第12話:恋の最終回(再起動)

 恋はデータじゃない。けれど確かに再現可能だった。一年後の再会。「お久しぶりです、社長」「遅い。ずっと待ってた」


 ◆


 あれから一年が過ぎた。


 美咲はあの夜のオフィスで陽太の犠牲をただ受け入れるのではなく、自ら戦う道を選んだ。翌朝彼女は人事部に退職届を提出した。社内規定の壁にぶつかりながらも「私が決める」と誓った言葉を胸に刻んで。


 退職の日。オフィスの窓辺で、最後の荷物をまとめていると、スマホに一通のメールが届いた。


【件名:君のタイミング、完璧だ】

【佐久間より】

「高橋。君のプレゼン、覚えてるよ。あのスライドの勇気、俺のデータじゃ測れなかった。独立? 君なら、業界をアップデートできる。いつか、コラボしようぜ。――タイミング、待ってるよ」


 佐久間の言葉に、美咲は、ふっと笑った。涙がにじむのを、慌てて拭う。

(先輩、ありがとう。あなたのおかげで、タイミングの大事さ、分かったわ)


 小さなオフィスを借り、たった一人で事業計画書を書いた。夜中、ノートパソコンの青白い光に照らされながら、AIの感情分析エンジンを設計する。陽太の「データより大事なものがある」という言葉を、何度も心の中で繰り返す。


 最初のピッチ。ベンチャーキャピタルで、投資家にプレゼンする。スライドを進めながら、手が震える。

「この『エモーション・ダイブ』は、恋愛の不確定性を、データで解き明かします。でも、心のバグは、アルゴリズムじゃ測れません。だからこそ、私たちは……」


 投資家の一人が、眉をひそめる。「リスクが高すぎる。感情データなんて、予測不能だろ?」

 美咲の胸が、ざわつく。あの日の自分を思い出す。陽太の嘘を守った会議室の涙。

(予測不能? それが、恋よ。陽太の守りが、私のバグを直したみたいに)


 声が詰まる。投資家たちの視線が、重い。美咲は、深呼吸して、続ける。

「予測不能だからこそ、価値があるんです。私のパートナー……いえ、かつての同僚が、教えてくれました。データじゃなく、心でアップデートするんです」


 その言葉に、投資家の一人が、ふっと笑う。「面白いな。じゃあ、続けてみろ」

 ピッチは、成功した。契約書にサインする瞬間、美咲は、窓の外の夜景を見つめて、涙をこぼした。笑いながら。

(陽太、聞こえてる? 私、戦ってるよ。あなたを待ってるよ)


 会社『株式会社エモーション・ダイブ』は、業界が注目する気鋭のAIスタートアップとして、確かな一歩を踏み出していた。社員はまだ三人。でも、美咲の瞳には、未来のグラフが、すでに描かれていた。


 ◆


 一方、陽太は、関連会社で、静かな日々を送っていた。データ入力の単調な作業。キーボードの音が、唯一の伴侶。

 だが、その裏で、彼は、来るべき日のために、牙を研ぎ続けていた。AIに関する、世界中の論文を読み漁り、技術を、知識を、その脳に蓄積し続けた。


 ある夜、居酒屋で一人、ビールを傾けながら、スマホのニュースアプリをスクロールする。

「AIスタートアップ『エモーション・ダイブ』、新感情分析ツールで業界騒然」

 記事の写真に、美咲の笑顔。少し疲れた目元、でも輝く瞳。

(美咲……お疲れ。君のツール、俺のデータでテストしたかったな)


 心が、ざわつく。1年のデータログを、脳内で再生する。

 出会いの口論。新幹線のキス。パンケーキの「あーん」。飲み会の耳元囁き。深夜のログ改ざん。既読の残酷。スライドの「好きです」。そして、あの夜の「私が決める」。


(確率0.01%の再会。1年経って、今、何%だ?)


 陽太は、グラスを置く。決意が、固まる。

 翌日、ネットの求人サイトで、見慣れた名前を見つけた。

『株式会社エモーション・ダイブ』

 職種:チーフ・データサイエンティスト。


(応募ボタン、クリック。リスク100%。でも、会いたい確率、無限大)


 面接の準備。鏡の前で、ネクタイを直す。

「俺は、相葉陽太。データアナリストとして、君のバグを直したい……いや、直すんじゃなく、一緒にアップデートしたい」


 笑ってしまう。データオタクのまま、でも、心は変わった。

(美咲、待っててくれ。俺の最終データ、届けるよ)


 ◆


 最終面接の日。

 陽太は、小さなオフィスの、社長室のドアの前に立っていた。社員の活気ある声が、廊下に響く。緊張で、心臓がうるさい。心拍数、150bpm超え。


 ドアを開ける。

 窓からの温かな光を浴びて、一人の女性が、こちらを振り向いた。一年前より、ずっと大人びて、ずっと綺麗になった、彼女。デスクの上に、事業計画書の山。壁に、AIの感情カーブグラフが貼ってある。


 美咲の目が、大きく見開く。一瞬の沈黙。

 陽太は、照れ隠しと、精一杯の敬意を込めて、そう言った。

「……お久しぶりです、社長」


 美咲は、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに、意地悪く笑った。涙が、にじむのを隠すように。

「遅い。ずっと待ってた」


 その言葉を聞いた瞬間、一年という時間が、溶けるように熱くなる。陽太の胸に、フラッシュバックが連鎖する。

 ――新幹線のキス。唇の跡だけが、証拠。

 ――パンケーキのクリーム、拭ったハンカチの感触。

 ――飲み会の肩もたれ。「後悔してる?」の吐息。

 ――深夜のクリック音。ログの墓標。

 ――既読の二文字。指でなぞる残酷。

 ――スライドの「好きです」。会場どよめき。

 ――夜のオフィス。「私が決める」の涙。


 全てが、ぐちゃぐちゃに混ざる。涙と笑いが、陽太の顔を濡らす。

(美咲……この1年、君のニュースを見るたび、笑って、泣いてた。データじゃ測れない、このバグだらけの好き)


 陽太は、もう、何も言わなかった。ただ、まっすぐに彼女の元へ歩いていき、その華奢な身体を、強く、強く、抱きしめた。

「…………っ!」


 驚く美咲。だが、彼女も、すぐに、その腕を、陽太の背中に回した。強く、離さないように。

 懐かしい、シャンプーの香り。失いたくなかった、温もり。オフィスの光が、二人の影を、長く伸ばす。


「…………バカ」

 陽太の声が、震える。笑いながら。

「…………ああ」

 美咲も、笑う。涙が、頰を伝う。

「…………会いたかった。本当に、遅いよ」

「…………俺もだ。毎晩、君の記事読んで、データ分析してた。『美咲の成長率、120%』って」


 美咲が、くすっと吹き出す。抱きしめたまま、背中を叩く。

「バカ! そんなデータ、いらない。……でも、嬉しかったかも」

「…………ごめん。守れなくて」

「守ってくれたよ。あの嘘が、私のスタートラインだった。佐久間先輩のメールも、陽太の犠牲も。全部、アップデートのおかげ」


 二人は、ゆっくりと離れる。顔を見合わせる。涙でぐしゃぐしゃの、でも、笑顔。

 美咲が、陽太の頰を、そっと拭う。

「採用、決まり。チーフ・データサイエンティスト、陽太さん」

「…………社長、厳しいね」

「うん。喧嘩も、するよ。でも、次は、仲直りから」


 オフィスの窓から、夕陽が差し込む。グラフの線が、二人の影に重なる。

 恋は、データじゃない。

 理屈でもない。

 不合理で、非効率で、バグだらけだ。


 けど、確かに、それは。

 僕と君の間で、何度も、再現可能だった。


 ◆


 陽太の腕の中で、美咲は、ようやく泣けた。


 1年分の涙が、この温もりの中で溶けていく。失われたデータのように、静かに、しかし確実に、彼女の心のログを上書きしていく。


 陽太は、ただ、彼女の髪を優しく撫でる。言葉はいらない。1年の空白が、互いの鼓動で埋め尽くされる。


 窓の外では、夕陽が街を赤く染めていた。グラフの曲線のように、ゆっくりと沈みゆく光が、二人の影を長く、優しく伸ばす。


 恋は、データじゃない。


 理屈でもない。


 不合理で、非効率で、バグだらけだ。


 けど、確かに、それは。


 僕と君の間で、何度も、再現可能だった。


 ――この瞬間のように。


(了)


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恋とデータの不確定性原理 山田花子(やまだ はなこ)です🪄✨ @hanakoailove

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