ノイジーボーイ!!

四ノ羽 ガラス

第0節~夜は更けず、唐突に朝が来る

 夜の街は、音でできていた。


 ネオンが瞬くたびに、誰かの笑い声がはじけ、グラスのぶつかる音がリズムを刻む。


 風はビルの隙間を縫いながら、酔いどれた旋律を運んでくる。


 僕はその音の中に、身を沈めていた。




 2、3軒の飲み屋を渡り歩き、深夜2時を過ぎた頃には、思惑どおりにふわふわと酔い、ふらつく足取りで賑やかな街の中へ。




 喧騒に包まれながら、心のざわめきがかき消されていく。


 それが妙に心地よかった。


 何も考えず、どこへ向かうともなく歩き続ける。


 ただ、雑踏に、雑音に溺れていたかった。


 それだけだった。




 どれほど歩いたのか、記憶は曖昧だ。


 気づけば、街の灯りが遠のき、足元のアスファルトが静かに冷えていた。




 繁華街から外れた裏通り。


 コンビニも閉まり、街灯は一本だけ。オレンジ色の光がぼんやりと落ちている。


 その先に、古びた建物があった。




 もともとは映画館だったが、十数年前に改装され、ライブハウスとして生まれ変わった場所だ。


 狭いステージと粗末な照明。けれど音の反響だけは妙に良くて、若いバンドマンたちの間ではちょっとした登竜門だった。


 僕も何度か、あのステージに立った。


 ギターを抱えて、汗だくでコードをかき鳴らし、声が枯れるまで叫んだ。


 客席の奥にいた誰かが、拳を突き上げてくれた夜のことを、今でも覚えている。




 でも、それももう昔の話。


 バンドは解散し、ライブハウスも数年前に閉鎖されたと聞いていた。


 外壁はコンクリートの打ちっぱなしで、雨染みが広がり、ポスターの跡だけが残っている。


 入口の自動ドアは壊れていて、片方が少し開いたまま。


 中は暗く、誰もいないはずだった。




 ーー受付カウンターの奥に、蛍光灯が一本だけ灯っていた。


 その下に、作業着姿の男が座っている。年の頃は五十代くらい。


 顔は見えない。


 うつむいたまま、手元のノートに何かを書いている。




 僕は左耳のピアスを2、3度なで、そっと男の方へ近づいた。


 目の前まで行くと、男は顔を上げずに言った。




「……1000円」




 声は低く、無機質だった。


 僕は反射的に財布を取り出し、千円札を差し出す。


 男はそれを受け取ると、引き出しから半券を取り出して渡してきた。


 印字はかすれていて、「シアター01」とだけ読めた。




「奥へどうぞ」




 言葉に促され、僕は建物の奥へと足を踏み入れた。




 空気が変わった。湿気と埃の匂い。


 廊下の床はリノリウムで、ところどころ剥がれてコンクリートがむき出しになっている。


 壁にはかつての上映作品のポスターが貼られたまま、色褪せて紙が波打っていた。




 劇場内は、驚くほど保存状態が良かった。


 赤いベルベットの座席が並び、真新しさすら感じるスクリーンは白く、何も映っていない。


 僕は中央の席に腰を下ろした。




 ……他に誰もいない。


 ただ、静寂だけが広がっていた。




 ふと気がつくと、膝の上に一本のギターが置かれていた。


 フェンダーのテレキャスター。


 ボディはバタースコッチ・ブロンド、ピックガードは黒。


 ネックには細かい傷があり、フレットは少し摩耗していた。




 それは、バンドを始めたばかりの頃、無理して手に入れた一本だった。


 楽器屋で中古を見つけて、親に頭を下げて借金し、深夜のコンビニバイトを掛け持ちしてようやく買った。


 当時は「テレキャス=玄人向け」というイメージがあって、腕もないくせに背伸びして選んだ。


 でも、使い続けるうちに、僕の手に馴染んでいった。




 バンド解散の日、楽屋に置き去りにしたはずのギターだった。




 指先が、無意識に弦を撫でる。


 アンプもないのに、耳の奥で“何か”が鳴った気がした。




「ビーッ」と耳をつんざくブザー音。


 辺りが暗転し、スクリーンの幕がゆっくりと上がる。




 ーー視界が白く弾けた。


 まばゆい光に目を細めた次の瞬間、僕はもう、あの劇場にはいなかった。






 足元の感触が変わっていた。


 濡れたアスファルト。


 いつの間にか夜は朝へと移り、酔いも完全に覚めていた。




 湿気を孕んだ空気が肌にまとわりつく。


 見知らぬ街。見知らぬ人々。




 まだ時間帯は早いのか、通学路にはぽつりぽつりと学生の姿があるだけだった。


 誰もが眠たげな足取りで歩いている。


 誰かが自転車のペダルをゆっくり踏みながら、前を通り過ぎていく。


 そのチェーンの軋む音と共に、やけに大きく響く不思議なメロディが耳の奥に残る。




 通学路だと、頭ではわかっているのに、どこか遠い場所のようにも感じる。




 一陣の風が吹き抜ける。




 不意に何かを思い出しそうになり、自分の体を手探る。


 指先にあったはずの感触が、もうない。




 ギターは、いつのまにか消えていた。




 自分の名前を思い出そうとする。


 けれど、口の中で転がした音は、どれも違う気がした。




 誰かに呼ばれた記憶もある。


 ステージの上で、拳を突き上げてくれた誰かの顔も、もう思い出せない。




 ただ、耳の奥で、音が鳴っていた。


 それは、深いところから響いてくる“何か”。




 ポケットには、財布もスマホもなく、くしゃくしゃになった半券と小銭だけが入っていた。


 半券には「シアター01」とだけ、かすれた文字で印字されている。




 それが何なのか、もうわからない。


 けれど、なぜか捨てられなかった。




 その紙切れをそっとポケットに戻して、黒いフープのピアスをつま弾く。


 名前のない僕は、歩きだす。


 どこへ向かうのかもわからず、ただ、朝の街を。

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