シエロ
甘辛沢庵
第1話 名前
あかしろきいろ。色とりどりの花。あおだいだいはいいろ。個性豊かな鳥りみどりくろちゃいろ。跳ね回る虫たち。目を覚ましたぼくを取り囲むそれらは、この世の絶景の、更にその中でも美しい部分を切り取ったような素敵な世界だった。
空は澄んでいて、眺めていると吸い込まれそうで風はやわらかくぼくの耳を撫でていく。
ぼくはいつの間にこんな所に来たんだろう?
ぼーっとする頭を振りつつ、記憶の箱を探ってみようとしても何も出てこないのがもどかしく、気持ち悪い。一体ぼくの頭はどうしたんだろう。とても大切なものがそこにはしまってあったはずなのに。
考えてても仕方ない。ぼくは立ち上がり辺りを散策してみることにする。覚えてないはずなのに懐かしさを感じるこの花畑を。
「あら、あなた新しく来た子?」
不意に呼び止められ歩を止めると、そこには人間の女の子が立っていた。顔立ちも幼く、服装も子供っぽいけど、どこか柔らかな雰囲気を帯びた女の子。
「こんにちは。さっき目を覚ましたらここに居たんだ。何を言ってるか分からないかもしれないけど。ところでここはどこだい?」
「そうなのね……。まぁいいわ。ここはシエロって皆呼んでるの。見ての通り、美しい景色が拡がるからシエロって呼ばれてるだけで正式名称は私も知らないんだけどね」
「シエロかあ、ありがとう。ぼくはここに来たのは初めてのはずなのに、なんとなく懐かしい感じがするよ。いいところだね」
「そうね。私も初めて来た時は似たような感覚を覚えたわ。ねえ、ところであなたお名前は?」
ぼくは名前を聞かれてハッとした。名前……ぼくの名前も思い出せない。
凄く大切なはずの名前。
「名前……思い出せないや。というか何も思い出せなくて」
項垂れながらそう言ったぼくのことを、穏やかな目で見つめつつ彼女は言った。
「あなたもなのね。ここに来るひとの多くがそうなの。気づいたらここに居て、多くのことを忘れてきて。私もなんだけどね」
いたずらっぽく笑う彼女に救われた気がした。思っているよりも重大なことのはずなのに。
「でも、名前が無いと不便よね。こう呼ばれたいとかある? なんなら私が付けてあげましょうか」
「ぼくは特に拘りはないよ。君が呼びやすい名前で呼んでくれたらいい」
そう言うと彼女は少し難しそうな顔をし、うんうんとうなり始めた。
遥か上の空ではカラスとキジバトが仲良く並んで飛んでいる。さらに花畑の方に目をやると人間の男の子が子鹿とじゃれあっている。なんて平和なんだろうか。
「……でどうかしら?」
急に聞こえてきた問いかけに驚きつつ顔を向ける。
「聞いてなかったの?! なんというかぼーっとしてるのね。あなたの名前、決めたわ」
「ぼくの名前……ぜひ教えてよ」
そう言うと得意げな顔で彼女はぼくにこう名付けてくれた。
「ソレイユ!」
ソレイユ。それが名前も思い出せないぼくがここで過ごすために付けられた記号。由来はわからないけれど、なんだか仰々しい名前に少しばかり気後れしてしまう。
「ところで、君のことはなんと呼べばいいんだい?」
彼女はその白い髪を靡かせこれまた白い歯を覗かせて言う。
「教えてもいいけど……折角だからソレイユが付けてみてよ。あなたにも本当の名前があると思うけど、私が付けた。だからあなたが私に名前付けるのも面白いと思わない?」
「ぼく、がきみの名前を?」
予想だにしない流れに戸惑いつつも、期待の籠った眼差しを裏切るのもはばかられる。結果、ぼくは頭の引き出しのあちこちを開け、出てきた言葉を当てはめる。
よく熟したイチゴのような深い赤が特徴的な眼、新鮮なミルクのような白い髪を頭の上で団子のようにしている特徴から付けてみようか。
「……いちご大福?」
「本気で言ってる? それ」
彼女は苦笑しながらも本気でたしなめるような雰囲気は発していなかった。
「勿論冗談。きみの名前は──」
シエロ 甘辛沢庵 @masa-syousetsu
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