モスヘティア症候群
炉扇
概要及び症例1
モスヘティアは当初、集団幻覚を引き起こす精神病のように扱われ、モスヘティア症候群という都市伝説まがいのものとして成立した。なお、モスヘティアナ症候群とモスヘティアン症候群は同義の表記ゆれである。
モスヘティアは一般的に、首都パキアと宿泊街アリエを結ぶ小さな町のことをいう。花屋が多いことしか特徴のない町だったが、その立地から観光客の人通りは多かった。
モスヘティアの特徴として、周囲の、日本語で二から三文字で表すことのできる町と比べて長い名前を持つことがまれに指摘されるが、パキア周辺では大きな町に短い名前が、小さな町にそれよりも長い名前が当てられることが普通であり、モスヘティアが特殊な例でないことは明らかである。
この町が病名のように扱われた原因は、パキア旅行者が帰国後、決まってモスヘティアの町を夢に見ることだった。
パキア自体がメジャーな旅行先でないこともあり、はじめ、モスヘティアの夢は一部の旅行好きの間にゆっくりと広まるだけだった。しかし十年前、某オカルト誌が大々的に取り上げて以来、少なくない数の好事家──主に民俗学かぶれやSFマニアがモスヘティアを訪れるようになった。
以下は、実際にモスヘティアの町を訪れ、幾度も夢を見てきた男性による記述である。
僕がモスヘティアに行ったのは五年前でした。もともと一人旅が好きでトスの町には毎年行っていたのですが、そこで知り合った現地人に穴場の旅行先を聞いたところ、パキアを教えてもらったのです。
例によってアリエの安い宿に泊まり、モスヘティアを伝って五日ほどパキアに通いました。
パキアの良い所は町中を川が巡っていることで、それを潰さないように築かれてきた町は他にない形をしていました。
新鮮な魚料理は種類が豊富で、棲んでいる魚の色合いからして見栄えが良いのです。観光名所に特有の活気がないことだけは確かですが、それが穴場の魅力であることは分かっています。総合的に言って、パキアは十分に好みの町でした。
それなのに、夢の中で見る景色となると、モスヘティアなのです。アリエやパキアがまったく出てこないわけではありません。モスヘティアは狭い町ですし、パキアの高い建物はどこからでも見えます。
川のせいで面積の少ないパキアの町は、色々なものを縦に積み上げていました。アリエも僕が宿泊していた場所ですから、夢がアリエの宿から始まる場合もありました。それでも、僕の足が向かう先はモスヘティアでした。
夢の中で奇異な出来事が起こるわけではないのです。ただ、よく話しかけられます。夢から覚めたあと、それぞれの顔を覚えていることはないのですが、どれも知らない顔であることは確かでした。
人々は一様に陽気でありながら、深い関心を向けてくることはありません。都市と田舎の中間という感じです。僕は田舎に住んだことがないので、これは偏見と考えてもらって構わないのですが……。
モスヘティアはそこだけで稼げる町ではありませんが、パキアやアリエに働きに出やすいので若者も多く住んでいました。平坦な地形なので老人にも優しく、老後をこの町で過ごす想像は実にしっくりきます。そこに暮らす老若男女が、夢の中で話しかけてきました。
いくつか、覚えている会話を挙げてみましょう。
「やぁ、君はここに来てどれぐらい?」
若くて背の高い男でした。僕が意識的に答えを考えることはありません。いつも、自然に口を開いていました。
「まだ半年です」
半年というのは、この会話をした当初、僕がモスヘティアから日本に帰国してからの期間でした。
それを聞いた男は大げさにリアクションを取っているように見えましたが、そのような演技らしいボディランゲージは夢の中のモスヘティアの常識でした。
そうすることで相手と適切な距離を取ることができる儀式のようでしたが、僕にそれが要求されることはなく、いつも相手の方が調整してくれます。
「この町は気に入ったかい」
「えぇ。落ち着けます」
「今夜はどこで食べるんだい」
その質問に僕は少し考え込みました。でもそれは、僕自身が考え込んでいたわけではなくて、考え込む僕の映像が流れていただけです。
「宿で料理をしてみようかな。パキアで魚を貰ったんです」
「それはいい。美味しくできるといいね」
その夢はそれで終わりました。実際にパキアで魚を貰ったことはありませんでしたし、僕は魚を捌いたこともありません。でも、夢から覚めたあと、久しぶりにキッチンを使いました。
料理としては、スパゲッティを茹でてレトルトのソースを混ぜただけです。それでも、しばらく触っていなかった洗い物をまとめて処理することができました。
この会話を四年半経った今でも覚えているのは、夢の内容というよりも、その洗い物の中に彼女から貰ったお皿を見つけたことが理由な気がしています。
彼女といってもすでに別れてから三年は過ぎていましたし、お互い慣れていなくて恋人らしいことはあまりできませんでした。
ずっと、僕が意識すらしていないところで彼女のことが尾を引いていたのかもしれません。そのお皿を洗ってからようやく、彼女との短い日々を思い出すことができました。
消化、って言うんですかね。記憶から、思い出に。固体から液体になって、僕の中を巡っているような気がします。
男性はこの後もいくつかの会話を記述しているが、ここで別の女性の叙述に移りたい。女性はモスヘティアの夢がネット上で広まるより以前に町を訪れており、今回連絡を取れた中では最も早い時期から夢を見ていた。
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