・ドラゴンカーあいさつ
龍と車が愛し合う様子に興奮する特殊な性的嗜好がある、とされている。
それは良いのだが、行為に至るまでの過程があってほしいと思う。
ドラゴンが空を飛んでいると、真下の草むらにレトロなビートルが乗り捨てられているのを発見する。
水色のボディーはくすんでおり、ずいぶん年季が入っている。
車内はゴミともつかぬものが大量に積み込まれていて、ナンバープレートが剝がされている。放置車両、あるいは盗難車かもしれない。
無残な姿になった車両を見て、ドラゴンは生唾を飲み込む。
しかし今は早朝で、ドラゴンは会社へ向かう途中なので、ビートルにかまっている暇などない。今日は大事なプレゼンが控えている。
しかもドラゴンには家庭がある。今年3歳になる娘もいる。
荒くなる呼吸を理性で抑えつつ、ドラゴンは翼をはためかせて素通りしていく。
しかし、そこはドラゴンの通勤ルートであり、ドラゴンは毎日のようにそのビートルを見下ろすことになる。
休みの日に見に来ようかとも思ったが、妻と過ごす時間や、娘の成長を見守る時間を何とか捻出しているのに、それを削りたくはない。
時が経ち、数か月後。
ビートルは忽然と姿を消していた。
役所の人間が撤去に動いたのだろうか。ドラゴンは落胆した。
と同時に安堵した。
いまの生活があのビートルによって壊されることはなくなった。
いや、壊すとするならばそれはビートルによってではなく、ビートルへの興奮を抑えきれなくなった己によってだ。
一時の快楽より一生の生活を優先できた自分が、ドラゴンとして誇らしくもあった。
揚々と空を飛び、会社へ辿り着くと、ドラゴンは目を疑った。
駐車場に、あの水色のビートルが停まっている。
傷も汚れもなく、ナンバープレートもついた、水色のビートル。
そこから現れた男性の人間は、部長であった。
「部長、そのビートル……」
「おお、いいだろこれ。最近レトロブームだからな。新しく買ったんだよ。この昔ながらの水色が味でさ……」
どうやらあの放置車両とは全く別のビートルらしい。
撤去のタイミングとたまたま重なっただけだろうか。そんな偶然があるだろうか。
ドラゴンはビートルへ歩み寄る。
丸みを帯びた艶のあるボディー、ぴかぴかのランプ、小ぶりなマフラー。
ボロボロで、草むらに雑然と放置され、車ではなくゴミとして扱われていたあのビートルの姿が、ドラゴンの脳裏にフラッシュバックする。
自分の力をもってすれば、この新車のビートルであっても、すぐにあのみすぼらしい姿にすることができる。
そのときの征服感、優越感、ドラゴンという種族としての万能感とは、いかほどのものであろうか。
「おいおい、見とれるのはいいけどもう行くぞ。会議が始まっちまう」
部長に急かされ、ドラゴンははっと我に返る。
ビートルに背を向けてオフィスへ向かう部長を確認し、ドラゴンはビートルへさらに近づいた。
心臓の鼓動速く、血流は濁流のごとく、本能が火花を散らす。
しかしこれは部長の車であり、ここは会社の駐車場であり、今から仕事が待っている。何より自分には、愛する家族がいる。
ドラゴンは大きく息を吐き、ただ黙って停まっているビートルへ、深く頭を下げた。
「おはようございます。これからよろしくお願いします」
このように、まずはドラゴンカーあいさつから始まることだろう。
その先にどんな龍と車の物語が待っていようと、それは誰も知る由がない。
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