第6話:恋のバグ発生
昨夜の甘い熱が嘘のように、オフィスは凍てついていた。緊急招集された会議室。モニターに映し出されたエラーログの羅列が、事の重大さを物語っている。
誰かが、冷めたコーヒーに手を伸ばす。椅子が、軋む音。沈黙の中のノイズが、緊張を物理的に伝えていた。
「……原因は、三日前のアップデート時に混入した、不正なコードです」僕の説明に、その場にいた全員が息を呑んだ。「ユーザーの行動履歴と嗜好性ベクトルが一致せず、数千人規模で誤ったマッチング推薦がなされています。最悪の場合、全ユーザーの信頼を失います」
「被害は?」上司の厳しい声が飛ぶ。
「すでにSNSでは『リンクスがおかしくなった』と炎上し始めています。株価への影響も避けられません」
「担当は、誰だ」佐久間の、氷のように冷たい声が響く。誰もが、口をつぐんだ。僕は、ログの最終更新者の名前を、言わなければならなかった。
「……最終、コミットは……高橋、美咲です」
僕の言葉に、美咲が「え」と息を呑む。彼女の顔から、血の気が引いていくのが、手に取るように分かった。
「……そんな、はず……」
「だが、データはそう示している」佐久間は、一切の感情を排した声で言った。「高橋さん、君の責任問題になる。始末書だけでは済まないかもしれない」
退職。その二文字が、美咲の頭上を旋回する。彼女は、ただ、震える唇を噛み締めることしかできなかった。
(俺のせいだ)
本当は、違う。あのアップデートの日、僕は美咲の作業を手伝っていた。僕が、彼女のコードをレビューした。見落としたのは、僕だ。共同責任。いや、キャリアの浅い彼女に任せた、僕の責任だ。だが、それを今、ここで言えるのか?言えば、僕も同罪になる。
会議が終わり、美咲は力なく自席に座り込んでいた。その背中は、今にも折れてしまいそうなくらい、小さく見えた。
(守りたい)
昨夜、僕の肩にかかった、あの温もり。耳元で囁かれた、震える声。あのフラッシュバックが、僕の決意を固めさせた。
その日の深夜。誰もいなくなったオフィスで、僕は一人、自分のデスクに向かっていた。モニターの青白い光が、僕の顔を照らし出す。
(バグ修正? いや、これは恋のハックだ)
このハックの成功率は、限りなく0%に近い。だが、これを実行すれば、僕たちの恋の確率は、少しだけ上がるかもしれない。アルゴリズムの盲点。データでは決して導き出せない、唯一の解。
僕は、サーバーの管理者権限で、ログファイルにアクセスした。目的は一つ。美咲の名前を、ログから消し去ること。僕の名前と、入れ替えること。
キーボードを叩く、クリック音だけが、静寂なオフィスに響く。それはまるで、恋の墓標を、一つ一つ刻んでいく音のようだった。データの整合性。アナリストとしての倫理。その全てを、僕は今、投げ捨てようとしている。守るために、壊す。それが、僕が見つけ出した、唯一のアルゴリズムだった。
「……何してるの」
背後からの声に、心臓が凍りついた。振り返ると、そこに立っていたのは、美咲だった。
「……なんで、まだ会社に」
「忘れ物……。それより、あなたこそ、何してるの。その画面……まさか」
彼女の目が、僕のモニターに映る、書き換えられたログを見つける。
「……やめて」美咲の声が、震えていた。「やめてよ、陽太……! 私のせいで、あなたまで……!」
「……もう、書き換えた」
エンター。元に戻せない音。心が砕ける。
これで、もう後戻りはできない。
「なんで……」美咲の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。「なんで、そんなこと……!」
(陽太の嘘、受け止めきれない。守られてる。愛されてるみたいで、怖い)
「……」僕は、何も答えなかった。ただ、静かに立ち上がり、彼女の横を通り過ぎる。
「誰も気づかなくていい。俺だけ知ってればいいから」
その言葉だけを残して。
翌日、僕の「犯行」は、あっさりと露見した。佐久間の、鋭い調査によって。彼は僕の改ざんログを見つけると、一瞬だけ、何かを堪えるような表情を見せた。
「……相葉、君のデータセンスは、惜しいな」
マネージャー室に呼び出された僕は、全ての事実を認めた。
「……よって、相葉陽太を、データサイエンス部門から、関連会社のデータ入力部門へ、出向を命じる」
左遷。それは、アナリストとしてのキャリアの、事実上の終わりを意味していた。
自分のデスクを段ボール箱に詰めていると、美咲がやってきた。その目は、泣き腫らしていた。
廊下の冷たい蛍光灯が、段ボールの影を長く伸ばす。外から、街の音が遠く聞こえる。
「……ごめん」
「……君が、謝ることじゃない」
「でも……!」
「……ありがとう」
「え……?」
「君のおかげで、分かったことがある」僕は、段ボール箱を持ち上げた。冷たい段ボールの底に、彼女の笑い声の残響が貼り付いていた。「データより、大事なものがあるってこと」
美咲は、それ以上、何も言えなかった。
僕は、彼女に背を向け、歩き出す。
(陽太の背中が遠ざかるのを見て、胸にぽっかりと穴が開いた。私のミスなのに……好き、という気持ちが、こんなに痛いなんて)
新しい部署への異動を知らせる、一通のメール。それが、僕と彼女を隔てる、新しい現実だった。
(恋は、きっとバグなんかじゃない。正しく動かないから、心が動くんだ)
(第六話 終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます