピアスだけは──違っていた。




彼は扉が開いた瞬間から動かなくなった。


まるで身体の奥がその“何か”に捕まれたように。


天音は思わずその横顔を見た。


ピアスの頬を一筋の汗が伝う。


けれどそれは恐怖の汗ではなかった。


“懐かしさ”に似た、熱のようなものが彼を包んでいた。




宵雨が、低く言う。


「これが、“箱”だ」


「普通の者には一音も鳴らせない。触れた瞬間、拒絶の反応が返る」




ピアスが歩み寄り、鍵盤に手を置く。


「……これは、僕の世界では“ピアノ”と呼ばれていたものに似ている。 でも、決定的に違う」


「音が、こちらの動きに合わせて“応えよう”としている」


言い終わると同時にピアスは鍵盤にかかった手をそっと沈める。


澄んだ一音が響く。


倉庫の奥で、空気が応えるように震えた。


音は続き、短い旋律を描く。


まるで装置のほうが、演奏者に合わせて動いているようだった。




宵雨が低く呟く。


「この箱は、普通の者には一音すら鳴らせない。


構造が拒絶する。だが、ピアス先生は“外側”の者。


それが、この装置を目覚めさせたのかもしれんな」




霧島先生が小さく頷き、ノートを開く。


「記録しましょう。この装置が、どう応えるのかを」




ピアスは再び鍵盤に触れた。


音が“呼吸”するように広がり、空気が変わる。


天音は、その変化を肌で感じ取った。


音が世界の形をわずかに歪め、空気が“聴いている”。




宵雨が一歩近づき、低く言った。


「……私も、昔この箱に触れたことがある。


若い頃、理事長になる前の話だ」


「たった一音だけ、鳴らせた。それ以降は、身体が拒絶してしまった」




天音は驚いた。


宵雨の声には、悔いと懐かしさが混じっていた。


長い時間の中で、誰も鳴らせなかった音。


それが今、目の前で応えている。




ピアスが振り返り、静かに言った。


「昨日、八雲くんと真冬ちゃんも僕のギターに触れて――鳴らしたんです。かすかだけど、確かに“音”が応えた」




宵雨がわずかに目を見開く。


「……なんだと?」




天音は八雲と真冬を見る。


二人の表情は控えめで、それでもどこか確信を宿していた。


宵雨は長く沈黙したあと、低く呟いた。


「……ならば、私の理解は、もう古いのかもしれん。この箱は拒絶ではなく、“応えるべき音”を待っていたのかもしれない」




その言葉に、天音は息を吸う。


倉庫の空気がかすかに揺れた。


“次の音”が、生まれようとしていた。

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