第3節~静寂堂

「……ピアスくんさ」


 天音が小さく首を傾げる。


「ほんとに、テーマがないの?」




 ピアスは少しうつむき、ためらうように答えた。


「はい。僕には……たぶん、そういうものが、ないんです」




 その言葉が空気の奥でひっそりと沈む。


 八雲の表情がわずかに固くなった。




「“ない”って……ありえないだろ」




 理性の裏に、警戒の色がにじんでいた。


 天音も息をのむ。


 テーマを持たない――それは、この世界の理から外れた存在だ。


 ノイズが“歪み”だとすれば、“無音”は世界の秩序にぽっかりと開いた穴のようなものだった。




「ごめんなさい」


 ピアスは小さく頭を下げた。


「僕も理由はわかりません。気づいたときには、いや……きっと最初から音が――テーマが僕にはなかったんです」




 その姿は、どこか壊れやすいもののように見えた。


 天音は思わず言葉を探すが、何も出てこない。




 かわりに、晴花がそっと声をかけた。


「ちょっと違うけど、悪いことじゃないよ。……ね?」




 やさしい声だった。けれどその奥には、わずかな震えがあった。


 天音はうなずいたものの、胸の奥の不安は消えない。




“音のない人”。


 ただその存在が近くにあるだけで、


 世界の法則がどこかで軋むような気がしていた。




 




「ねえ、静寂堂せいじゃくどうに行こうよ」


 晴花がふいに言った。


 その声は、沈むように静かだった。


 彼女が“直感”したときの声だ。




「今から?」


 天音が聞き返すと、晴花は小さくうなずく。




「ちょっとだけ。ピアスくんに、見てほしいの」




「でも…学校は?」八雲が眉をひそめる。




 晴花はくるりと振り返り、にっこり笑った。


「困ってる人を助けるなら、遅刻しても大丈夫! 先生だって怒らないよ。たぶん。……いや、ちょっとは怒るかも。でも、ちゃんと話せばわかってくれるって!」




「“たぶん”と“ちょっと”が気になるな」


 八雲のぼやきに、天音は思わず笑いそうになる。


 晴花のこういうところは、昔から変わらない。


 張りつめた空気を、彼女はいつも軽やかにほぐしてくれる。




「……せいじゃくどう?」


 ピアスが、少し不安げに問い返した。




「うん。私のおじいちゃんが運営してる施設なの。きっと今のピアスくんに必要な場所だと思う」




 晴花の声は穏やかだった。


 ピアスは少し考え、そして言う。




「……行ってみたいです」




 




 三人は顔を見合わせた。


 八雲が無言でうなずき、天音も静かに歩き出す。




 その瞬間、風がひとつ鳴った。


 街の空気が、ほんの少し違う揺れを混ぜた気がした。




 




 静寂堂せいじゃくどうは、晴花やノイズである八雲が子どものころから通っている場所だった。




 テーマを整え、音を鎮めるための修行の場。




 昔、この土地を訪れた“来訪者”が残した調律の技術。


 それが今も息づき、ノイズたちに“静けさを選ぶ”術を与えている。




 静寂堂は、音を消す場所ではなく、


 音に縛られずに生きるための場所だった。




 




 住宅街の外れにある坂道を登る。


 石畳の隙間から草がのび、朝露が光る。


 風と足音が混ざり、世界が少し静かになった。




 この道を歩くと、不思議と声が小さくなる。


 空気が、静けさを求めているようだった。




 




 天音はテーマを下げようと意識する。


 けれど、うまくいかない。


“音を出す”ことは得意でも、“音を抑える”のは昔から苦手だった。


 静寂堂に行くたび、空気を乱してしまいそうで、足元ばかり見てしまう。




 晴花は感覚が鋭く、空気の揺れを読むのがうまい。


 八雲はノイズとして、沈黙に慣れていた。


 彼が歩くだけで、周囲の空気がすっと落ち着く。




 そしてピアス。


 彼は、何もしていないのに最初から“完全な無音”だった。


 その静けさは、まるでこの世界に属していないようで、


 天音の胸にわずかな寒気を残した。




 




 静寂堂の門は古びた木製で、音符のような模様が刻まれている。


 誰かが触れたぬくもりが、木目に残っていた。




 晴花は深く息を吸い、テーマを静かに下げる。


 八雲は何も言わず、自然に空気に溶けた。


 天音もできる限り静かに立つ。


 ピアスは、ただその静けさの中にいた。




 




 扉が音もなく開いた。


 その先に広がるのは、まるで音そのものが眠るような空間だった。




 




 内部は広く、天井が高い。


 壁は柔らかな素材で覆われ、足音を消す灰色の絨毯が敷かれている。


 ここでは、テーマは“鳴る”のではなく、“沈む”のだ。




 十数人の人影が静かに座っていた。


 目を閉じている者もいれば、ただ一点を見つめている者もいる。


 どこにも整った旋律はなく、それなのに静寂が漂っているようだった。




「ノイズの人たちが多いんだ」


 晴花が小声で言った。


「ここなら、誰にも気を使わなくていいから」




 ピアスは小さくうなずいた。


 その横顔に、天音はわずかな光を見た。


 驚きとも、懐かしさともつかない、淡い感情の揺らめき。




 




 奥の壁際に、小さな神棚がある。


 そこには布に包まれた何かが並んでいた。


 晴花が立ち止まり、指をさす。




「そういえば、おじいちゃんが“変な遺物”を預かってるって言ってた。


 誰にも使い方がわからないけど、遺物には間違いないから祀ってあるんだって」




「変な遺物?」天音が聞き返す。




「うん。あれ」




 




 ピアスは何かを感じとったように、ゆっくりと近づき、そっと布をめくった。


 その瞬間、彼の指が止まる。




「……これ」


 声ではなく、指先が震えていた。


「テレキャスター、だ」




 まるで懐かしい人に出会ったような眼差しだった。




「テレキャスター?」天音と八雲が同時に声を上げる。




「僕の世界では、“ギター”っていう音を奏でる道具なんです。


 テレキャスターは、その中のひとつ……この子の名前です」




 




 古びた木のボディ、くすんだ金属、擦れた塗装。


“遺物”それは、かつて異世界の来訪者が残した“楽器”とよばれたもの――


 今では誰も触れようとしないイレギュラー。




 けれどピアスの手つきは自然だった。


 まるで、ずっとそうしてきたように。




「それ……遺物だよね?」晴花が言う。


「昔の“来訪者”が残したっていう……」




 空気がわずかに揺れた。


“ギター”という聞きなれない言葉が、この世界ではあまりに異質だった。


 その響きが、ピアスの出自を静かに告げているようだった。




 




「……これ、僕のだ」




 彼の周囲の空気が、かすかに震えた。


 けれどそれはテーマではない。


「音の前の衝動」


 ――まだ形を持たない旋律が、胸の奥で息をしている。




 天音は息をのむ。


 八雲は黙ったまま。


 晴花だけが、小さくつぶやいた。




「ピアスくんって……ただの異世界人じゃないのかもね」




 




 誰も否定しなかった。




 この世界では、テーマを持つ者は楽器を奏でられない。






 それは、構造の問題だった。




 テーマは、個人の存在そのものに深く結びついている。




 旋律はすでに“在る”ものであり、“創る”ものではない。




 触れようとすると、テーマが拒む。




 身体は強ばり、意識は濁り、何も始まらない。




 けれど――ピアスには“無音”だった。


 だからこそ、彼は特別なのだろう。




 天音の中で、何かが静かにずれた。


 それが世界か、自分か、まだわからないまま。

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