腸をすませば

yen_chang_ziii

前編 腹痛と駆け抜けた少年時代

 ■一


 ふんどし一丁でハチマキを巻いた厳つい男が、一心不乱に和太鼓を叩く有り様をイメージしていた。遠慮のない汗が絶えず滴り落ち、畳に影のような染みを作る。無精髭の生えた口元は固く結ばれ、代わりに虚無を飲み込む鼻の穴は大きく開かれていた。権田巌。この太鼓の達人に、僕はそんな名前をつけた。腰を割って太鼓に対峙している巌が、一瞬こちらを振り向き微笑んだ気がした。いや、あれは太鼓を叩き続け、疲労した三角筋にエクスタシーを感じているだけか。僕を弄ぶように、和太鼓のビートが速くなる。空気が揺れる。肺が圧迫される。汗が飛ぶ。飛んだ汗すら空中で揺れる。畳に落ちるまでにエイトビートを刻む。もう駄目だ。

 全ての感覚を遮断して外界からの刺激を少しでも減らそうと瞑った目を開く。思った以上に強く目を閉じていたからか、視界の中に精子みたいなのが泳いでいる気がした。保健体育の教科書で目にするまではミドリムシだと感じていたのに、今では精子としか思えない。実際精子なんて目にしたことがないし、あんなものが自分のちんぽこから発射オーライするなんて想像もつかない。もしも精子が教科書の写真で見たままの姿で大人のおちんちんに潜んでいるなら、それって勝手に出てきちゃうんじゃないの? 家で机に向かって勉強してたりしても、本能のままにちんこから這い出して、それで子供をこさえるために女の子を探し始めるんじゃないの? どういう仕組みなんだろう。やっぱり想像がつかないんだよな。

 権田巌はもういない。和太鼓も畳も汗の染みもない。目の前にあるのは、薄いピンクのカーテンで長方形に仕切られた味気のない空間だけだ。僕はカーテンに囲まれたベッドに腰掛けて精神統一をしていた。腹痛をおさえるためのマインドフルネスだ。心を落ち着かせ、刺激を遮断する。上手くいったことなんてない。悪魔が笑っているみたいな不気味な音をお腹の底に感じて、つい和太鼓を叩く巌をイメージしてしまうんだ。太鼓の音はやがて体とシンクロして僕を責め立てる。で、冷や汗かいて次の行動に移るわけだ。つまり無駄な時間。我慢の時間とトイレまでの距離を長引かせる失態って言えるだろうね。でもさ、お腹が痛い時ってそんなもんでしょ。正常な考え方が出来ない。そりゃあ、僕の賢さなんて大したことがない。クラスでも自分では中の上だって思ってるけど、友人に言わせれば中の下ってところで、だから客観的な判断としては中の中がいいところだろう。それでも無意味だと分かっている行動なんて取らない。ところが腹痛が始まるとどうだ。とにかく漏らさないようにと、漏らす可能性の高い行動ばかりを選択してしまう。これがお腹弱者のジレンマってやつなんだろうな。

 無意識に爪が食い込むくらい強く太ももを握りしめていた。肩と首も疲れている。腹痛に耐えるため、相当体を酷使してしまっているのを実感した。僕は鞄から缶コーヒーを取り出して、慎重にカーテンを開いた。別にカーテンの向こう側に恐怖していたわけではない。ただ、大胆に動いてしまうと不意にお漏らしをしてしまいそうで、それが怖かっただけだ。

 背中をこちらに向けてデスクに向かう大堀莉緒先生が振り返る。

「まだ腹痛いか?」

 丸い座面の回転椅子が、勢い余って一回転半したところで大堀先生は足を床につけた。それまでは遊具を楽しむ子供みたいに足を持ち上げていた。この先生は、もう二十台後半のはずなのに少し子供っぽいところがあるんだよな。威厳がないっていうのかな。友達みたいな口調で話しかけてくるし。言っとくけど、僕はそんなことで先生との距離感を見誤ったりしない。親近感なんて感じない。二十台後半のばばあと仲良くなんて出来るわけがないんだ。だって二十台後半って言ったらもう三十五だし。三十五って言ったら母ちゃんとほぼ一緒だし。母ちゃんと友達みたいに仲良くなんて出来ないし。

「まだ少し痛いです。で、これ今日の分」

 大堀先生は僕が差し出した缶コーヒーに手を伸ばしながら壁にかけてある時計を見た。十一時四十三分。現時点の時刻に意味なんてないはずだ。缶コーヒーは僕が保健室登校をした日に必ず用意する差し入れで、いつも午前中に手渡すようにしている。稀に渡さずに済む日もあるが、それでもこちらの企みには気付かれたくないから、意味もなく渡している。先生が時計を気にしたのは、きっと前に煙草を吸ったのはいつだったかを確認するためでしかない。そう、わざわざ自宅から缶コーヒーを持ってくるのは、パブロフの犬みたいに先生を煙草休憩に導くツールでしかないんだ。前に煙草とコーヒーはセットだ、なんてじじいみたいなこと言ってたから、その時に思いついた。これだ、と思ったね。

 保健室を出ると、廊下を挟んで向かい側に職員用トイレがある。当然先生とか大人しか使えない。勝手に生徒が侵入しようものならトイレの並びにある職員室から先生たちが飛んできて「生徒は使用禁止だ」なんてゴネ始める。まったく呆れるよ。自分たち専用のトイレにご執心なんだから。月の給料の代わりにオムツでも履かせとけばそれで納得するのかもしれないな。そこに思う存分うんこを垂れればいいんだ。生徒どころか同僚の職員すらズボンを下ろすことを許されない自分だけの聖域。それが先生たちの本当に望んでいるものなのかも知れない。

 だから僕は、どんなに差し迫った状況でも保健室を出て目の前の職員用トイレを恨めしい目で見ながら階段を三階まで上がって、更に廊下を情けない小走りで突っ切り、理科室前の授業がなければ誰も使わないトイレに駆け込むしかない。そんなの絶対間違ってる。僕らには好きな時にトイレを使う権利があるはずだ。もちろん学校で本格的に漏らしたことなんてない。もし既にその経験値を獲得していたとするなら、僕は新たなフェーズ、つまり本格的な登校拒否へとステップアップしているはずだ。だけど無駄走りの途中で危うい覚悟を決めたことならある。何度も。ああ、もう駄目だ。全部おしまいだってね。だけど、そこで自らを奮い立たせてなんとか理科室前のトイレまで肛門を緩めることはしなかった。緩めてしまったらどうなるかが分かっていたから。つまり、今までなんとか漏らさずにいて、幼少期のトラウマを抱えずに済んでいるのは、全て僕自身の努力の賜物ってわけだね。大人はなにもしてくれない。自分勝手なルールを子供に押し付けて悦に入っているだけだ。だから僕の方もより生きやすいルールを作ることにしたんだ。勝手にね。

 目の前の職員用トイレに駆け込むのを邪魔するのは大堀先生だ。彼女は生徒に砕けた調子で接する割に面倒事を嫌う。自分よりもっと年上の先生や偉い先生に目をつけられたくないんだ。だから、僕が謎の腹痛に困っていているのは百も承知で、別のトイレを使うように促す。でもさ、大堀先生をやり過ごしてしまえば、後はあんまり問題じゃないんだ。僕はお腹に溜まった黒いバージョンのマグマを個室で放出したいだけだし、フリースペースの小便器には用がない。職員用トイレに入る瞬間と出る瞬間をおさえられない限り、誰も僕を止めることは出来ない。

 幸い大堀先生は、その行動をニコチンに支配されていた。多分この人、いつも煙草のこと考えて生活しているんじゃないかな。でも校舎内は全面禁煙だから、煙草を吸いたくなったら校舎裏の駐輪場の脇にある喫煙所までイライラした時の大股歩きで突進するしかない。しかも、いくら保健室勤務だからと言ってそう頻繁に「火の用心」って用務員のおじさんが赤いペンキで書いたバケツが置かれただけの喫煙所に向かってたんじゃバツが悪い。あそこは職員室から丸見えだから。普段授業を受け持たず部屋に籠りっぱなしの校長先生や教頭先生にニコチン中毒のサボり魔って烙印を押されたんじゃ、この先が思いやられるもの。だけどさ、吸いたいものは吸いたいんだよ。病気なんだから。我慢出来ない。きっと大堀先生は午前中の内に保健室を抜け出して一本か二本吸うくらいなら常識の範囲内って考えてたんじゃないかな。でもほら、理由がないじゃない。給食の時間になれば、ご飯なんか食べずにいくらでもニコチンを貪れるわけだし。だから僕が缶コーヒーで後押しをしてあげることにしたんだ。僕んちだってさ、そんなに裕福なわけじゃないから、缶コーヒーを毎日購入するなんて贅沢にありつけるわけじゃない。だけどたまたまあったんだよ。家に大量の缶コーヒーが。母ちゃんが職場で貰ったって言ってた。箱ごと二つ。数えたら四十八本も入ってた。母ちゃんはコーヒーは飲むけど、缶コーヒーはあんまり飲まないっていう生意気な主義を掲げて生きているから、近所に配っちゃおうかななんて悠長なことを言っていた。だから僕が全部貰った。ちょうどいいって思った。これで少なくとも四十八回大堀先生を操れるはずだ。

 給食前の、一番煙草に飢えたニコチンゾンビみたいになっている先生に、そっと缶コーヒーを差し入れする。小学生が学校に缶コーヒーを持ってきちゃ駄目だ、なんて小言は言わないはずだ。だって病気なんだから。仕方がないよ。元々、午前中に一度くらい煙草休憩を取ってもいいんじゃないかなんて甘い考えで仕事をしているはずなんだ。これまでは他の先生の目が気になっていたからなんとか我慢していたけど、煙草にはコーヒーなんて言っちゃうような女なんだよ。隙を与えたら飛び付くに決まってんだ。

「それじゃあ私はそろそろ。一人で大丈夫だよね? すぐに戻るから」

「うん、なんとか平気」

 せっかくお腹をおさえながら頷いたのに、大堀先生は僕のことを見てもいなかった。煙草とライターが入っている白衣のポケットに手を入れて、勢いよく保健室から出ていった。ああはなりたくないもんだよ。

 一人になってからも焦って廊下に出るなんて失態は犯さない。お腹の中は全学年の男子を一つのプールに放り込んで放置したみたいな大騒ぎだったけど、それでも努めて冷静になる必要があった。先生に見つかって今更遥か彼方にあるトイレに行くことになるなんて耐えられないし、授業を抜け出した馬鹿な生徒に見つかって騒ぎ立てられるのも問題だった。警戒しなければならない。ベッドの縁に腰掛けていつも通りゆっくりと十数える。これで多分、六秒くらいは稼げたんじゃないかな。僕だってほら、切羽詰まっているわけだから悠長に時間なんて数えてられないよ。後半はかなり駆け足の数え方になってたけど、そんなの誰が責められる? こっちは今にもお漏らししそうな小学生なんだから。

 立ち上がって、保健室の扉を薄く開く。頭だけ廊下に出して周囲の様子を伺った。遠くで授業の香りが漂っているけど、辺りには誰もいない。職員室も静かなもんだ。皆居眠りでもしているのかも知れない。そっと廊下に出て、今度は職員用トイレの扉を開けた。誰もいない。よし。体をくねらして扉を抜けると僕はトイレに進入する。三つある個室の一番奥へと突進して鍵を閉めた。はっきり言って山は越えた。安心して肛門が開き、ここへ来て漏らしてしまいそうになるほどの安堵だった。最後の力を振り絞って、大便の出口を締め上げながらズボンとパンツを同時に下ろす。一瞬便座の様子を確認した。いくら職員用トイレだとはいえ、便座を汚したまま退出するような不届き者がいないとも限らない。幸い便座に汚れはついていなかった。腰を下ろし、全身の力を抜いた。

 その時だった。

 トイレの扉が開く音が聞こえた。一瞬でも判断が遅れていたら取り返せなかった。寸前のところで再び肛門に力を込めて、ブラックホールみたいに開いた穴からゆるゆるのうんこが飛び出すのを防いだ。

 鼻歌を歌いながら隣の個室に入る男の気配を感じた。駄目だ。咄嗟にうんこが吹き出るのを防いだが、そんなの付け焼き刃の行動に過ぎなかった。一度でも便座に腰を落とし、体から力を抜いてしまえば、もう大いなる流れを止めることなんて出来ない。尻の穴が揺れて、ぶうぶうと大きな音を立てながら緩い排泄物を便器に噴射させた。ロケットみたいに体が飛び上がるんじゃないかと思った。駄目なのに。僕は思った。職員用トイレに生徒が入っちゃ駄目なのにって。ましてや、個室で豪快に用を足すなんて許されない行動なのに。だけど止まらなかった。僕のお腹は保健室で散々我慢させられたのを根に持っているようだった。火星まで連れて行くような勢いを持って、地球上で一番汚れたエネルギーを便器に叩きつけ続けた。

「あれ、校長ですか?」

 教頭先生の声だった。頼りない壁一枚で隔てられた向こう側から聞こえる声には、耳元で囁かれているような臨場感があった。どうしよう。答えたらアウトだし、答えなくても怪しまれる。まずい、追い込まれた。

 ぶうぶう、ぷう。僕の精神状態なんて関係なしに、うんこは音を立てながら便器に向かって流れ続けた。

「あ、校長ですね。これはこれは、相変わらずの快便で。羨ましいですな」

 教頭先生は勝手に納得した。うんこを出す音で個人を特定できるなんて、きっと二人は強い絆で結ばれているに違いない。子供たちが思うよりずっと。校長は太っていてたぬきみたいだし教頭は痩せていてきつねみたいだけど、お互いに禿げているっていう共通点がある。太っていようが痩せていようが、頭頂部の肌が露出しているなんて駄目だよね。大人の女性には嫌われるし、男性からも憐れまれる。それだけじゃない。子供からだって疎まれるんだ。禿げなんて遠い未来の話だし現実感だってまるでないけど、それでも直感的な嫌悪を感じるっていうのかな。ああなったらおしまいなんだろうなって、そんな予感が頭を過って気付いたら嫌ってるんだ。考えてみたらとんでもないよね。ただ髪の毛が少ないだけで、多方面から嫌われるなんて。もしかしたら二人は、そんなコンプレックスで繋がってるのかも知れないな。うん、きっとそうだ。同じような悩みを抱えた者同士、ぺろぺろと傷を舐め合っていないと寂しいもんな。前に全校朝礼で校長先生が「人は一人じゃ生きられない」なんてナルシストなこと言ってたけど、そのことを言っていたんだな。禿げは一人では生きていけない。そういうことだったんだね。

 校長先生と教頭先生の関係性が腑に落ちてすっきりはしたけど、腹の調子は全然すっきりとしていなかった。そして、もし隣人が相棒ではないと教頭が気付いたら。そう考えると恐ろしかった。違うんです、と告白するわけにはいかないし、このまま校長先生のフリをし続けることも出来ない。大体僕の声は子供っぽくて少し高いし、どうやっても大人の声には聞こえない。ぶぶう、と人の気持ちを逆なでするような排出音が股の間で鳴る。その後でべちゃべちゃと柔らかうんこが便器を叩く音も続いた。唯一人の視聴者が禿げたじじいだったとしても恥ずかしかった。

「豪快でけっこうですな。私の方はいつも通り便秘ですよ。微かな便意を感じてはトイレに駆け込んで、こうして唸り続ける人生ですわ」

 ぷすう、と教頭の頭部に残った僅かな髪の毛ですら飛ばせないような情けないおならの音が隣の個室から聞こえた。なんだか腹立たしくなる、身の詰まっていない音だった。そうして、僕はある法則に気付いた。僕がうんこをする時の炸裂音に、教頭は反応しているんだって。どう考えても変だけど、彼らの中ではそれが通用している。このままぶうぶうとやりまくっていたら、最後まで教頭先生を欺くことができるかも知れない。ぶう。よく気付いたな、とでも言うような小気味の良い音が鳴った。

「そうですかそうですか。ところで校長、新任の三好先生はどうですか? 良い女じゃないですか。いつも通り指導にかこつけて手を出すんじゃないでしょうね。最高じゃないですか。私にも一枚噛ませてくださいよ。校長の後でいいんで」

 はっはっは。と嫌らしい高笑いが聞こえた。笑い声に合わせてぷっぷっぷ、というおならの音も。なにを言っているのかは分からなかった。でもきっと、子供が聞いてはいけない大人の会話なんだろうな、ということは分かった。だからってどうすることもできない。僕はこの個室に閉じ込められ、現在下痢の第三波に耐えるだけの子供なのだから。ぶっほう。まるでじじいがビールを飲んだ後につく豪快なため息みたいな音がおしりから出た。ぷう、という可愛らしい音が後に続く。情緒不安定な時の母ちゃんが時折開催する虚しい晩餐でしか聞いたことがない騒音だった。

 その時、頭上でチャイムが鳴った。授業が終わる合図だ。おならの音で会話することに慣れ始めたタイミングだった。だから一瞬、教頭が無理して甲高い音をお尻から炸裂させたのかと思った。

「おっと時間切れだ。いやあ、結局出なかったですわ。それじゃあ私はお先に失礼しますよ。これからモンペが来るんですわ」慌ただしくズボンを上げて、洗面台で水を流す音が聞こえた。

「失礼します」

 教頭先生が律儀にもう一度言うと、トイレから人の気配は消えた。助かった、と思った。同時に、あいつトイレ流したか? と不安になった。でも教頭先生は便秘で苦しんでいるんだもんな。便座に座ってみたもののなにも出ずに、だから流した音が聞こえなかったということだよな。ぶう、とお尻が肯定の音を出す。まだ本調子には戻っていなかったし、本来ならこのままの体勢で第六波くらいまで備えていたい気持ちだったが、そうもいかない。早々に切り上げなくては授業が終わった別の教師がやってくるに違いない。生徒が馬鹿みたいに廊下をうろうろとしだすかも知れない。大堀先生が体中にニコチンを満たし保健室に戻って来る危険性もあった。

 僕は後ろ髪を引かれながら、過度に肛門を刺激しないように、だけど確実に汚れたお尻を拭いてズボンを上げた。さっとトイレを流して洗面台に向かうと、そこに携帯電話が置いてあるのに気付いた。何気なくその携帯を手に取った。どこかのアホが個室でのんびりと携帯を見ながら用を足して、それで手を洗う際にここへ置いてそのまま忘れていったのだろう。トイレの個室はな、戦場なんだよ。リビング感覚でのんびりと携帯を眺めていい場所じゃない。これは没収だ。そんな気分だった。

 携帯をポケットに入れ、入った時と同じ要領で警戒しながら廊下に出る。そこで真横の死角から声をかけられた。

「おい」

 ちょうど職員室から出てきた教頭先生だった。僕が職員用トイレから出てきたのを見られたかは分からない。もしかしたら、ちょうどトイレ前に差し掛かった放浪癖のある生徒を発見しただけなのかもしれない。でも一応姿勢を正した。

「はい?」

 なるべく、そんな風に乱暴に声をかけられて心外だ、というような態度を作る。うんこを腹の中に溜め込むような便秘野郎に舐められるわけにはいかなかったから。

「お前なにやってるんだ。ここは生徒用じゃないぞ」

 ど迫力の大声で大声で脅された。そんなに悪いことしたかな? 一気に不安になった。いや、彼らにしてみれば自分たちの聖域を犯されたような気分なのだろう。くだらないけど、分かっていたことだ。気分が萎えた。怒鳴られて萎縮し、思わず俯いてしまう。教頭先生の大声に呼応するように、周囲に人が集まってくる。その中に白衣のポケットに手を入れた大堀先生を見つけた。助けてください、という意味を込めたレーザービームのような視線を送る。咄嗟に目を逸らされる。ズルいぞ。こっちの事情には気付いているはずなのに。こんな時にも保身に走るのか。大堀先生は、こんな生徒初めて見ましたみたいな顔で保健室に入っていった。

「おい、聞いてるのか?」

 教頭先生の顔は恐ろしくて見られなかった。大人に怒鳴られてるってだけでべそをかいてしまいそうなのに、わざわざ鬼の形相を確認するわけにはいかない。廊下の灰色がかった緑色のリノリウムを見ながら軽く頷いた。意識は周囲に向けていた。恥ずかしかった。こんな場所で大人から怒られるなんて。誰にも知られたくなかったけど、騒ぎを嗅ぎつけた生徒たちが続々と集まってきていた。その中にクラスメイト数人を見つけた。保健室登校を始めてから、若干距離を感じている友人たちだった。何事かと、身を寄せ合ってこちらを指さしている。

 怖かった。でもこれ以上みっともない真似を晒すわけにもいかなかった。なんたって僕は今じゃ、保健室登校の哀れな男子だから。そこに職員用トイレに侵入して教頭に怒られた間抜けっていう要素を追加するわけにはいかない。ましてや怒られて泣いたなんて知られた日には。それってうんこを漏らすのと同じくらい哀れな印象だろう。これ以上クラスメイトの前で恥を晒すわけにはいかない。僕はすっかり挫けた気持ちを立て直し、勇気を振り絞った。

「お前、何年何組だ」

「三年二組」

 もう俯いてはいなかった。かさかさに乾いて木の幹みたいになった教頭先生の顔面を見上げた。

「三好先生のところか」

「そうです。新卒で良い女の」

「まさか、お前だったのか?」

 教頭先生は途端に顔色を変え、周囲に視線を走らせた。ある一点で止まる。その方向を確認すると、ちょうど廊下に出てきた校長先生の姿があった。

「校長先生は、ずっと校長室にいたのかも」

「ちょっと待て。お前意味分かってるのか? 冗談だぞ、冗談」

「でもいけないことでしょ。僕が教育委員会とかそういうところに話したらまずいんじゃないかな」

「ふざけんなお前」

 教頭先生は一際大きな声を上げた。僕はなるべく平静を装っていたけど、意思に反して手が震えた。膝も震えていたかも知れない。だって子供が大人に意見するなんて。しかも意味が分かっていない会話をネタに、一か八かでブラフをかますなんて。経験がなかった。とんでもないことをしている気分だった。もう謝って終わらせようかとも思った。だけどさ、すぐそこで見ているクラスメイトがさ。ちょっと見直した、みたいなリアクション取ってるんだもん。大人に楯突くなんてあいつ意外とやるなあ、みたいに。それで勇気が湧いたよ。もう僕は誰にも止められない。

「そんな言い方していいんですか? きっとここにも色んな情報が入ってるんですよね」僕はポケットから携帯を取り出した。そしてクラスメイトに目配せをする。見逃すなよ、という合図だ。「頭下げてもらえますか」

 教頭先生は僕が前に差し出した携帯をひったくるような動きを見せた。寸前のところで体を捻って、老人の緩慢な動きをかわす。周囲から歓声が響く。気持ち良かった。だからもう一度「謝れ」と言った。もしかしたら教頭は、トイレに忘れた携帯にすぐに気付いて取りに戻ったのかな、と思った。だから、こんなに良いタイミングで鉢合わせしてしまったのかな。ふん、隙を見せるからこうなるんだよ。

「ごめんなさい」

 僕だけにしか聞こえないくらい小さな声だった。そして頷いただけ、みたいに浅く頭を下げた。その姿に一瞬呆然としてしまった。そのせいで、年寄のフルパワーみたいな所詮はのんびりとした教頭先生の動きにも対応できなかった。手から携帯を奪われる。すぐに教頭先生は背中を向け、職員室に戻っていった。

 辺りは静まり返った。途端に僕は再びひどい恐怖に襲われた。完全にやりすぎだった。これでこの学校のナンバー・ツーに目をつけられたはずだ。大人からの節操のないイジメが始まる。それは予感でしかなかったけれど、かなり現実味を帯びた想像だった。手も膝も、そして今度は瞼の下も激しく痙攣した。肩を叩かれた。できれば誰にも触れてほしくはなかった。体中が震えていることがバレるから。振り返ると笑顔の晋ちゃんがいた。その両隣には同じような緩んだ表情の長谷と亮介の姿もある。

「すげえな哲也」

 言いながら晋ちゃんが肩を組んでくる。「お前最高だよ」長谷が脇腹を軽く小突く。「あの禿げ謝ってたよな? よく聞こえなかったけどさ。頭を下げたのは見えた」亮介は相変わらずキラキラした目つきで見てくるだけだが、その眼差しには尊敬の成分が含まれていることに気付いた。

 気持ち良かった。こんなの初めてだった。たまには勇気を出してみるもんだな、と思った。よく考えれば教頭先生なんて必要以上に恐れる必要はないか。便秘に悩まされる禿げでしかないし、トイレに携帯を忘れるようなおっちょこちょいでもある。それに、たった今華麗に撃退したじゃないか。今度僕に偉そうな態度を取ったら、その時こそ教育委員会に訴えてやるんだ。覚悟しろ。でも皆が簡単に口にする教育委員会って一体どこにあるんだろう? どうやったら訴えられる? まあいいか。嬉しい時に面倒なことを考えるのはやめよう。わざわざ自分に冷水をぶっかけるようなことはしないでいい。いつか父ちゃんがそう言っていた。

「中村くん、私ちょっと見直しちゃった」

 大堀先生が近寄ってきて、僕の耳元でそう言った。うるうせえよ。どの口が言ってるんだ。お前肝心な時に僕を見捨てたじゃないか。今更媚を売ってくるなんて恥ずかしくないのか。でも僕は「ははは、ちょっとやり過ぎちゃった」と大人になって言った。大堀先生を傷つけないようにそうしたわけではない。久しぶりに色んな人に注目され、遅れて緊張し始めたからここら辺で会話を切り上げたかった。緊張はすぐに腹痛を呼び覚まし、お漏らしの予感は僕から正常な判断を奪う。

「それじゃあ僕はやることがあるから」

 クールにそう言って、あらぬ方向へと歩き出した。その先には職員と来客用の下駄箱があるばかりだった。そう、僕は既に正常な判断を奪われていたんだ。それでもさ、背中に感じる皆からの憧れの熱視線は心地良かったよ。尻の穴周辺も充分熱かったけどね。



 ■二


 僕の場合、保健室登校って言っても曖昧なものだった。腹痛がひどくない日は朝教室に登校してそのまま授業を受ける日もあった。まあそんな日でも下校まで平和なままってわけにもいかないから、途中で保健室に退散することが多かった。朝からお腹の中で悪魔たちがキャンプファイヤーでもしているのかって時は、教室には向かわずそのまま保健室に登校した。ガチガチに固まった小学生のタイムスケジュールの抜け穴を活用して、一人だけフレックスタイム制を導入していると考えてくれていい。

 保健室登校仲間は少なかった。いるにはいるようだったけど、どうやら精神的に追い詰められているような子が数名といったところだった。精神的に追い詰められてたら、普通は学校になんか来ないでしょ? そんな状態なら家でごろごろしてた方がずっといい。だから、たまのリハビリ的に保健室で出会う子なら何人かいたけれど、それが僕の仲間なのか、それともちょっとした怪我をしただけなのかは判断がつかなかった。

 幸いにも僕は精神的には健康だった。悩みは頻繁にやってくる腹痛だけで、それ以外は健康そのもの。いや、腹痛のせいで精神的不調はきたしているよ。もう漏れる寸前っていう腹痛がいつやってくるか分からない状況で暮らしているんだから、そりゃ変にもなるでしょ。だけどそれは、卵が先か鶏が先かって話じゃなくて、確実に腹痛が先だった。腹痛さえなければ不安にも襲われない。はっきりとしているんだ。

 腹痛は生まれつきじゃない。それじゃあうんこを撒き散らしていた赤ちゃんの頃から成長していないってことじゃないか。そんなわけはない。僕はしっかりと成長し、物心ついた頃には一人でトイレを済ませる賢い子供になった。割と快便なタイプだったと思う。他の子と比べたことはないけど、大体朝の七時から八時の間に一発かまして、それでその日はお終い。日中にトイレのことを考えることもなければ、実際にお腹が痛くなることもない。あの頃は幸せだったよ。うんこの予感に怯える必要のない生活。最高じゃないか。ところが半年くらい前に、僕を取り巻く状況が変わった。正体不明の腹痛に襲われるようになったんだ。この日から急に、というわけではなかった。じわりじわりとお腹の調子が気になる日が続いて、気付くともうそういう人間になっていた。そう、いつでもお漏らし寸前マンにさ。

 でも僕は負けなかった。上手く対処しようと思ったんだ。だけどさ、学校でお漏らしって最悪だろ? もう言い訳できないじゃない。一度でもそんな失態犯してしまえば、パーソナルイメージもへったくれもなくなってしまう。その後、世界を救うような大発見をしたとしても「でもあいつ小学生の頃うんこ漏らしたからな」で終わりだ。ずっと付き纏う。それこそ小学生の時に迂闊に漏らしたばっかりに、中学生になってもベチャっていうシンプルな擬音で呼ばれるお兄ちゃんを僕は知っている。僕はまだ小学三年生だ。その後の人生をここで決めたくはない。だから頑張ったんだよ。

 お腹が痛くなるのはいつも突然だった。そして頻繁でもあった。当然だよね。僕のお腹には家だから良しとか、学校だから駄目とか関係ないんだから。そんな気ままな内蔵に振り回されるまま、僕は往々にして学校でも催した。最悪だった。おヘソの裏側辺りが騒ぎ出す度に無心になったり、立ち上がってみたり、おならをすかしてみたり。どれも根本的な解決をもたらさなかった。したいものはしたかった。休み時間にトイレで堂々とできればいいんだけど、そんな小学生は世界中で一人もいない。教室や廊下で漏らすのに比べたら僅差でマシって程度の話だ。許されない行為だった。だから学校内で一人になれるトイレを探す旅に出かけた。幸い理科室前のトイレっていうシャングリラを見つけたけども、これが教室から遠いのなんの。自分の席で催して、よしあのエルドラドに向かおうって決意してもさ、廊下をへこへこ走って階段をのぼってまた廊下を走ってってやってる間に漏らすっつうの。ちょっと現実味のない計画だった。授業を抜け出してトイレに行くって手もなくはないけど、それはちょっとあからさまでしょ。うんこしに行くって宣言するようなもんだし。こんな時、自分が女子に生まれていたらって何度も考えたよ。真剣にさ。聞けばあいつらのトイレは全部個室らしいじゃないか。僕達男子のトイレにおける最大のハードルは個室に籠もることなんだ。個室に入るイコールうんこをするってことで、そんなの許されない。でも女子はどうだ。おしっこでも個室に入るんだから、中で何をしてようがおかまいなしなわけだろ。怒涛の連続水洗でうんこの臭いをこまめに消しつつ、脱糞音を控えれば内緒で済ませることが出来るじゃないか。羨ましかったよ。股の間にちんぽこが生えているだけで、なんでこんなにも不当な扱いを受けなきゃいけないんだって泣きたくなった。

 そこで原因を考えた。抜本時な改革に取り組んだんだ。食べ物じゃないかなって思った。ほら、うんこがお尻から出ていく様子を逆に辿れば口に入れるものが関係しているのは明白じゃない。あれは半年くらい前だったかな。父ちゃんが家を出て行った。それまでも何度か家出みたいなのをしたことがある男だったから、僕としてはその出来事をあんまりシリアスに捉えていなかった。でも、今回はマジの離婚って話だった。母ちゃんは自分で離婚を決めた癖にめそめそ泣いてたよ。泣きたいのはこっちだっつうの。意見を求められることさえなかったんだから。知らない間に家族が一人減る喪失感っていったらないよ。名字も変わるしさ。立花哲也でやってきたのに、いきなり中村哲也だもんな。勘弁してって感じだった。

 一応母ちゃんも僕のことは気にしているようだった。でもさ、その気遣いが的外れっていうかさ。毎日豪華な食事を食卓に並べ始めたんだよ。しかも僕の好きな唐揚げとか天ぷらとかコロッケとか、そういった油がたっぷり染み込んだ茶色い料理。毎日が誕生日みたいなものだった。最初は嬉しかったけど、そんなの直ぐに飽きるじゃない。ましてや母ちゃんそんなに料理得意じゃないし。あれは多分罪悪感ってやつなんだろうな。勢いで離婚なんてしちゃって、子供に寂しい思いをさせるんじゃないかしら。だったらせめて食事だけでも豪華にって。私たち両親のせいなんだからって。それが分かるから、もう豪華な食事じゃなくていいよ、とは言えなかった。僕は黙って油たっぷりの料理を摂取するしかなかったんだ。

 あの油だ。すぐに確信した。僕、実は油に弱い体質だったんだって。だけど原因が分かったからってどうにもならない。離婚の罪滅ぼしのつもりで油ギトギトの料理を出し続ける母ちゃんに意見するほど恩知らずでもないし、そんな遠回りの親孝行に勤しんでも腹痛がやむわけでもない。その内、面倒な油ものを出すのにも飽きて、普段の調子に戻るはずだからって高を括った。今は母ちゃんのやりたいようにやらせとけばいいって思ったんだ。

 予想は半分当たって半分外れていた。母ちゃんの誕生日料理は、やがて普段の味気ない物に変わった。これは当たりだ。そもそも母ちゃんは料理自体そんなに好きじゃないんだから。無理して罪悪感を薄めようとしてもやれることとやれないことがあるだろうし。でも、腹痛は治らなかった。ずっと痛い。トイレに下痢をぶっ放せば幾分楽になるものの、すぐに次の弾が装填されるような絶え間ない苦痛だった。つまり腹痛の原因は質の悪い油のせいじゃなかった。これは外れだ。やったぜ、半分当てたんだからこれは勝ちと同じだ。なんて思わなかった。そもそも予想なんてどうでも良かった。とにかく謎の腹痛が治り、以前の自分に戻れることだけを期待していたんだから。

 なんでだ? 母ちゃんの料理のせいじゃないのか? 疑問は焦りに変わってお腹を刺激し、僕とトイレの距離を近づかせた。いつもトイレのことを気にしていた。隙があれば盗塁してやろうと様子を伺う一塁ランナーみたいなものだった。リーリーリー、ゴーってなものだったんだ。

 今や腹痛の原因は闇の中だ。手がかりすらない。僕は学校をボイコットしようと企んだ。だってそうだろ? 現段階で漏らしたら終わる。その後の人生はうんこの茶色一色に彩られるはずだ。誰も反対しないだろう。幸い母ちゃんは僕に罪悪感を抱いているし。そこを上手く突いてこのまま登校拒否を決め込もうと考えた。父ちゃんがいなくなった精神的ショックで学校には行けなくなった。この線で行こう。考えてみれば、小言を言われずに学校を長期間休むいい機会だと思った。保育園の二年間と小学校での二年と少し、僕は頑張り過ぎていた。朝決まった時間に起きて訳の分からない場所に通う。そういうのは大人になってから散々味わうはずだ。今はもう少しのんびりしていたい。そんなことを閃くと、親の離婚も腹痛も悪くはないなと思えた。

 早速実行した。夜寝る前より朝起きた後の方が有効だって思えた。忙しい朝の時間帯に離婚による精神的動揺を告白し、学校には行かないって告げるんだ。最低でも取り敢えずその日は休めるだろう。そして、一度休んでしまえばずるずると長期間行けるはずだって企んだ。で、実際に言った。母ちゃんは僕よりも後に家を出て仕事に向かうくせに、朝はいつも忙しそうにしてた。もっと早く起きればいいのにっていつも思ってた。でもきっと早く起きてもこうやってバタバタするんだろうなって分かってた。朝は忙しいものだから。とにかく、そのタイミングで言った。母ちゃんはしくしく泣いた。計算が甘かった。僕が思うよりもずっと母ちゃんの罪悪感は大きかった。その上息子が登校拒否なんて、母ちゃんには耐えられない悲劇だったんだ。だから僕は「とはいえ、今日は行けるかもしれないな」と言って学校に向かった。次の日も。その次の日も。

 ある日、担任の先生から保健室登校の話を聞いた。その時の僕と言ったら、腹痛のせいでもう普通の態度ではなかったし、なにより母ちゃんが学校に相談したんだと直感した。「うちの子が学校に行きたがらないんですけどなにかありましたか? 離婚のショックも重なって不安定になっているみたいなんです」とかなんとか。残念。お腹が痛いだけだよ。とは言え先生は慌てた。なにせ新任の三好先生だからな。母ちゃんみたいな弱ったモンペをいなした経験もないだろうし。それに、僕の名字が突然変わったのは事実だ。何もせずに放っておくことも出来ない。だから、仕事をした気になりたくて僕に保健室登校を勧めたんだ。きっとそうだ。僕としては、教室で皆に見られながら悲しみのお漏らしを決めるより、保健室で大堀先生だけに目撃されながらする哀れみのお漏らしの方がなんぼかマシだった。日々のプレッシャーも少しは和らぐはずだと思ったし。聞けば、一度保健室登校サイドに堕ちたら、二度と普通学級に通えなくなるみたいな話ではなかった。フレキシブルに対応出来るなら、もしかしたらそれは不登校をかますのと同じくらい自由なのかも知れないって思えた。

 そうして僕は軽い気持ちで保健室登校を決めた。思った通り気楽なものだった。いや、お腹の痛さは変わらないけど、それでもまあ、授業中は絶対に座ってなければいけない教室と違って、保健室ではベッドに寝っ転がってもいいわけだからさ。そりゃあ気楽なものでしょ。だけど予想外に寂しかったのは、クラスメイトとの距離が生まれたことだ。そこまでは考えていなかった。考えてみれば当たり前のことだと思う。僕にだって休み時間にじゃれ合う友人がいた。テレビやゲームの話をしたり、放課後は一緒に遊びに行ったり。そういうのは全部なくなった。僕の学校では二年生から三年生に進級する時、クラス替えがあった。どんなに仲の良かった友人でも、クラスが変わると疎遠になった。廊下で会ってもさ、普通にしてればいいのにお互いにギクシャクしちゃって。もう所属しているコミュニティーが違うから、なんていう顔しちゃって。一組と二組にどんな違いがあるのか、自分たちでも説明なんて出来ないのにさ。クラスの違いですら、すれ違いが生まれるんだ。世の中から戦争がなくならないはずだよね。

 とにかくそんな些細なことでボタンを掛け違えるのが人類なんだ。保健室登校をしている僕に違和感が生まれないわけがなかった。最初は用もないのに保健室に遊びに来てくれたクラスメイトも、日を追う事に少なくなっていった。今では誰も来ない。保健室は僕と大堀先生と怪我人だけの阿片窟みたいになっていった。

 教頭先生と死闘を繰り広げた日の放課後、僕は帰りの会に間に合うように教室に戻った。普段は帰りの会をパスすることもあった。なんだか帰りだけクラスメイトに会うのが気恥ずかしかったし。別に皆みたいに帰りの会に参加することを強制されているわけではなかったし。でも、この日ばかりは別だった。皆の前で格好良いところを見せられたし、中村哲也ここにありって印象付けるには最適な日だと思えた。この日を逃せば、後はいつかどこかでうんこを漏らしたうんこマンとして人々の記憶に残るしかないんじゃないかって焦りもあった。

 教室に戻った時、皆の目が一瞬泳いだ。僕を見ているような、遠くを見ているような。あからさまに無視はしていないんだけど、それでも話しかけてくる人はいないって感じだった。きっと先生に言われているんだろうな。中村くんをいじめることは許しませんって。なんだか自分が弱くなったみたいに感じた。先生は必死になって僕をイジメられっ子にしたくないようだけど、そのせいでイジメられている気分になった。やっぱり今日も帰りの会はパスするべきだったかな。いつもみたいに皆が下校するのを保健室で待って、その後で泥棒みたいにコソコソと帰路につけば良かったのかな。きっと昼間の僕の勇姿なんて、日々教室で巻き起こるハプニングに比べれば大したことがなかったんだ。僕は保健室登校が長いから、そこら辺の感覚が抜け落ちてしまったのかも知れない。そんな風に思った。

「おい、哲也も行くか?」

 晋ちゃんから声をかけられたのは「先生さようなら」「みなさんさようなら」が済んだ後だった。僕は荷物をまとめてすごすごと退散しようとしていた。ところが肩を叩かれて、振り向くと晋ちゃんがいたんだ。その後ろに長谷と亮介、そして村っちと大ちゃんまでいる。

 何に誘われているのかは分からなかったが、なるほど。やっぱり教頭先生とのバトルは彼らの脳裏にしっかりと刻まれていたらしい。僕は再び彼らのリスペクト勝ち取った。もう駄目かも、と思ったばかりだったから余計に嬉しかった。

「どこ行くのさ」

 なるべく普通のことみたいに尋ねた。実際には晋ちゃんとしっかり会話をするなんて数ヶ月ぶりって感じだったけど、毎日当たり前に話しているじゃんという態度で臨んだ。どこに行くにしてもすんなりと受け入れられた方がいい。

「いいところだよ」晋ちゃんが意味ありげに微笑み、そして「なあ?」と他の皆に同意を求めた。皆「ああ」とか「そうだね」とか返事をしていたが、この中にも行き先を知らぬ者がいるのは明白だった。だって大ちゃんに関しては頭の上にハテナが浮かんでいるような表情だったし。

 ゲーセンにでも行くのかなって思った。学校の公式見解では寄り道は禁止されていた。そして子供だけでのゲームセンターの立ち寄りも禁止。共産圏みたいなガチガチに固められたルールだと思っていたけど、ほとんどの場合僕ら子供は従った。見つかったら先生に怒られるし、多分親にも怒られるからさ。意味なんてなくても守った方が良いルールはある。だから、皆の態度を見てきっとそういうことだろうと思った。僕が体制に反抗をしたのを見て、皆もちょっと悪ぶってみたくなったんだろう。となると、やっぱり生粋の反骨心を持つ者。そう、僕が必要だってなったのかも知れない。幸い昼前に全部出しきったからか、お腹の調子は悪くなかった。道草を食っても問題なさそうだ。

「じゃあ行こうかな」

「やった。哲也も来るってさ」

 晋ちゃんはそう言うと、先頭に立って教室を出ていく。皆盛り上がってくれた。嬉しかった。それ以上に行き先が分からずに不安でもあった。だってさ、よく観察すると晋ちゃん以外は皆行き先が分かっていないようなおっかなびっくりした足取りだったし。大ちゃんに関しては、皆と別の方向に歩き出そうとしていたし。その一歩目を僕は見逃さなかったし。

「一緒に行こうぜ」

 長谷が肩を組みながら言った。だからそれでもまあ、やっぱり嬉しかったよ。



 ■三


 いつもとは別の校門から外に出るのは違和感があった。小学校に入学してからというもの、僕はグラウンドの南西にひっそりと存在する個人宅についているような小さな門をくぐって登下校していた。こっちは団地に住む子とか、隣の小学校との学区の境に住む子が使用していた。駅前のマンションとか商店街付近に住んでいる子は校舎の東側にある正門を使っている。僕らも本来は正門を使って登下校しなければいけないんだけど、そうすると遅刻ギリギリの朝でもぐるっとグラウンドを迂回して東側の正門へ向かうことになる。これはちょっと面倒くさいよな。だから南西の小さな門から進入して、グラウンドを突っ切って校舎に向かう進路を取っている。別に僕だけがズルしているわけじゃない。こっち側の子たちは皆そうしてる。まあ、あんまり数は多くないんだけどね。何故かこちら側はもろに少子化の煽りを受けていて、駅前方面には子連れの家族が多いから。

 晋ちゃんを先頭に進む集団の真ん中辺りを歩いていた。もちろん、正門から校外に出た時の景色を知らないわけではなかった。普段よく通る道だったから。僕が母ちゃんと一緒に通っている美容室はこの通りの先にあったし。でも知らない道を歩いている気分だった。僕はそれだけで大冒険にでも出発するような気持ちになっていた。

 旅の仲間は頼りなかった。サプライズのつもりなのか行き先を告げずに突っ走るリーダーと、今何が起きているのか本人たちも分かっていないような仲間たち。その中の一人はいつ爆発するかも分からない爆弾をお腹の中に抱えている。そう、僕のことだよ。長谷や村っちと何気ない会話をしながら晋ちゃんの背中を追った。少し後ろを歩く亮介に聞いてみた。

「どこに行くの?」

 亮介は不意を突かれたような顔をしてから、意味ありげなわざとらしい笑みを作って「いいところだよ」と言った。こいつ、知らねえんだな、と思った。よく分かってねえんだなって。長谷と村っちの様子を確認すると、彼らも同じような表情を見せているのが分かった。友達として情けないよ。皆どこに行くのかも分からず、それなのに僕だけをハメた形を作ろうと必死になっている。それなら大ちゃんみたいにさ、今日の晩飯のことだけを考えながら最後尾をとぼとぼとついてくるだけの方がまだマシだよ。

 通学路とはまるで違う道を歩いた。昔、三週間くらいで辞めた英語の塾があった場所の近くだった。突然晋ちゃんが足を止め振り返った。「ここだよ」親指を傍らの建物に向けてキザなポーズを取る。一階部分は全て駐車場になっていて、脇にある吹きさらしの階段から二階に上がるとそこが玄関になっている変な形状をしていた。駐車場には大きなバンが一台停まっているいる。堂々と停まっているが、端に整理して駐車すれば同じサイズの車がもう一台は停められるだろう。

「え、ここが目的地なの?」

 僕は指先を階段の下に向けた。これまでなんとか隠してきた動揺を、その時はおさえきれなかった。だってそうだろう。悪くてもゲームセンターなのかなって思っていたのに、この民家? いや、民家が怪しかったわけじゃない。僕が指先を向けたところにある掲示板が怪しかったのだ。その掲示板にはお手製の新聞みたいな紙が何枚か貼り付けられていた。コンビニで売っている本物の新聞のような作りではない。どちらかというと僕たちが学校でこさえる学級新聞みたいな作りだった。まあ、いい大人が作っているんだろうから、学級新聞よりはかろうじて綺麗だったし見やすくもあった。文字なんかはちゃんとしたフォントで組まれていたから、僕らが手書きで書いた、自分たちでも恥ずかしくなるような読みにくいものではなかった。読みやすくはあったけれど、ほとんど文字は読めなかった。かろうじて『カルト・オブ・ヘヴン・ニュース』なんて気取ったフォントで書かれた見出しは読めたが、本文の方は小さすぎて見えなかった。そんなことよりも気になったのが、その新聞に添付された写真だった。左にひどい火傷のように皮膚が爛れた男女の背中が写っている。その間に右を向いた矢印があって、その先にはちょいとマシになった程度の火傷が張り付いた同じ人物の写真。本当に同じ人物かどうかも分からない。素人カメラマンが背中を撮ろうと視野が狭くなったせいか照明が暗く、写真に説得力がなくなっている。なにを意味している写真なのかは分からないが、僕はたまらなくそれが怖かった。教科書で見た、被爆者の写真を思い出した。虐待された子どもの写真を思い出した。冤罪で投獄された海外の政治家の写真を思い出した。僕がいつも目を背けてきた写真と同じような怪しさと居心地の悪さを感じた。

「じゃあ行くか」

 晋ちゃんは階段をのぼり始めた。

 長谷と目が合う。彼の瞳の中にも僕と同じ動揺の色が浮かんでいるのが見て取れた。だけど、他の皆が晋ちゃんに続いて階段をのぼり出すのを見ると、そんな色は一瞬で「皆と一緒じゃなきゃ仲間外れにされちゃう色」へと変わった。

 ここはどこなんだろう? 病院とか診療所とかそういう類の場所なのだろうか。それとも誰かの家? 分からなかった。分からなかったし怖かったけれど、一人だけ階段の下で考え込んでいるわけにはいかなかった。だってその時の僕の目には「ここで逃げたらいよいよ友達がいなくなっちゃう色」が浮かんでいただろうし。最後尾について大ちゃんの大きな尻を両手で押しながら、階段をのぼった。

「ああ、きみか。いらっしゃい」

 僕と大ちゃんが玄関に辿り着く前に玄関扉が開いた。先に階段をのぼり切った晋ちゃんが躊躇なくインターホンを押したのだろう。家主の姿は見えなかった。大ちゃんのぷりぷりのお尻が目の前にあって、それ以外は何も見えなかったからだ。

「哲也、ちょっとくすぐらないでくれるかな?」

 大ちゃんが肩越しに横を向いて言った。首の肉が邪魔して、不安定な階段では後ろを振り返れないんだ。それにくすぐってなんていない。こうやって補助をしてやらないと、この急な階段を大ちゃんがのぼり切る頃には、玄関扉が閉まってしまう。別に建物の中に入りたいわけではなかったけれど置いてけぼりを食らうのは嫌だった。あと、家主の声が若い女性のもので、そこは少し安心した。これが嗄れ声のじじいの声だったり、いかにも逞しく張りのある男の声だったら、きっともっと不安になっていたはずだ。これは差別なんかじゃない。足の速さの問題だ。もし家の中でなにかが起こって逃げださければならなくなった場合、若い女の足には負けないように思うから。多分じじいにも負けないと思うけど、元気な年寄りもいるからな。まあどちらにしろ、捕まりそうになったらさり気なく大ちゃんの足をひっかけて生贄に差し出してその隙に逃げるつもりだ。問題はない。

 大ちゃんのお尻をつねるように押しながらようやく頂上まで辿り着いた。玄関扉は閉まっていた。しかし大ちゃんがノブをひねると扉は呆気なく開いた。土間に少年たちの靴が散乱している。まったく育ちの悪い奴らはこれだから。僕は扉の方を向いて靴を揃えてから、続く廊下にあがった。頂上にのぼった瞬間僕にさされた大ちゃんが、息を切らせながらその綺麗に揃えた靴を踏み散らかして廊下にあがる。

 廊下は薄暗かった。建物の構造上左側に部屋がありそうだった。しかし扉は見つからない。僕は既に誰もいない廊下を進んだ。背後に大ちゃんはいたものの、この大飯喰らいはなんの役にも立ちはしない。壁に掲示板にあったものと同じ新聞のバックナンバーが貼られていた。顔の出来ものが小さくなっていく写真や、腕の傷が癒えていく過程の写真。どれも不気味で背中がぞくぞくとした。だからあまり視界に入れないようにした。すると廊下には他にも色々なものがディスプレイされているのが分かった。ガラスケースに入った数珠や海外のお土産のような仏像が、狭い廊下を更に圧迫していた。突然いつか父ちゃんとエスニック料理を出すレストランで、僕の舌には合わなかったカレーを食べた時のことを思い出した。多分、お香が焚かれていたからだ。あの時嗅いだ、鼻から入って喉の奥にいつまでも張り付いているような濃い匂いがそこら中に漂っていた。廊下を突き当たりまで行くと、やはり左側に襖があった。薄く開いてそこから光が漏れている。正面にも扉はあったがそこはトイレだろう。男女のピクトグラム描かれたプレートが掛けられている。

 大ちゃんのためにもう少し襖を開けて、室内に入る。畳の部屋だった。仕切りはなく全体が一つの部屋になっている。廊下側から見て正面はほとんどが窓になっていた。左側には祭壇のようなものがあって、右側には炊事場が見えていた。廊下側の壁はほとんどが棚で、本がぎっしりと並べられている。皆は早速座布団に座っていて、少し遅れた僕と大ちゃんを不思議そうに見上げていた。何故そんな表情をしているのか。それは僕が敷居を跨いだその場で立ち止まっていたからだ。

 そりゃそうだろ。ゲーセンでもない、診療所でもない、人が住んでいるような場所でもない、祭壇みたいなのはある。しかも、そこには僕らの他に四人の若い女性がいたんだけど、全員普通ではなかった。白い布を体に巻き付けただけみたいな揃いの衣装を着て、頭にはヘッドギアをつけている。よく見ると首元には同じネックレスをつけているみたいだけど、そんなのは些細な問題だ。明らかに異常な場所だった。怪しい匂いがぷんぷんした。それなのに馬鹿な子どもたちは平気な顔をして座布団に座っている。僕が考えすぎなのか? 臆病なだけなのか? 誘拐された時ってこんな気持ちになるんじゃないのか? 傷つけられたり暴力を振るわれる直前まで、自分は子供だからいつも安全で守られた場所にいるって錯覚するもんじゃないのか? そう考えると足が動かなくなった。もう一生動けないんじゃないかと思った。母ちゃんのことを思い出した。思い出すと、鼻の奥がつんとした。こんな奇妙な場所でずっとこの体勢のまま死んでいくのかと思うと悲しかった。

「哲也、邪魔だよ」

 棒立ちの僕を前方に吹き飛ばすようにして、大ちゃんがやってきた。彼にそんなつもりがあったのかは定かじゃないけど、圧倒的な体重差に僕は吹っ飛び、畳の上をでんぐり返ししながら図らずも空いていた座布団に着地した。

「晋一くん、お友達連れてきてくれてありがとうね。お菓子食べるでしょ?」

 炊事場でなにやらやっていた女性が、いくつかのお皿にお菓子を乗せて僕らの前に立った。ペットに餌でもあげるみたいにお皿を畳に置く。

「やったぜ。おい、皆も食べていいんだからな」

 晋ちゃんはお皿からカントリーマアムを摘んだ後で他の皆に向けて言った。僕以外の子どもは、それを合図にお菓子を食べ始めた。遠慮なんてしていなかった。競い合うようにしてお皿からお菓子を奪い合っていた。すぐにお皿からお菓子は消えた。すると、目の前でにこにことその様子を眺めていた女性が、すぐに新しいお菓子を補充した。

「天国みたい」

 大ちゃんがキャッチャーミットみたいな手の平に、詰め込めるだけのお菓子を握りながら笑った。醜い少年だった。お菓子くらい家で食べられるだろうに。だってお母さんが作ってくれる一般的な料理だけでこんなにも無様な贅肉を蓄えたっていうなら、それは計算が合わない。足りない分をお菓子の過剰なカロリーで補ったからこそこの巨漢であるはずなんだ。

 僕は皆の様子を眺めながら、密かに恐怖していた。どこの誰かも分からない集団からお菓子を振る舞われて、すぐにそれを受け入れる心境が理解できなかった。これは育ちの問題なのか? それとも彼らは先天的になにかしらの欠陥を持って生まれてきたのか? どう考えてもおかしいだろう。毒でも入っていたらどうするんだ。相手は普通の大人じゃないんだぞ。身に纏っている白いひらひらの布は許そう。人には好みってものがあるからね。でもさ、ラグビー選手がしているようなあのヘッドギアはどう考えて普通じゃない。今どきラグビーの試合でも四人くらいしかしていない代物だぞ。そんなものを室内の全員が当たり前の顔で着用している。しかもここは花園ではない。異常だった。

「いただき」

 村っちが僕の前に置かれた大ちゃん専用のお皿からポテチを五枚ほど鷲掴みにした。大きく手を伸ばしたからか、随分と体勢が崩れていた。大ちゃんは恨めしそうな目で村っちを見たが、彼の口には端からこぼれるほどアルフォートが詰まっていて、根こそぎ水分を持っていかれていた。だから「うー」と唸るだけで口喧嘩には発展しなかった。

「おい哲也、食べないのか?」

 晋ちゃんはリーダーぶって僕に声をかけた。既に僕の中で晋ちゃんへの信頼は地に落ちていた。ここがいいところ? ただでお菓子を食べられるのがいいこと? 生憎僕はそんな価値観を持ち合わせてはいなかった。お菓子ならこんな落ち着かない場所ではなく、家のソファーで食べられる。卑し過ぎる。いつまでも司令塔気取りでいられると思うなよ。不満の種はここで確かに燻っているぞ。

「食べてるよ。ちょっと休憩しているだけで」

 僕は大ちゃんが傍らに溜め込んでいたパイの実の小袋を掲げて言った。晋ちゃんはそれで納得したのか、それとも最初から興味なんてなかったのか短く頷いて自分のお皿に向き直った。

「じゃあ始めるよ」

 女性たちの内の一人が言うと、全員が僕らの前に並んだ。お菓子のお皿を挟んで対峙するような形になる。なにか良からぬことが始まりそうな気配があった。僕は彼女たちには見えないように、背中に回した拳を固く握った。危害を加えられそうになったら、目の前にいる女の高い鼻をぶん殴ってから隣にいる大ちゃんを蹴倒して、それで逃走するつもりだった。

「これから不思議な力を披露します」

 晋ちゃんと長谷の前にいる女性が言って、新しいお皿を用意した。僕の前にいる女も同じようにお皿を出す。そこに新しいお菓子が盛られた。女たちは新しいお菓子に手をかざし目を瞑った。

「これ、すげえんだぜ」

 晋ちゃんがヒソヒソと小声で話した。皆の目は期待で輝いている。ということはやはり、晋ちゃん以外の仲間は全員この場所に来たのは初めてなのだろう。しばらく女性たちの深い息遣いと、子どもたちの生唾を飲み込む音が断続的に聞こえた。馬鹿ばっかりだ。音が聞こえる度に僕の心は冷えていった。

「よし、もういいかな」一人の女性が目を開けて言った。「じゃあ食べてみて。体の調子が良くなる気を込めたから、こっちの方がきっと美味しく感じると思う」

 よく見ると、同じように目を開けた近くの女性の額には汗が浮かんでいた。こいつら冗談なんかではなくマジでやっているんだ。

「じゃあ食べてみようぜ」

 子どもたちはまず、気を込めたと言われた方のお皿からお菓子を取って口にし、その後で元からあったお皿のお菓子にも手を伸ばした。食べ比べでもしているつもりなのかな。滑稽な奴らだ。

「これ、美味しくなってるよ」

 長谷が調子に乗って言った。

「美味しくて体にも良いお菓子なんて最高だよね」

 亮介はきっと今口の中で咀嚼しているお菓子がどっちのものなのかも分かっていないだろうにしたり顔だった。子どもってこういうところがあるんだよな。もちろん人と違う意見を口にして仲間外れにされたくないっていう気持ちもあるだろう。変な奴って思われたくないし。でも、そんな浅ましい気持ちより先に立つのが、誰かの期待に答えたいっていう感情なんだ。現実がどうであれ、女性の期待に答えてあげた方がいいんだろうなって思ったら、事実とは違うことも口にする。しかも、それが嘘だなんて思っていない。雰囲気に流されて口にした言葉こそが真実だって自分でも思い込んでしまう。つまり、一旦立ち止まって物事を真剣に考えてみるってことをしようとしないんだな。

「きみも食べてみて」

 目の前の女が僕にコアラのマーチを勧めた。すぐ近くにいるものだからいよいよ食べたふりでやり過ごすことが難しかった。そのコアラのマーチは小袋に分けられたタイプで、直接毒物を注入されたような形跡はなかった。これでお茶を濁せるならと、小袋を開けてコアラのマーチを口に放り込んだ。女性の期待を込めた視線に気付く。別に普通の味だった。なにも変わっちゃいない。

「うん、美味しい」

「でしょ?」彼女の目が輝いたように感じた。「じゃあこっちの普通の方も食べてみて」

 僕は小分けにされたアルフォートを手に取った。袋を開けて口に放り込む。だから普通の味だって。そんな目で僕のことを見ないでくれ。

「うん。ちょっと苦い」

「でしょ?」

 冷静な大人なら気付くはずだ。苦いアルフォートがこの世に存在するわけがない。あるとすれば、カビにやられたものだけだ。でも彼女は、追い詰められてひねり出した僕の嘘に気付いていない。僕はひどい罪悪感に襲われた。結局は自分も、雰囲気に流されやすい馬鹿な子どもってことだ。でもさ、この状況で「いや、同じ味ですね」なんて言えるわけがない。言ったところ余計な軋轢を生むだけだ。

 そうしてしばらく、ほぼマンツーマンでお菓子を食べることを強要された。僕もいくつかのお菓子を口に入れた。あんまり味がしなかった。もちろん美味しくも感じなかった。ただカロリーを体内に収め続けるロボットになったような気分だった。

 無神経な晋ちゃんたちが何度かお菓子のおかわりをした後、気持ちの悪い女たちは祭壇の脇にモニターを用意した。そこにゲーム機を繋ぐ。子どもたちはお菓子の油でぬるぬるになった指をしっかりと舐めてからコントローラーを握った。「いえーい」なんて叫びながら皆でレースゲームを始める。これも晋ちゃんの言ってたお楽しみの一つなのだろう。僕はその様子を警戒しながら眺めていた。早く家に帰りたかったけれど、一人で帰宅する選択肢はなかった。お腹がゴロゴロと鳴った。腹痛の前兆だった。ほら、緊張するとすぐこれだ。少量とはいえ訳の分からんお菓子も食べてしまったし。そういう意味でも不安になってきた。

「きみはゲームをしないの?」

 突然、背後から声をかけられた。男の声だった。驚いて振り返ると、若い男の顔があった。思わずため息をついてしまった。その男の顔がやたらと整っていたからだ。目は切れ長で鼻は高く唇は薄い。髭なんてほとんど生えていない。生えていたとしてもしっかりと剃っている。父ちゃんみたいに甘く剃った青いじょりじょりが残ってない。テレビで見るアイドルみたいな顔立ちをしていた。一瞬見惚れてしまう。

「うん、皆がやってるから。僕は家でもできるし」

 嘘だった。本当は子どもたちの唾液まみれになったコントローラーに触りたくなかっただけだ。

「そっか。ああ、僕は天沢類って言うんだ。ここの責任者」

 見ると天沢は皆のようにヘッドギアをつけていなかった。真ん中で分けられた長い前髪が、鼻先で揺れている。白い服こそ着ているが、こちらは白いパンツに白いシャツという具合で、このまま外に出ても、ああ爽やかな青年が散歩をしているんだな、で通用する格好だった。もしかしたら実際にどこかへ出かけていて、今帰ってきたのかも知れない。天沢の息は少しだけ弾んでいた。僕は彼が差し出した右手を軽く握った。しっとりと濡れている。玄関までの階段をのぼっただけでは汗なんてかかないはずだ。

「もうお菓子は食べた?」

「うん」

「じゃあ彼女たちの不思議な力は?」

「うん?」

 もしかしてこの男が親玉なのか? こちらの回答によって、あのフリークショーをもう一度見なければならなくなるような気がした。責任者って言ってたもの。きっとそうなる。だから僕は曖昧な返事をした。

「すごい力だろ? なんでも出来るんだ。病気だって悩みだって全部この力で解決できる」

 思わず彼の瞳の中に正気を探してしまう。覗き込むと色素の薄い、黄土色の瞳が真っ直ぐに僕を見返していた。さっと視線を逸らしたのは僕の方だった。吸い込まれちゃう、って危機感を覚えたからだ。天沢はその整った顔を一瞬崩し、微笑んだ。これじゃあ僕が動揺しているみたいじゃないか。元々この場所にいた女性たちも綺麗な人が多かった。というか全員綺麗だった。教室では感じられない美人の濃度があったな。それでも彼女たちにはまるで共感できなかった。イカれた女が室内をうろうろとしているとしか感じられなかった。ところがどうだ。この男、天沢類が彼女たちと同じくらいイカれているって気付いているのに、ちょっと採点が甘くなり始めている。もちろん不思議な力なんて信じちゃいない。それを信じるなら、亮介が毎日更新する嘘の数々の内、一つか二つを信じた方がまだ救われると思う。顔が良いからか? それとも普通の格好で普通の雰囲気だから? よく分からなかった。見た目とかそんな単純なことで、こうも自分が抱く印象が変わるのか。自分の単純さに驚きはしなかった。むしろ、外見が持つ力に気付いた。もし僕が美しい外見を持つ大人に育ったら、こんな不気味な集団を結成するのではなくて、真っ当に男も女も騙しまくって酒池肉林を楽しむことにしよう。そうしよう。

「ここにいる人達はさ、皆がそのすごい力を持っているの? なんでも叶うみたいな力」

「うーん、残念だけど全員ではないな。皆はまだ勉強中って感じ。なんでも出来るのは僕だけ。そうだ、きみ、なにか悩みはあるかい?」

「ないよ」

「じゃあ、お父さんとかお母さんにはあるかな?」

「なんで? ないんじゃないの。分からないよ」

 僕にも悩みはあるし、家族にだってあるだろう。でも言わない。いくら天沢が美形だからって、いつもうんこを漏らしそうで不安を感じてるなんて言うつもりはない。それに今はゲームに熱中しているとはいえ、友人たちとの距離が近すぎる。きっと母ちゃんの悩みは僕のことだろうな。あの人はいつも僕のことを心配しているから。もっと自分に目を向ければいいのに。そうすれば、時々鼻の下に生えている産毛の剃り残しにも気付くはず。みっともないんだよな、あれ。父ちゃんの悩みは分からない。もしかしたら奇跡的に本当に悩みなんてないかも知れない。能天気で幸せな人だから。

「そっか。でも子供が思っている以上に大人には悩みが多いものでね。僕はそういう大人もこの力で救いたいって思ってるんだ」

「ここの女の人たちも皆悩んでいるわけ?」

「ここの皆は特に悩みが多くてね」天沢はゆっくりと首を振った。耳のそばで長い黒髪が揺れる。「僕が力を使うより、自分で力を学んだ方が役に立つのさ。だから僕が彼女たちに力の使い方を教えているんだよ」

「立派なんですね」

 本心では、くだらない勉強もあるもんだねって思ってた。分数の計算よりも役に立たないんじゃないかって。でも僕は本心とは逆のことを言った。彼の魅力に惹かれていたから。なるべく嫌われるようなことは言いたくなかった。

「人助けをしているだけさ。きっと君のご両親も悩みがあるはずだから一度ここに連れてくるといい」

「ここへですか」僕は座っている座布団を指さした。「それはちょっと」

 天沢の言う事はなるべく聞いてやりたいが、気が進まなかった。なんて説明したらいいか分からないし、なにより知らない人の家に行って皆でお菓子を食べたなんて言ったら、きっと母ちゃんは激怒するだろう。それにさ、やっぱり怪しいじゃない。天沢には悪いけど。

「確かに怪しいもんね。でも大丈夫だよ。そうだな。たとえばこの中の誰かの願いが叶ったりしたら信じられるようになると思うんだ。どうかな?」

「それは、まあ」

「でしょ? 僕が自分の力を証明出来たら、きみもお父さんお母さんを連れてきやすい。あ、もちろん友達でもいいよ。困っているのは大人だけじゃないもんな。またこうして友達を呼んで遊びにきてくれるだけでも」

「どうですかねえ」

 家族はさておき、そんなことをしたら友人を失くすんじゃないかって思った。そして閃いた。途端に悔しさが込み上げてくる。僕が今日、こうしてここにいる理由が分かったからだ。晋ちゃんは僕達を売った。それがはっきりした。こちらに背中を向けてモニターに集中しているいくつかの背中の内、一際小さなものに視線を向ける。晋ちゃんは以前この場所に来た。一人で来たのか他の誰かと来たのかは分からない。でもここの間抜けな女性たちと顔見知りだったのは確かだ。それで、今天沢がした話と同じようなことを聞いた。それで思ったんだ。親は紹介できない。怒られるから。でも友人を連れてくればまたお菓子を食べることができるぞって。もてなしてもらうためには人数が多い方がいいだろう。だから保健室登校の僕にまで声がかかったんだ。喜び勇んでついて来た自分が情けなかった。この裏切りに気付いていないぼんくら達の背中はもっと情けなかった。

「いいじゃないか。きみに迷惑はかけない。僕の力が嘘なら連れてこなければいいし、本当なら素晴らしいことだろ? 証明させてくれよ」

 天沢の声が聞こえた。僕はまだ晋ちゃんの華奢な背中を見ていた。そんなもの見続けても悲しさが増すだけだったけど、それでも天沢の顔を見るよりはマシだった。彼の力がどんなものでもインチキなのは確実だった。それなのに天沢は整った顔で堂々としている。これじゃあインチキだって指摘できないじゃないか。さっき、嘘つき女が手の平から一生懸命に放出していた無を指摘することすら出来なかった。不思議な魅力をぷんぷんと発散する天沢には余計に言えないと思う。外見だけに惹かれているわけではないと思う。多分、迷惑なほど自信に溢れているところが気になるんだ。だから僕は敢えて彼の姿を視界に入れなかった。彼の世界に吸い込まれてしまうのは嫌だった。それに彼の嘘に実害はない。嘘をついていたとしても僕にはほとんど影響がないんだ。ただ、それに慣れると害があっても指摘できなくなるんだよな。信じる方が楽に思えてしまう。そう、天沢が嘘をついているのは知っている。願いが叶うなんていう力がインチキだってのも分かっている。

 僕の父ちゃんは嘘つきだった。自分で自分の嘘を信じてしまうほどの嘘つきだ。だから分かるんだ。父ちゃんと天沢は似ている。もしかしたら天沢に惹かれる理由はそんなところにもあるのかも知れない。二人とも自分で自分に魔法をかけてしまうタイプっていうかさ。魔法が解けるのは、新しい嘘をこさえる時だけって感じが。矛盾が生まれて過去の嘘を嘘だって認めるしかなくなるまで信じ込む。だから傍迷惑な自信もある。嘘をついたって思ってないから。それか、いけないドラッグをやっているか。そのどちらかだ。

「よし、皆集まってくれ」

 僕が黙っていると、天沢は勝手に納得した。ゲームをしている子たちに声をかける。晋ちゃん以外の子は突然現れた謎の男を訝しんでいたけど、天沢がお皿にお菓子を乗せると途端に全面降伏の態度に変わった。

「またお菓子くれるの?」

 言いながら畳を這うようにしてこちらに近づいてくる。すぐにお皿の前に全員が集まる。大ちゃんがお菓子に手を伸ばすと、天沢がその手を掴んだ。

「ちょっと待ってね。これから実験をするからね」

「またかよ。さっき見たよ」

 大ちゃんはお預けを食らったことで、不機嫌になっていた。普段は見せないような毒を吐く。

「また美味しくなるってこと?」

 晋ちゃんが尋ねる。

「もちろん、でもそれだけじゃないよ。君たちの願いが叶うように力を込めるから」

「じゃあ俺一億円欲しいな」

「僕はアメリカ大統領になりたい」

 馬鹿な子どもたちは揃いも揃って夢みたいなことばかりを口走った。どうだ天沢よ。僕たちは予想よりもずっと偏差値が低いだろう? 困っちゃうだろう?

「そういうのもいいんだけど、それだと実現するのに時間がかかるからさ。それよりも今日のところは、もっと身近な願いにしてくれないかな。たとえば今困っていることとか」

 それならあるけど、やっぱり皆の前でいうつもりはない。腹痛のことは秘密のままお墓まで持っていくつもりだ。死ぬまで秘密にできれば、の話だけど。

「じゃあ俺は」

 と晋ちゃんが言いかける。だけど「言葉にする必要はない」と天沢が止める。「口にしなくてもいい。だけど、もし願いが叶ったら色んな人にそのことを伝えてほしいんだ。僕はもっとたくさんの人を救いたいから」

「なんか怪しいな」

 大ちゃんはお菓子だけを一点見つめしていた。食い意地のことを別にすれば、もしかしたら大ちゃんがこの中で一番冷静だったかも知れない。

「だからこれから君たちの願いを叶えるのさ。僕の力を証明するためにね。もし叶わなかったら誰にも何も言う必要はない」

 天沢は僕だけに分かるようにウインクをして見せた。多分、僕には既にした説明だから少し恥ずかしかったんだと思う。だけどさ、そんなことをされたらこの茶番の共犯みたいな気分になって落ち着かなかった。皆にバレてやしないかと、必要以上に警戒してしまう。

「でもさ、それだったらお菓子じゃなくて僕の体に直接その力ってやつを入れてくれないかな。僕はわりとお腹いっぱいで」

 当然嘘だった。でも上手い言い訳だった。もうこの嘘つきたちが差し出す物を口にする気はない。

「それは駄目なんだ。廊下に貼ってあった写真を見たろ? 僕の力は現代医学を超越するような強力なものなんだ。直接じゃ子どもの体は耐えられない。だからこうして食べ物に力を込める。そうすれば体の中からゆっくりと力が伝わる。ま、その分効果は長く続かないけどね」

「へえ」随分と都合の良い力なんですね。

「じゃあ始めるぞ」

 天沢はシャツの袖をまくると、お皿のお菓子に手をかざした。彼は眉間に皺を寄せながら子どもたちの顔を見つめていた。そして、僕らの目にはお菓子が、周囲に集まってきた女たちには天沢の端正な顔立ちが映っていた。視線で彩る欲望のトライアングルが出来上がりつつあった。僕はその中心、畳の綻びをただ見つめていた。



 ■四


 週明けの月曜日、僕は教室に登校した。何故かって? 腹痛の予感がなかったからだよ。いつもみたいな、ああ大丈夫かなって油断させておいて急転直下の腹痛におとしいれる飴と鞭作戦ではないようだった。体の中心が軽く、片時も離れなかったお漏らしへの不安自体を忘れてしまいそうになるほどの静寂だった。今日こそは大丈夫。心の底からそう思えたのは、かなり久しぶりだった。足取りも軽く教室に入る。「おはよう」なんて軽口を叩いたりして。クラスメイトたちは一瞬、僕のことを珍しい生き物でも見たかのような顔で確認し、そしてその挨拶を無視した。それぞれ休みの間に起きた面白そうなつまらない話の報告会に戻っていく。ふん、保健室登校の恵まれない者を簡単に無視出来るなんて、日常的な腹痛のない世界に生まれた者の特権だよな。

 僕は自分の席に鞄を置いた。挨拶を無視されても悲しくなかったのは、単純に体の調子が良かったからだ。腹痛に怯えない生活が、これほどまでに自分を強くするとは。今なら教頭先生の、あの細い足をローキックでへし折ることも出来るかも知れない。体をくの字に曲げ、片足けんけんで僕を見上げる悔しそうな顔。爽快じゃないか。でもまあ、そこまではしないであげるよ。なんてったって機嫌が良いからね。

 教室の後ろの窓際に、晋ちゃん率いる恐れ知らずのお菓子托鉢スクワッドが集まっていた。朝礼まではまだ時間がある。僕は彼らと合流することにした。騙されて怪しい家に連れて行かれた悔しさはまだ残っていた。だけどそんなことはどうでも良かった。全ての負の感情を消し去るのが健康の力だった。それよりも、彼らに聞きたいことがあった。共有したい情報もあった。休みの間中そのことがずっと頭にあった。

 晋ちゃんに騙し討ちを食らってあの家に連れて行かれたのは先週の木曜日のことだった。金曜日は祝日で土日は当然休みだ。その間に僕の体はゆっくりと癒えていった。金曜日の朝はいつも通り腹痛で飛び起きた。いや、朝のあれは腹痛というよりも、痛みもなく肛門へ忍び寄ったうんこに寝首をかかれる寸前で気配を感じたって様子だわな。僕くらい上級者になると腹痛すら感じずに漏らしそうになることもよくあったから。とにかく、朝はそんな感じで最悪の目覚めだった。今日も戦いの一日が始まるのかって身が引き締まったよ。でもいつもの調子とはちょっと違った。夜、寝る前に気付いたんだ。そういえば今日は少し、お腹の調子が良かったぞって。トイレに駆け込むことはあったが、それにしても頻度が少なかったように感じた。でも気のせいだと思って寝た。土曜日。その違和感は続いた。まだ信じられなかった。日曜日。明らかにおかしかった。ほとんど腹痛を感じなかった。それで気付いた。もう治ったんじゃないかって。まさか、天沢のおまじないが効いたのか? そんな考えがふと頭を過った。でもすぐにそんなわけはないって打ち消した。もっと現実的に腹痛が治った原因を考えようとした。だけど、考えれば考えるほど、天沢の力としか考えられないようになった。だって、なにをしても僕のお腹は下りっぱなしの一方通行だったわけだし。確かに僕は天沢がお菓子にインチキ光線を放っている間、つい魔が差して「腹痛が治りましように」って願いを頭に浮かべていた。叶うわけがないって思ってたけど、天沢は思いの外真剣でさ。こめかみに汗を流したりなんかして、随分と長時間その体勢をキープしていた。それで暇になってせっかくだから願った。ただそれだけのことだ。他の子たちの願いはどうだったんだろう。答え合わせがしたかった。もし彼らの願いも同じように叶っていたら、それは天沢がなにかをしたってことだ。認めよう。でも僕は親も友達も売りはしない。健康になった体で、天沢とは二度と交わらない人生を生きていく。晋ちゃんたちの願いが叶っていなかったとしたら。それでもまあいいや。健康な体で生きていくだけだから。

 集団に近づくと、初めに村っちが僕に気付いた。「よお」と挨拶をした後すぐ、僕の手を掴んで輪に入れる。今日は皆と同じように教室に登校したというのに、全員まるで気にしていないようだった。そんなことよりも、話し合いたいことがあるってことだろう。僕は背筋が寒くなった。

「お前も願いが叶ったのか?」

 声を潜めて、周囲のクラスメイトには聞こえないよう注意しながら晋ちゃんが尋ねてくる。別に他の連中に聞かれたって構わないんだけど、そうしたくなる気持ちはよく分かった。

 僕が頷くと、皆は「すげえよ」「やっぱりだ」と歓声を上げた。その声は一瞬いらない注目を集めクラスの空気を変えたが、すぐに元に戻る。

「俺の父ちゃんさ、仕事中に腰痛めちゃってずっと接骨院に通ってたんだけど週末は調子が良かったみたいで。だからドライブに連れて行ってもらったんだよ」

 晋ちゃんが嬉しそうに言う。つまり彼の願いは「父親の腰が治りますように」だったらしい。中々いじらしいじゃない。他にも「妹の風邪が治った」長谷。「塾のテストの点数が良かった」亮介。「親から褒められた」だけの悲しい村っち。大ちゃんは何も言わなかったけれど、唇の端についているチョコレートを見るに、きっと美味しい物でも食べることが出来たんだろう。

「哲也は?」

 亮介が期待に満ちた表情をこちらに向けた。「お小遣いを貰えた」咄嗟に嘘をついた。本当のことを言うわけにはいかないもんな。ちょっと安易な嘘だったかなって思ったけど、皆はそれで納得していようだった。

 一体これはどういうことなんだろう? 全員の願いが叶っていても、僕が健康ならそれでいいと思っていた。でも実際にこの状況を目の当たりにすると、やっぱり気になってしまう。集団催眠みたいなものなのだろうか。でも実際に僕のお腹は痛くないし。こんな不気味な事態に直面しても、相変わらず沈黙したままだ。普段なら捨て猫みたいにきゃんきゃん鳴き始めるくせに。

「また行こうぜ」

「でも今度は誰かを誘って来いって言われたじゃん」

 長谷と亮介が言い合っている。

「他に誰かを誘えばいいんじゃない。そう言ってたし」

 誰か分かるでしょ? 晋ちゃんだよ。この子はこうやって簡単に友達を売るんだ。プライドってもんがないんだろうな。きっと僕らのこともこんな風に簡単に売り渡したんだろう。それか売っている自覚もないか。それか生まれながらのサイコパスか。そこで誰かが「先生来た」と言い、全員が散り散りになって自分の席へ戻ることになった。


 お腹が痛かった。あれから一週間も経っていない。水曜日のことだった。調子が良かった頃が遥か昔のようだった。実際には日曜と月曜と火曜だけ。水曜日の朝には全部元通りだ。腹痛と共に起き、絶望と共に食卓を囲む。トイレをちらちらと確認しながら朝食のトーストを頬張る僕を見て、母ちゃんは「行ったら?」と軽く言ってくれた。こういうのはね、トイレで出したからってそれで解決ってことでもないんだよ。それは当たり前の幸せを享受している人間の発想。トイレで出したら、夜中に肛門の近くで固まって蓋の役割をしてくれていた善のうんこを追い出してしまうことになるんだ。その後はまるで固く閉まった栓でも抜いてしまったみたいに止まらなくなるってわけ。だから慎重に状況を見極める必要がある。今まさにトーストを食べながらマルチタスクでその作業をしているんだから、そんな顔で見ないでもらいたい。

 結局家を出る寸前に、置き土産みたいな下痢をしてそれから学校に向かった。十分もかからない登校時間の内、三分歩いたところでもうとんでもない腹痛がやってきた。やっぱり栓を抜いてしまったらしい。気が遠くなるほどの我慢を強いられた後、僕は理科室前のトイレ経由保健室行きの切符を買って、保健室登校を決めた。今日からまたお世話になります。

 お腹の調子が落ち着くまで保健室にいた。落ち着くって言っても、最悪の状況からちょっとマシになるくらいのものだけど。ようやくそんな兆しが見えたのは、午後の授業が終わる直前だった。大堀先生に別れを告げて教室に向かう。もう帰りの会は終わったみたいだったけれど、晋ちゃんたちは教室に残っていた。良かった。皆に話したいことがあるんだ。

「なにか変わったことあった?」

 晋ちゃんに尋ねる。

「なんだよ? ていうかお前、今日は教室じゃないのな」

 いきなりそんなことを言われて戸惑っているようだった。一歩後ずさって僕の体全体を視界に捉えていた。

「この前、皆願いが叶ったって言ってたろ? あれ、どうなった?」

「ああ、あれなあ」晋ちゃんは明らかに落胆したように首を振った。皆の顔を確認してから再び口を開く。「父ちゃんの腰はまた痛みがぶり返したんだ。最近ちょっと暖かかったしそれで一瞬調子良くなったのかもな。長谷の妹の風邪、あれ実はインフルエンザで、熱が上がったり下がったりしてるらしい。とにかく苦しそうにしてるみたいだ。それに亮介のテストの点数は、大規模な採点間違いが発覚してな。結局いつもより悪い点数に落ち着いた。そうだよな? 村っちはさ週末に一回だけ親に褒められたけど、その後はいつも以上に怒られているみたいだし。なあ?」

 皆が神妙な表情で頷く。触れられなかった大ちゃんも同じ顔だった。心なしか頬がこけているように見えた。きっと家で満足するほどの食事が与えられなかったのだろう。

「だからさ」晋ちゃんは続けた。「ただの偶然だったんだよ。お前もそうなんだろ?」

「うん」

「やっぱり。やっぱりあいつらインチキだったんだよ。さっきも皆で話してたんだけどさ、もうあそこに行くのやめようぜ。なんか怪しいし嘘つくし最悪じゃん」

「そうだね」

 僕は肩をすくめた。それを合図に晋ちゃんたちは「じゃあまたな」と言いながら教室を出ていった。たしかにインチキで嘘つきだった。友人がそのことに気付く最低限の知能を持っていることは喜ばしかった。いや、気付いてなんかいないのかも知れない。ただ皆が盛り上がるから賛成、がっかりしたから反対ってなってるだけで。もしかしたら雰囲気に流されて、願いが叶ったことも叶わなかったこともでまかせで対応した奴がいるかも知れないし。亮介なんて怪しいもんだよね。あいつはとにかく自分ってものがないんだ。

 でもこれではっきりした。皆が確信したこととは逆だった。それがどんなものかは分からないが天沢には力がある。彼は言っていた。食べ物じゃ効果は長く続かないって。皆最初は願いが叶った。僕の腹痛も一時的に治った。だけど長くは続かなかった。そうだ。効果は長く続かなかったんだ。全部天沢の言った通りになったじゃないか。腹痛が治った時思った。これは単なる偶然だって。皆の願いが叶っていてもたまたまってことで流そうとした。でもなにかが心に引っ掛かった。そりゃそうだ。自分を騙しているようなものなんだから、しこりは残る。それで、天沢が出した条件通り、もしもこの願いが短期間でひっくり返ったら信じようと思った。僕の願いだけじゃなく、皆の願いも反転した。間違いがなかった。間違いなく天沢には力がある。僕はお腹が痛くならない世界を想像しながら、ポケットの中のキーホルダーを強く握りしめた。



 ■五


 そのキーホルダーを力一杯握っても痛くはなかった。尖ったところはなく、全体が丸みを帯びて作られていたから。父ちゃんから貰ったキーホルダーだった。僕が生まれるずっと前に開催された万博のキャラクターで、コスモ星丸って名前らしい。こりゃなんのつもりなんだろうね。丸い体から手足の生えた謎の生物が浮き輪を抱えているようなデザインだった。輪っかのある土星をイメージしているのかな。所詮はキャラクターだからなんでもいいけどこれだけは言える。こんなものじゃ、現代っ子は騙せやしない。だって可愛くもないし、格好良くもないもの。それでも僕は、この金属製のずっしりと質量があるコスモ星丸のキーホルダーを気に入っていた。父ちゃんからのプレゼントだったから。

 あれは父ちゃんが出ていく二、三日前のことだった。父ちゃんと母ちゃんはひどい夫婦喧嘩をしていた。というか、父ちゃんが一方的に怒られていた。それほど珍しい光景ではなかった。だけど良い気分はしなかった。当然だ。両親が喧嘩をしているところなんて見たくない。どっちに肩入れすることも出来ないし、うちの場合は小さな言い争いが大きな問題に発展することも多かったから。当初は物を決まった場所に返しておかないとかそういった話だったはずなのに、いつの間にか父ちゃんが過去に浮気をした話にすり替わっている。こうなると、母ちゃんが「離婚だ」って騒ぎ出すのも時間の問題だった。喧嘩を見るのも嫌なのに、すぐに二人の離婚話に発展するんだから子供としては危機感を覚えるよね。

 この時僕は、二人が小競り合いをしているリビングからなるべく離れるため、玄関近くのトイレにこもっていたんだ。懐かしいな。この時はまだ自分のお腹とロスタイムまで戦う感覚を知らなかった。ただ二人の様子を知りたくなかっただけだ。いつもは長くても一時間程度で終わる喧嘩が、この時は二時間経っても続いていた。僕はトイレの中で暇を持て余していた。今だったらさ、便座に座ったまま時間が余るなんてことはないんだよ。トイレに入ったら、そこはもう戦場だから。生きるか死ぬかの戦いで、暇なんて概念を思い浮かべることはない。

 二時間と少し経った後、ノックの音が聞こえて僕は自分が居眠りをこいていたことに気付いた。まったく平和なものだよね。慌てて鍵を開け、夫婦喧嘩に傷ついた子供の顔を作った。その顔が喧嘩の根本的な解決策になるとは思っていなかったけれど、離婚話の前に一瞬でも過ってくれたら本望だった。

「ちょっとしょんべんさせてくれ」

 父ちゃんがいた。僕を押しのけるようにしてズボンを下ろす。こっちはまだトイレから出ていないってのに、じょぼじょぼと大人のおしっこの音を立てて用を済ませていた。「母ちゃん、説教の時はトイレにも行かせてくれねえからな。スパルタだよ」なんて軽口を叩いていた。

「まだ怒ってる?」

 僕は父ちゃんの横に立って、大人のちんぽこが描く夢の放物線を見つめながら、リビングの方向を指さした。

「まだ少し。そうだ、ちょっとコンビニにでも行くか?」

「うん」

 とは言ったものの、そこから父ちゃんのおしっこは長いんだ。終わったかなと思ったらちょろちょろと出るし、いきんでおならもするしでさ。

 二人でコンビニに行って、帰りに公園に寄った。夜の公園で僕はベンチに座り、父ちゃんは滑り台の上に立っていた。僕は買ってもらったキャラメルを口の中でねぶりながら、街灯で逆光になった父ちゃんの影を眺めていた。突然その影が下手投げのピッチャーみたいな大げさなフォームで動いた。なにかが僕めがけて飛んできて、咄嗟に顔の前で防御の姿勢を取る。指と指の隙間を縫う魔球だった。おでこに固い物が当たった。衝撃というほどではなかったけれど、痛いような痒いような微妙な感覚で、僕は必死におでこをこすった。父ちゃんの笑い声が聞こえる。

「それ、やるよ」と言われて初めて、なにかをくれたのだと気付いた。足元を探すとすぐにキーホルダーが見つかった。

「これなに?」

 言いながら光にキーホルダーをかざす。

「俺からのプレゼント。ほら、コスモ星丸。俺の宝物だよ」

 父ちゃんはお尻をついて滑り台をおり、僕の近くまでやってきた。塗装なんて禿げていたし傷もあった。デザインも今どきの子供のニーズに応えられていないような気がした。でも僕はそのキーホルダーが気に入った。なんでこんなに嬉しいんだろうって考えた。すぐに思いついた。僕は父ちゃんからプレゼントを貰ったことがないからだ。誕生日や入学祝いのプレゼントはいつも母ちゃんから貰った。母ちゃんはわざわざ「これは私からだから」と付け加えながら僕にプレゼントを渡した。父ちゃんはバツが悪そうな顔で横から「おめでとう」みたいな意味の言葉を呟くだけだった。

「ありがと」

 ぎゅっと握っても、手に馴染んで痛くなかった。

「ほら、帰るぞ」

 父ちゃんは母ちゃんに渡す賄賂のショートケーキが入ったビニール袋をぶんぶんと振り回しながら歩き出した。僕は父ちゃんの背中を追った。頭の中ではこのキーホルダーにどの鍵をつけようかと考えていた。その数日後父ちゃんはいなくなった。だから今でもずっと父ちゃんの背中を追いかけている感覚があった。結局家の鍵をつけて持ち歩いているキーホルダーを握る度、その思いは強くなった。


 放課後、一旦自宅に帰ってから一人で例の家に向かった。あれは家なのか? それとも道場? 教会? とにかく天沢に会える場所に違いはない。途中でコンビニの前を通った時、財布に入れた一万円札が疼いた。喉も乾いていたし、ポケモンカードも欲しかった。でも我慢した。そんなことのために、母ちゃんの財布から拝借したわけではないから。

 僕は天沢に力を使ってもらうつもりだった。今度は短期間で効果が薄れるようなお菓子にではなく別の物に。体に直接ぶち込んでもらおうかとも考えた。だけど天沢の話を信じるなら、それをやるには僕の体は未熟らしいし。体が粉々に爆発でもしたら大変だ。そんなことにはならないかも知れない。でも問題なのは、僕が天沢のことを信じちゃってることだよね。信じてなきゃ、おまじないをおねだりしようなんて考えないわけだし。体の代わりに力を受け止める器が必要だった。食べ物みたいに消化されてなくなるようなものではなく、だけど日常的に持ち歩くもの。絶対に失くさずに、しかも一生大事にするって誓ったもの。コスモ星丸が最適だった。キーホルダーに力を込めてもらい、ゆっくりと確実にその力を僕の肛門めがけて作用させる。これで「よし」って言うまで勝手に開くことのない、以前の肛門を手に入れることが出来るはずだ。

 やってもらえないかも知れない。この前はさ、試供品を配られたようなものだ。そう考えると、すぐに効果が切れるお菓子に力を込めたのも戦略だったのかも知れないって思えてくる。家族や友人のような新しいお客さんを紹介するわけではないし、なにより僕はただの子供だ。彼らのマーケティングプランから外されても文句は言えない。そのための一万円だ。天沢が真っ当なビジネスマンなら、仕事として引き受けてくれるはずだって考えた。後で母ちゃんにバレたら怒涛の説教と、僕に罪悪感を植え付ける涙のトラウマコンボを食らうだろうけれどこっちだって必死だ。腹痛を治すためにはなんだってやるつもりだった。

 あの家に辿り着く。思わず掲示板に目がいきそうになった。街路樹と建物の輪郭に切り取られた滑走路みたいな空を見上げることで、なんとか視線を外した。今日はただでさえ一人ぼっちなんだ。余計な不安や恐怖を感じたくはなかった。駐車場には車が二台停まっていた。この前も見た大きなバンと、今日は軽自動車が一台停まっていた。外階段を上がる。玄関扉の脇にやけに旧式の呼び鈴がついていた。四角い質素なボタンがついているだけ。カメラは当然なし。スピーカーだってついていなかった。深呼吸をして呼び鈴に手を伸ばす。緊張していたのは、これからの人生を変えるような癒やしにあずかる予感があったからだけではない。単純に、一人で大人の家を訪れるのに慣れていなかったからだ。特に扉をノックしたり呼び鈴やチャイムを鳴らす瞬間が一番緊張する。四角いボタンに指先が触れる。目を瞑って強く押し込んだ。思いの外軽い感覚があるだけで、特に音などはしなかった。

 生唾を飲み込みながらその場でしばらく待つ。居心地が悪かった。留守ならそれでもいいとさえ思った。だけど三分くらいそうしていると今度は不安になった。え? 本当に留守なの? 車はあった。彼らの移動手段なんて知らないけれど、絶対に誰かしらいるはずだった。もう一度呼び鈴を押した。今回は躊躇なんてしなかった。少し乱暴にボタンを扱ったようにも思う。待つ。ただの静寂のはずなのに、いつもよりずっと静かに感じた。反応なし。だけど諦めるわけにはいかない。もしかしたらボタンを押している間だけ音が鳴り続けるシステムなのか? 今度は指を離さずにしばらくボタンを押し続けた。頭の中で十秒待って、それまで指は離さないつもりだった。「なーな」みたいに長い七秒を続け、そして八秒に繋げようとしたその時だった。突然玄関扉の向こう側に人の気配を感じた。扉が薄く開き、天沢が上半身を外に出す。彼は裸だった。下半身にはなにかを身につけているのかも知れないけど、僕からはすっぽんぽんにしか見えなかった。

「あ」と言いながら、僕は少し遅れて扉を避けた。後ろに一歩下がったけど、そんなことをしなくてもきっと扉の邪魔にはならなかっただろう。

「どうした?」

 天沢は僕の頭よりも高い位置で視線を彷徨わせた後、ようやく背の低い少年を見つけて言った。クラスでは特別背が低いわけではなかったけど、大人と比べれば僕はやっぱり小さいんだと実感した。

「あの、もう一度僕の願いを叶えてもらいたくて」

 勇気を振り絞って言う。だけど彼の目は見られなかった。ピンク色の乳首を見つめながら言った。

「ああ、いや、ちょっと今取り込んでて」

「お願いします。どうしても天沢さんの力を借りたいんです」

 僕は膝が正面に見えるくらい綺麗に頭を下げた。声のボリュームも上げた。そうすれば、ちょっと乗り気には見えない天沢を追い詰められると思ったから。膝と膝の隙間から、階段の下の通りが見えた。買い物帰りの主婦が二人、ぱんぱんに膨らんだエコバッグを肘の内側に掛けながら通り過ぎるのが見えた。二人はちらりと僕達の攻防を見て、そして慌てて目を逸らした。深々と頭を下げる子どもと、裸の男性。あんまり見栄えの良いものじゃないよね。

「分かったから。分かったから取り敢えず中に入ろう。ね?」

 僕は畳の部屋に通された。薄暗い廊下を歩く時、天沢は困ったように後頭部をかいていた。あと、下半身は裸じゃなかった。白いズボンを履いていた。皆でお菓子を食べた広い和室は以前と様子が違った。棚や、祭壇みたいな段差の配置が変わったわけではない。それは同じだ。ただ、前にいた数名の女性が誰もいなかった。僕は何故だか勝手に、こういう場所には常に勉強中の生徒みたいな人がいるものだと思っていたから少し驚いた。でもそんなことどうでも良かった。畳の部屋の中央に布団が敷かれて、そこに制服姿のお姉ちゃんが立っていたからだ。スカートのホックを留めるみたいにして腰を捻っている。

 最初は邪魔だなって思った。改めて自己紹介をしなければならないような気がして面倒くさかった。次にもしかしてこれは、と思った。なにかの儀式を執り行っていたのかもって。人払いをして、わざわざ部屋の真ん中に布団なんて敷いちゃって。前なら恐ろしく感じたはずの奇妙な風習も、今となっては天沢の力が本物だと証明してくれているみたいで嬉しかった。そして最後に、僕が制服の彼女を知っていること気付いた。

 桜の姉ちゃんじゃん。同級生の佐藤桜とは少し前まで仲が良かった。保育園も一緒だったし、何度もお互いの家を行き来していた。でも桜は三年生になってどこか意地悪になった。不必要に男を叩き、僕を遠ざけているみたいだった。桜だけじゃない。女友達はほとんど男である僕たちを平気な顔で迫害し始めた。ちょっと前まで男女関係なく仲良くしていたのに。母ちゃんに相談すると「大人になる第一歩目ね」って言ってしたり顔を見せた。

 「最初は男女関係なく仲良くして、次はそれが恥ずかしくなって男の子に冷たくする。もう少し大きくなると今度は男の子の目を気にしだす。どうやって男の子と接するか、自分なりのやり方を発見するまでは、皆その階段をのぼるのよ」

 だとよ。意味は分からなかったけど、成長ってことなら別にそれでも良かった。女子なんかとは仲良くしなければいいわけだし。

 桜の姉ちゃんは確か玲奈って言ったかな。頭が良くて学校の成績が抜群に良いって評判の子だった。僕らとは七才くらい年が離れてたはずだ。僕が小学校に入学した頃、彼女はもう中学生だったし、きっとこの先学校が重なることもない。もしかしたら玲奈姉ちゃんが僕を可愛がってくれたのは、それくらい年が離れていたからなのかも知れない。桜の家に遊びに行くと、時々姉ちゃんが一緒に遊んでくれた。桜にも僕にも優しかった。僕には兄弟がいないけれど、他の友達の兄ちゃんや姉ちゃんはこんなに優しくなかった。少し早く生まれただけなのに、弟や妹を奴隷かなにかと勘違いしているような奴ばかりだった。兄弟ってこんなものなのかなって思っていたけど、もしかしたらそれは年齢差がそうさせていたのかも知れない。年が近いとさ、なにかとライバル視するものでしょ。桜と玲奈姉ちゃんくらい離れていれば、比較にならない。体力も知力も大きく違うからね。

 随分と久しぶりだった。以前も綺麗な顔立ちをしていたけれどちょいと地味で、男心をくすぐるようなタイプではなかった。ところがどうだ。この場にいるのは立派な女性じゃないか。今は高校生くらいだろうか。制服を見る限り、僕らのほとんどが進む公立中学のものではないのは確かだ。受験をして私立の中学校に行ったか、それとももう高校生なのか。

 僕がじろじろと眺めている様子に気づき、玲奈姉ちゃんは「あら?」と手を止めた。僕が軽く会釈をすると、姉ちゃんもぺこりと頭を下げた。再び頭が元の位置に戻った時、姉ちゃんの視線は僕の傍らに立つ天沢に向けられていた。なんだかぎこちない笑顔だった。心なしか顔が赤くなっている。気になって天沢の顔を見上げると、こっちも同じような顔色だった。

「知り合いか?」

 天沢が僕の頭に触れながら姉ちゃんに尋ねる。

「うん。妹の友達。哲也くんだよね。久しぶり」

 彼女はそう言うと布団を畳み、意外な力強さで持ち上げた。ふらふらと危なっかしい足取りで開け放してあった押入れに向かい、勢いをつけて中に押し込む。ふう、と息を吐くと何事もなかったかのように窓際に座った。こちらにはあまり関心がないのか、窓の外をじっと見つめている。

「天沢さんの力は本物でした。でもお菓子じゃ効果がすぐに切れちゃって」

 本題に入った。天沢は僕の目をじっと見つめた。眉間に皺が寄っていた。それからふっと力を抜く。

「だからそう言ったろ。それに効果があったなら家族を連れてくる約束だったじゃないか」

「それは、まあ、そうなんですけど」

 自分の行動を咎められているような気がして、急に恥ずかしくなった。俯いて自分のつま先を見つめた。すると、座布団を用意した天沢が「まあ座りなよ」と声を掛けてくれる。

「取引したはずじゃないか。まあそれはいいとしてもさ、どうして欲しいの? 食べ物じゃ短期間で効果が切れるって分かったんだろ? ここの皆みたいに勉強する? それなら入信ってことになるけどその場合でもご両親に話をしないと。どうするにしても、お父さんお母さんを連れてこないと」

 入信? なにを言ってるんだこの人は。意味が分からない。それに僕はこの前見た女の人たちみたいに馬鹿げたヘッドギアを被って地道に修行するつもりはない。そんなんじゃ遅すぎる。僕のお腹は待ってくれないんだ。今日から、今から、すぐにでもお腹を治してもらいたくて来たんだ。

「僕考えたんですけど」ポケットに入れていたキーホルダーを出す。「これに天沢さんの力を込めてもらいたくて。食べ物だったら消化しちゃうからすぐに効果が切れちゃうし、子どもの体に直接は危ない。それなら普段身につけるものにやってもらえばいいんじゃないかって思ったんです。このキーホルダーは大人になってもずっと持ち歩くつもりだしちょうどいいと思って。もちろんいつか効果が切れちゃうかも知れないけど、その時はまたここに来ればいいし」

「きみはかしこいな」天沢は元々切れ長の目を今度は縦に見開いた。「そういう子は好きだ。もしかして僕の信者がお揃いのネックレスをしていたのに気付いたのか?」

 僕は首を振る。気付いてはいたが二つの事を結びつけてはいない。そんなこと知ったこっちゃねえって感じだ。

「ああ、そうなのか。あれにはきみが今言ったような効果があるんだ」

「じゃあ早速お願いします」

「でもなあ」と、天沢は僕から視線を逸らしてそっぽを向いた。

 焦らしているのか? 値打ちをここうとしているのかも。子供騙しをしようとする大人を目の前にするのは初めてじゃない。子どもにだって騙そうとしている大人の匂いは分かる。騙されてやってるんだ。大人と正面から対立したって結局肉体的か心理的か金銭的、どれかの虐待にあうだけだし。負けるが勝ちって概念はこの時に学ぶ。だけど困った。僕にはこの時、わざと負けてやるだけの余裕がなかった。勝たなければうんこを漏らす。そんな生活が続く。そんなのは嫌だった。

「いいじゃない、やってあげなよ」玲奈姉ちゃんは畳に体育座りをしていた。膝に頬を乗せ首を傾げるようにこちらを見ている。「この子のお母さん顔広いから信者拡大にはおさえておきたいところだよ。まあ私には関係ないけど」

 玲奈姉ちゃんの声はざらざらとしていた。気だるげな態度には、昔とは違った印象があった。真面目な子が不良になっちゃった、みたいな悲しさと恥ずかしさを感じさせた。今更だけど、玲奈姉ちゃんは白い服を着ていないし、ヘッドギアもつけていない。「関係ない」ってことは、天沢の教え子ではないってことか? それならなんでこんな場所にいるんだろう。こんなところに来る部外者は、お菓子目当ての半分誘拐されたような子どもか、お漏らししそうで切羽詰まっている奴だけだ。彼女はそのどちらでもなさそうだった。

「だけどなあ」天沢はまだ渋っている。

「優しくないんだね。私そういう人嫌いだな」

 玲奈姉ちゃんは立ち上がった。スクールバッグを拾い上げ肩にかける。天沢は彼女の行動に少し慌てたようだった。片膝をつき「分かったよ」と僕じゃなくて姉ちゃんに言った。今だ、と思った。僕は財布から素早く一万円札を引っ張り出した。畳の上で皺を伸ばしてから天沢に差し出す。

「あの、これ」

 天沢はため息をついてから、僕の、というか母ちゃんのお金を受け取った。玲奈姉ちゃんが畳を踏む気配に気付いた。彼女は部屋を出ていこうとしていた。天沢も気付いたようだ。いよいよ立ち上がって彼女を追う。

「私帰るね」「送っていくよ」「いいよ」「じゃあ玄関まで」

 そんなやり取りが廊下と和室の境目で行われていた。天沢は廊下側を向いて立っていたから後頭部しか見えなかったけれど、玲奈姉ちゃんは和室側を向いていたので僕と目が合っていた。姉ちゃんは口を「じゃあまたね」と動かしながら、こちらにウインクをした。気障な仕草だった。助け舟を出してもらったことも忘れて、僕は早くこの部屋から出ていってほしいとさえ思っていた。廊下から二人分の足音が聞こえ、その後で一人分の足音が帰ってきた。

「さて」

 天沢は心配事がなくなったかのような晴れやかな表情を見せた。腕まくりをしようとして、今自分が裸なのを思い出していた。行き場を失った指を流れるように後頭部まで持っていってその場を激しく掻いた。とにかく気合が入っているのは間違いがない。

「本気でやってくれるんですね」

 自分で望んでおいてなんだけど、ここまで本気になってくれるとは思わなかった。天沢は「本気じゃないと力が暴走する」なんて格好つけたことを言っていた。それが本当なのかも分からないし、それを言ったら彼には別の目的があるのかも知れないけれど僕はその姿勢に感心した。他人に一生懸命になれるなんて、それだけですごいことじゃないか。たとえ子どもから一万円を徴収していたとはいえ、なかなか出来ることじゃない。お金をもらうだけもらってお茶を濁すことだって出来るんだから。証明なんて出来っこないんだし。

「キーホルダーをそこに置いて」

 天沢は僕の目の前に座った。二人の間にあるちょっとした空間を指さしている。言われた通りキーホルダーを畳の上に置いた。一瞬僕たちの視線は交差した。だけど天沢はすぐに目を瞑り、そして以前お菓子にやった時と同じようにキーホルダーへ手をかざす。手持ち無沙汰になって僕も目を瞑る。前は十分程度かかったように記憶している。今度は何分かかるかは読めない。だとしてもさ、こっちも目を瞑って集中した方が、なんとなく効果が上がるような気がするじゃないか。



 ■六


 天沢の力と、キーホルダーを触媒にするっていう僕のナイスアイデアの効果はてきめんで、お腹に常駐していた勤勉な悪魔たちの声を聞くことはほとんどなくなった。ほとんどっていうのは、僕の方の問題だった。長い間、過労死も辞さない昭和のサラリーマンみたいな働き方をする奴らにイジメられていたもんだから、正当な主張さえストの予感って感じる体になっていた。朝、便意を感じれば、それは即下痢の合図だと勘違いした。慌ててトイレに駆け込むと、健康そうな一本糞がおはようございますって挨拶してた。そんなことがよくあった。だからほとんど、なんだ。実際のところあれからお腹は痛くなっていない。感じるのは肉体的に正しい便意という反応だけだった。

 だけど天沢からしたら僕は期待外れだっただろうな。あれから一ヶ月近く経っているけど僕は誰のこともあの場所へ連れてっていない。だって怪しすぎるだろ? それにさ、他人に勧めるからには確証が欲しかった。天沢の力が本物だって百パーセント信じられる確証がさ。前みたいに、短期間で効果が切れるなら簡単には勧められない。いや、まあ、短期間でもすごい力だとは思うけど、そうなれば狐に化かされてお札が葉っぱになった、みたいな怒りが紹介した僕にも向くだろう? ちゃんと見極めるには、そりゃあ一ヶ月はいただくさ。幸い僕のお腹の調子は悪くなったりしなかった。

 こりゃあ本物だ。僕は確信した。でも誰かに紹介する気にはなれなかった。きっとどうでもよくなっちゃったんだ。友人を紹介するなら、その子たちを売ることになる。母ちゃんに言えばきっと怒られるだろう。どちらもごめんだった。ようやく腹痛が治ってハッピーなのに、わざわざ気分の悪くなる事態に首を突っ込もうとする馬鹿がどこにいる? 僕はこのまま平和に暮らすんだ。もしいつかまた天沢の力が必要になったら、その時は手の平を返すさ。いくらでも母ちゃんの財布からお金を抜く覚悟があった。でも今は。取り敢えず幸せなんだから気にする必要はない。

 もし父ちゃんがいたらって考えたことならある。きっと父ちゃんなら、ああいう怪しい場所でも面白がってくれただろうな。手品の種を探すように、天沢の力についてあれこれ質問をしたかも知れない。鬱陶しいぞ。だからもしかしたら天沢にとっては、誰も紹介されなくて良かったのかも知れないな。

 晋ちゃんたちから天沢の話を聞くこともなかった。きっと皆、一時期の流行りみたいなものとして忘れているんだろう。晋ちゃんが僕らを売った事実を忘れることはできないが、新たな被害者を出すことなく忘却したことは世界を善の方向へ少しだけ傾けたって言えるかもね。もちろん彼らが親に天沢のことを言うはずもない。皆同じ気持ちだ。怒られたくない。僕らはあの建物で起きたことを忘れて変わらずに生きていくんだ。それが共通認識だと思っていた。

 そんなある日のことだった。僕は夕飯を食べた後、ソファーの上で微睡んでいた。テレビも見ていなかった。漫画雑誌を読むこともない。お腹の調子を気にせずに食事が出来る幸せをただそうして噛み締めていた。母ちゃんは洗い物をしていた。この日は仕事が順調だったのか機嫌が良かった。鼻歌と水が流れる音、そして時々食器同士がぶつかりあう甲高い音がリビングまで聞こえていた。

 ソファーの近くでやかましい音が鳴った。テーブルを見ると、母ちゃんの携帯電話が目覚ましみたいな着信音を響かせながら振動している。首を伸ばして台所の様子を伺うと、母ちゃんはこちらに気付いていないようだった。

「電話だよ」と叫ぶ。母ちゃんは体勢を変えない。もう一度、今度はもっと大きな声で「電話だよ」と言った。

 母ちゃんはようやく振り返ると、僕の手の中で光る携帯に気付いた。エプロンで、濡れた手を拭きながら近づいてくる。僕が携帯を渡す直前、音と振動が切れたのが分かった。

「もっと早く言ってよ」

 母ちゃんは嘆いた。機嫌が良いって言っても所詮こんなものだ。母ちゃんが携帯の画面を見つめていると、再び着信音が鳴る。ボタンを指で操作して携帯を耳に当てた。今度は上手く応答出来たようだ。

「もしもし。あら、大ちゃんママ。お久しぶりね。元気?」

 母ちゃんの視線が僕の体を品定めでもするように走る。なにか悪いことの知らせだと思った。はっきり言ってすぐに居心地が悪くなったね。僕は立ち上がって、トイレに行くふりをして自室に籠城しようって決めた。自分の部屋ができたのは、父ちゃんがいなくなったことで得た、唯一のメリットだった。しかし、僕の腕を母ちゃんが強く掴んでその行動を阻止した。携帯を耳に当て、壁の方を見ながら「ええ、ええ」なんて頷いて僕の腕を掴んだんだ。痛くてさ、多分怒られるんだろうなって覚悟しながらも、僕はその場で棒立ちだよ。

 しばらくそこで、母ちゃんの余所行きの声と話し方を聞いた。電話の向こう側で大ちゃんの母ちゃんがなにを話しているかは分からなかった。母ちゃんの声色に焦りや怒りみたいなものは滲んでいなかったように思う。平然と大人としての対応に終始していた。でも、焦っていたり怒っていたりしているのは明らかだった。僕の腕を引きちぎるみたいにして強く握って、爪なんか肌に食い込んでたからさ。それって多分、憤慨している証拠だよね。

「分かりました。それじゃあまた」

 母ちゃんは携帯を優しく触って通話を終了させた。その後でキツく僕の腕を引っ張ってソファーに放り投げる。

「え、なんで?」

 空中を猫みたいに華麗に舞った僕の体が、ソファーに着地して跳ね返ってから言った。良いコイルを使用しているからか思いの外跳ね返りが強く、立っている母ちゃんの目の前で口にしたように思う。再び母ちゃんの顔が離れていき、そしてソファーに背中が当たる。

「あんた、宗教の施設に行った?」

 母ちゃんの顔はパーツというパーツの外側を糸でくくりつけ、それを神様が引っ張って遊んでいるようだった。目も鼻の鼻も口角も恐ろしい形で釣り上がっていた。

「宗教? なんのこと?」

 引っ叩かれると思ったから、顔だけはなんとか両手でガードした。でも宗教なんて知らない。教会かなんかってことだろ? 十字架があって、座り心地の悪い木の椅子が並んでいるあの。知らない。本当に。

「とぼけるんじゃないよ。大ちゃんがね、皆で行ってそこでお菓子を貰ったって」

「ああ」

 あそこ、宗教施設だったの? という感じだった。思えば祭壇みたいなのがあったし、天沢も修行を積んだ宗教家だけが使えるような力を操っていた。皆が天沢に知恵を借りようと修行しているって言ってたしね。そうか。天沢が教祖かなにかで、あれは宗教団体だったのか。すんなりと腑に落ちた。同時に、おっかねえ、とも感じた。思えば、あの施設で起きたことは全部奇妙だった。しきりに誰かを紹介させようとしたのも、信者拡大を目論んでいたからか。まずは子どもたちにお菓子で餌を撒き、不思議な力を見せてそれを周りに伝えさせる。興味を持った親とか友人を勧誘して信者に。後は教義にどっぷりと浸からせて合法的に有り金を全部毟り取ろうって腹なんだろう。危なかった。でも僕の場合は逆に奴らを手玉に取った。子どもの割に、かなり抜け目のない性格が為せる業だった。何も失わず、なにも奪われていない。いつか天沢の力がその効果を失っても、平気な顔で再度申し込みに行けるデリカシーのなさも持ち合わせている。その時もさ、なにも知らないふりで話を合わせるつもりだ。え、ここって宗教施設なんですか? ってなものだ。前回一万円と懇願で済んだんだから、仮に次回があったとしても同程度のお金を握らせれば天沢も断れないはずだ。もし彼が予想以上にがめつくて、値上げを要求してくるようなら信者になったっていい。うん、別にそれくらい構わない。それでお腹の調子を維持出来るなら。教義程度のことじゃ、僕の考えも行動も縛り付けることは出来ないって分かってるからさ。

「なんかされた? 前から言ってるよね? 知らない人について行っちゃだめだって。大ちゃんのお母さんもびっくりしてて、注意喚起のために今度皆で学校に相談に行くことになったから。あ、もしかして私の財布からお金を取ったのも関係ある?」

「なんのこと?」

「一万円。あんた財布から一万円盗んだでしょ。知ってるんだから。大体うちは大金持ちじゃないの。財布からそんな大金が消えれば気付くに決まってるでしょ。でも父親がいなくなった不安から、私は貯金に走ったでしょ? あんたのお小遣いも減らして。その反動がこんな形であらわれたのかなって思ったの。だから叱るのはぐっと我慢した。一万円で子どもの幸せが買えるならそれでいいと思ったの」

「分かった。僕が盗んだ。宗教施設にも行った。全部母ちゃんの言う通りだよ」

 僕は大声を出して母ちゃんの泣き言を遮った。このまま放っておくと、僕が生まれた時の話や、父ちゃんと結婚した時の話にまで発展すると思ったから。それで、全部大変な思い出だったけど、乗り越えなければ今がないものね、なんてめそめそ結論付けるんだ。そんなのは聞きたくなかった。それならぱっと花火みたいに怒られてしまった方がましだ。

「やっぱり。もしかして、お金も宗教に使った?」

「使った。教祖みたいな人に払った。皆のお菓子代として僕が代表して払ったんだよ」

 罪を認めはしたけど、半分は嘘のスパイスを足した。だって盗んだお金で、説明できない力をコスモ星丸のキーホルダーに入れてもらったなん言えないでしょ。そんなことを馬鹿正直に話せば、余計に事態がややこしくなってしまう。

「アラブの石油王が食後につまむようなお菓子でも食べたわけ?」

「ううん。普通のコアラのマーチとか」

「ぼったくりね。信じられない。しかもあんただけにお金を払わせるなんて。あんたイジメられてるの?」

 僕の嘘が原因で母ちゃんはヒートアップした。いや、そんな風に考えるのはやめよう。嘘をつかなくても結局のところ母ちゃんは血管が千切れるほど頭に血をのぼらせたはずだ。

「イジメられてはいないけどさ、まあ成り行きで」

「じゃあそのクソ教祖の恐喝ね。情けない大人。取り返しに行くよ」

 母ちゃんは再び僕の腕を強く引っ張り、無理やりに立ち上がらせた。そのまま玄関へ向かっていく。

「今から行くの?」

「うん。どこにあるの? その施設は」

「一回行っただけだから、あんまし覚えてないんだよね」

「大体でいいから。ほら、行くよ。あんたちゃんと立ってよ」

 僕はその時、母ちゃんに引きずられていた。そんな赤ん坊みたいなことしちゃ駄目だって分かってたけど、気持ちが前を向かなくてされるがままだった。母ちゃんに見下されながら玄関で靴を履いた。その間ずっと、上手い言い訳を考えていた。思いつかなかった。だから未来の自分に期待した。どうか施設へと辿り着くまでに、未来の自分が上手い言い訳を思いつきますようにって。

「ほら、早く」母ちゃんは苛ついていた。僕が左足をスニーカーに押し込む前に玄関扉を開けて外に飛び出していった。


 施設の近くに辿り着くまで、たっぷりと時間を掛けた。本当は一度ではなく二度行ってるし、その前にも英語の塾へ三週間通っていたから道順はばっちりと記憶していた。だけど、未来の僕が中々閃いてくれなくて、そのための時間稼ぎをしたってわけだよね。母ちゃんもちょっとは冷静になってくれるといいんだけど、なんて淡い期待を寄せたけどさ、どうやら逆効果だったみたい。父ちゃんとのラグナロクの時みたいに興奮し始めちゃってさ。夜の住宅街だってのに「あんたここまで来てとぼけてるんじゃないないでしょうね?」って大声で叫んでた。自分を見失ってるんだ。

 なるべく粘ったものの、そろそろ方向転換をして正しい順路に戻らないとって思った。この頃には諦めもついていた。だって母ちゃんは既に怒っていたし怒鳴ってもいた。腕を強く引っ張られていたし、二度げんこつを食らった。これってもうさ、たとえ上手い言い訳をしても同じことだと思うんだよね。もう怒られてるんだからなにも怖くないって心境にようやくなれた。そう。僕は宗教施設に辿り着く前に悟りを開いた得の高い人間ってことさ。

 安らかな心で住宅街の角を曲がる。そこを真っ直ぐ五十メートルほど歩けばあの施設に辿り着けるはずだった。でも角を曲がったところで僕の足は止まった。母ちゃんも足を止めた。施設の前辺りが妙に騒がしかったからだ。停車したパトカーの赤いランプが夜の住宅街を舐め回し、周囲へ緊急事態を告げている。近所の住民だろうか。数人の野次馬が集まっている。それを制服姿の警察官が黄色いテープを貼りながらなんとかさばいている様子が見て取れた。

「あそこがそうなんだけど、なにかあったのかな?」

 僕が前方を指さすと、母ちゃんは「行ってみよう」と言って駆け出した。

 明らかに事件現場だった。くだらないことに関わるのはやめて家に帰りたかった。でも激戦地に自分を見失った母ちゃんを置いていくわけにもいかない。僕は嫌々母親の背中を追いかけた。

「なにかあったんですか?」

 施設の前までやってくると母ちゃんは躊躇することなく、寝間着のまま家を飛び出してきたであろうお婆さんに声を掛けた。近くまで来て分かったが、結構な大事になっていた。パトカーは二台停まっていたし、警察官は見える限り五人はいた。野次馬の数も多かった。そして、警察の狙いは明らかに教団施設だった。黄色いテープが外階段ごと囲むように駐車場を周回していた。

「この建物ね、数年前から怪しい宗教団体が入ってたんだけどね。その教祖様がどうやら女の子にいやらしいことをしてたらしいの」お婆さんはそこまでは小声で言ってから声のボリューム上げて、周囲にアピールするように「セックスカルトよ」と叫んだ。

 セックスカルトの意味は分からないけど、天沢の教団が近所と上手くやっていけていなかったことは分かった。そりゃそうだよね。うちの近所に怪しげな宗教団体が引っ越してきて、黒目だけで白目がなくなったゾンビみたいな奴らがうろつき出したら堪らない。きっと軋轢もあったんだろう。

「あんた、なにもされてないよね?」

 母ちゃんが僕を引っ張った。今度は腕を引っ張るみたいな生易しいものではなくて、抱きしめるようにして僕を引き寄せたんだ。僕は母ちゃんの胸の中でぶんぶんと首を振った。嘘をついていた。色々された。でもいやらしいことじゃない。キーホルダーに不思議な力を込めて貰ったんだ。だけどそれを興奮状態の母ちゃんにどう説明しろっていうんだ?

「被害にあった子の両親が警察に相談したらしいの。それで今日逮捕ってわけ。前から怪しいと思ってたんだよね私は。子どもも通るような場所に気持ちの悪い写真を貼ったりしてさ。若い女の子が頻繁に出入りしてたし。いくら男前の教祖だからって私は騙されないよ」お婆さんはもう一度念押しみたいに「騙されないよ」って叫んだ。

「それで、その教祖って人はどうなるんですか?」

 僕は母ちゃんの胸の中で暴れてなんとか顔を外に出した。お婆さんの怒れる瞳を見上げる。

「警察が建物の中を調べたら証拠がたくさん出てきたらしいの。あの男の趣味だったのね。だから刑務所行きじゃないかしら」

「証拠ってなんですか?」

 顔の上で母ちゃんの声が聞こえた。いや胸の振動がそのまま響いたんだ。

「だからあれよ。撮影してたらしいの。女の子といやらしいことをしている様子を。それがたくさん。中には中学生の子もいたらしいわよ」

「そんなに若い子も?」

 母が聞くと自信をなくしたのか「そうですよね? 吉住さん」といつの間にか隣に立っていたこれまた年配の女性に尋ねていた。その女性は神妙な顔つきで頷く。

「あ、出てきた」

 そんな声が聞こえると、周囲の野次馬が一段と騒がしくなった。僕は首を捻ってなんとか外階段の上の玄関を見上げた。天沢が警察官に連れられて階段をおりるところだった。母ちゃんが一層強く僕を抱きしめた。まるで悪魔から僕を庇おうとしているようだった。そこで僕の視界は真っ暗になった。それでも足りないと思った母ちゃんが、僕を頭ごと抱え込んだからだ。汚らわしい悪魔が、息子の視界に入ることさえ許さないという意思を感じた。

「目、閉じておきな」

 母ちゃんは言って、そのまま僕を抱きかかえて持ち上げた。僕だってもう三年生だ。それなりに体重はある。父ちゃんならまだしも、母ちゃんが簡単に抱きかかえて運べる重さじゃない。でも素直に従った。なんか嬉しかったからだ。なんにも考えずに父ちゃんや母ちゃんに導かれるまま生きていればそれで幸せだった頃のことを思い出した。僕には自由意志があって、なにをするにも自分で決められると思っていたけど、それってあんまり幸せなことじゃないのかも知れないとさえ思った。こうやって、親の決定に身を任せるのも悪くない。でも母ちゃんに全部決めてもらったら、ひどいセンスのシャツとか着せられそうでそれも嫌だな。それは嫌だけど、今は悪くない。母ちゃんの息が弾むのを、胸に耳をつけて聞きながら僕はいつか終わるって分かっている幸せに浸っていた。

 母ちゃんが僕のことを地面におろしたのは、どこだかまるで分からない路地にある花壇の上だった。足元に柔らかい土があって、一瞬バランスを崩してしまいそうになった。

「あんたまでいなくなったら私生きていけないから」母ちゃんは僕の肩を支えながら言った。街灯に照らされた頬が光ったのは、きっと走っている間泣いていたからだろう。「もう絶対に知らない人について行っちゃだめ。いい? 約束だよ?」

 また抱きしめられる。苦しかった。僕が鼻と口で呼吸する生き物だってこと忘れてるのかな? 僕はもがきながら「うん」って答えた。

 内心では助かったって思ってた。もしこんなことなしに施設に入ったとして、母ちゃんと天沢がなにを話すのか想像出来なかったから。知らない人の家でお菓子を食べたことを怒られるのは良い。でも怪しい儀式にお金を払ったってことをほじくり返されたとしたら。母ちゃんの感情のどの部分に火をつけてしまうか分からなかった。天沢がこれからどうなるのか、僕には関係がなかった。あんなもんどこで野垂れ死んでくれても構わない。いや、構う。僕は咄嗟にポケットに手を入れた。触覚だけでコスモ星丸の形が分かった。もし天沢がいなくなって、それで彼の力がいつか弱まってしまったら。そう考えると恐ろしかった。僕は母ちゃんが落ち着くまで、僕自身を思う存分抱かせてやった。それで気が済むなら、ずっとそうしてやるつもりだった。

 それから天沢がどうなったかは分からない。僕たち子どもの情報収集能力も大したことがなかったし、それに飽きっぽかった。事件の次の日にちょっとした噂になったくらいで、後は話題にならなかった。多分、親とか先生とか大人が話し合って、敢えて子どもの耳に入れるような事件ではないと判断したんだろう。情報規制はかなり上手くいっていた。

 しばらくしてから、施設の前を通りかかった時、掲示板に不気味な会報誌が貼られていないことに気付いた。駐車場には車もなかった。というか、人が使っている形跡すらなくなっていた。駐車場のコンクリートの割れ目から力強く顔を出した雑草が、しばらく人の出入りがないことを僕に知らせていた。

 天沢が捕まった時に感じた恐怖心は薄れていた。僕のお腹の調子は相変わらず良いままだったし、これから悪くなるような気配もなかった。長い間僕を悩ませた腹痛は治ったんだろうって判断した。苦しめられている時は一生これが続くんじゃないかって気が気でなかったけれど、終わるのは実に呆気ないものだった。それでも僕はキーホルダーを手放さなかった。既に天沢の力はただの偶然だって判断していたけど、これは絶対に失くせないって思っていた。元々父ちゃんからのプレゼントなんだから、大切に扱うつもりでいた。だけどそれだけじゃなかった。気休めとか願掛けとか、そういったもの以上の存在価値を認めていた。

 僕にとってキーホルダーを持ち歩くのはパンツをうんこで汚さないためのルーティンだった。これから僕も成長していく。どんどん漏らせない場面も増えていくだろう。その時のための備えだ。天沢はもういない。代わりもない。このキーホルダーは絶対に失くせない。お腹にちょっとした違和感を感じる度、僕はポケットに手を入れてそんなことを思った。

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