第二夜 空白の二年
第5話 スミレくん
ゆるやかな日差しが、朝を呼ぶ。
カーテンの隙間から少し冷たい風が吹き込んで、前髪がいたずらに瞼をくすぐった。
「ぅん、もう朝かぁ」
羽ばたく鳥たちの声に、意識がゆっくりと浮かんでいく。見慣れない天井を見上げて、のそりと体を起こすと――「んみゃぁ」と小さな声が聞こえた。
……まずい。潰した?
息を呑んだ音が、やけに大きく響いた。
冷や汗が頬を伝う。振り返っても、しらたまちゃんはいない。
とりあえずそっとベッドから降りて、足元をそっと覗く。そのまま辺りを見渡したけれど、見当たらなかった。
揺れるカーテンだけが呼吸しているみたいで、この部屋だけ時間から置いていかれた気がした。
「やっぱりいない。ど、どどどうしよう」
落ち着け、カラン。鳴き声がしたなら、このベッドの上にいるはず。
羽毛の上じゃないなら、下かも……。あぁ、どうしよう。しらたまちゃんが瀕死状態になってるかもしれない。大人しく寝てたつもりなのに、もし寝返りで潰してたら――私のせいだ。
「うっ、うぅ……」
部屋を照らす朝日が、やけにまぶしい。
逆光で伸びる自分の影が、不安を煽るようにこちらを見つめていた。
あぁ、朝からこんな気持ちになるなんて思わなかった。胸の奥がぎゅっとして、涙が滲む。
ダメだ、ダメだ泣いたって何も変わらない。気を取り直さなければ。そうとぼとぼとカーテンをまとめていると、コンコンと扉が叩かれた。
「カランちゃん、起きてる?」
陽だまりのように優しい声。
低くても心地よい、彼の声にまた涙腺が少し緩む。
しらたまちゃんを起こさないように小走りで扉を開けると、スミレくんは私を見てぎょっと目を見開いた。
「ど、どうしたの? まさか嫌な夢でも見た?」
「ううん。快眠だったよ。ただ、しらたまちゃんが見当たらなくて」
情けないな。声が、だんだん小さくなっていく。
ベッドに目を向けると、スミレくんは察したように「あ、あぁ……」と、安堵とも落胆ともつかない声を洩らした。
「それよりスミレくんは、なにかあったの?」
「ううん。昨日のことが夢じゃないか気になって。えっと、それでしらたまちゃんね」
「探すの、手伝ってくれるの?」
「もちろん。可愛い女の子が困ってたら助けるのが俺のポリシーだからね」
太陽よりも眩しいウインクを決めたスミレくんは、袖をくいっと捲って羽毛を両手で持ち上げ始めた。
大きな背中だなと見上げれば、突然筋肉が程よく付いた腕が晒されてどきりと心臓が跳ね上がる。柔らかな陽の光が、彼の横顔を照らして美しい輪郭が一層眩しくて。思わず硬直する私に、ふわりとアホ毛を揺らしてスミレくんは振り返った。
「ん? もしかして、眠くなっちゃった?」
アメジストの眼と視線がぶつかって、思い切り首を横に振る。寝起きで見るには目が潰れるほどに、顔面が強い。女たらしで、よく揉め事に絡まれていたとカキラから聞いていたけど、この顔で優しくされたらそりゃイチコロに決まってる。
「眠くない。ただスミレくんはかっこいいねって、思っただけだよ」
「……えっ!?」
「不思議。私、イケメンには免疫がある方だと思ってたのに」
そう、そうなのだ。
カキラという完璧な人間を間近で見ていた私は、顔が整った人を見ても「かっこいいな〜」位で落ち着いていたはず。なのにこんな、直視できなくなるなんておかしい。昨日はなんとも思わなかったのに。
それに、今だって心臓の音しか聞こえないくらい、煩いし。顔も熱が集まってるかのように熱いんだ。パタパタと手で顔を仰げば、羽毛を抱っこしながら硬直しているスミレくんが目に入る。
「い、今かっこいいって……」
逆光でもよく分かるほど、真っ赤な林檎みたいな顔。熱帯びたアメジストの瞳に映る自分は、今の心の写鏡のようで。熱くなる頬を冷やすように冷たいそよ風が吹き込むけれど、高鳴る鼓動は鳴り止まなかった。
羽毛の皺はどんどん深くなっていき、額に汗を浮かべるスミレくん。落ち着いてきた羞恥心のお陰か、目の前の挙動不審になってきている彼を見ていると比例するように熱が冷めていく。
(か、可愛い)
かっこいいねと言った手前、可愛いなんて零したら怒らせてしまうだろう。けど、けど……! 可愛い。私より可愛い反応をするなんて、ずるいよスミレくん。これだからモテ男は困る。照れ照れと、後ろ首を搔くスミレくんには悪いけれど、もうただの可愛い仕草する人にしか見えない。
吹き込む風に乗って、甘い薔薇の香りが鼻をくすぐる。ふわふわと揺れるスミレくんのアホ毛は、まるで彼の心を現しているようだった。
「よし、しらたまちゃん探しを再開しよう!」
ふぅ、と息を吐いて軽く両頬を叩く。
自分よりも動揺している人を見たからか、本調子が戻っていた。なんだか、部屋の気温も上がった気がする。
「どこにいるかな〜。朝ごはん無くなっちゃうよー」
なんて、毛布の上から手をポンポンと滑らせていると突然大きな影が私を覆った。
「え……?」
骨ばった手が私の手を絡み取る。顔をあげれば、彼の喉が上下に動いた。小さく開かれた唇からは熱い吐息がこぼれる。
「俺、カランちゃんから見てかっこよかった?」
重なる手が熱い。
離れたくても、逃がさないように指先が強く握っているせいで動かせない。真っ直ぐな眼差し、高くなる湿度。
ダメだ、気をそらさないといけないのに、この雰囲気に飲み込まれてしまいそうだ。私、そんなにちょろくないのに。惚れっぽい性格じゃないのに心臓の音が煩くて、目が熱くなる。
覗き込むように近づいてくる顔。
堪らず視線を落とせば、繋いだ手に力が入る。少し震えている指先にまた鼓動が高鳴って、まずいまずいと脳が警鐘を鳴らした時だった。
「ん、みゃ」
視界の端で、何かが小さく動いた。
咄嗟に声のした方へ顔を向ければ、もぞもぞと枕が揺れている。
(いた、しらたまちゃんが居た!)
ここぞとばかりにスミレくんのターンをぶち壊そうと、私は枕とスミレくんを交互に見ながら何度も「あそこだよ!」と指さした。
「……はぁ」
「な、なに。し、しらたまちゃん居たよ。スミレくん手離そ」
「あと少しだったんだけどなぁ」
呪い殺されたいのかな。
どういう訳だか異様に動揺する今の私に、そんなことし続けたら、私に惚れられて死ぬんだよ。分かってるのスミレくん。
声にこそ出せないが自重しなさいと、枕の下からしらたまちゃんを抱っこするスミレくんを目で追う。
「にしてもこの子、何者なんだろう」
「私にも分かんない。昨日あったばかりだから。でも、あの竜にはすごく怯えてるみたいだった」
渡されたしらたまちゃんを撫でながら、私たちは朝食を食べるためこの部屋を後にした。
昨日は独りぼっちだったこの廊下も、今はスミレくんがいるからか少しだけ明るく感じる。
「ここ最近、魔物の数も増えてたからね。もしかすると、この島も何度か狙われていたのかもしれない」
「そ、そうなの? 前まで、魔物の被害なんて半年に一回あるか位だった気がするけど」
そこまで話して、はたと気づく。
私はどれくらい眠っていたのだろうかと。
魔女とのやり取りは、昨日の出来事のように思い出せる。でも、眠っていた時間は分からない。昨日の今日、目覚めた気持ちで三年謳歌する気持ちでいたけれど、スミレくんの話を聞く限りそれなりに時が経っている気がする。
この違和感に気づいたのはどうやら私だけではなく、隣を歩いていたスミレくんもぴたりと足を止めた。
「カランちゃん、自分がいつ起きたか分かる?」
その声は、静まり返ったこの空間に溶け込むように響いた。
「昨日、だけど……」
拭えない違和感を感じながら、絞り出した声はあまりにも小さくて。それでもしっかり拾ったスミレくんは、顎に手を当てながら目を伏せた。
食堂の机はヒンヤリとしていて、カチコチと秒針が刻む音だけが屋敷の時を動かしている。私の鼓動と重なる音、けれどそれ以外は動かない時計自体は眠っていた私自身のようだった。
「……とりあえず温かいものでも飲もっか。カランちゃん、氷をお願いしてもいいかな」
「う、うん」
黙りこくってしまったからか、変に気遣われてしまった気がする。へにゃりと笑うスミレくんに、真似っ子しながら笑い返せば手の中で眠るしらたまちゃんが小さく寝返りを打った。
「それじゃあ俺が溶かしてあっためるね。……お湯にすることしか出来ないけど」
「私、白湯好きだから嬉しいよ。ありがとう」
花が描かれた可愛らしいマグカップを棚から取り出し、手をかざした。手のひらから生み出される氷は、星のように綺麗でカラカラと音を立てて落ちていく。
「みゃ」
いつの間にか起きていたしらたまちゃんは、ふよふよと浮きながらマグカップを覗き込む。
「危ないよ。えっとー、しらたまちゃん? くん?」
「しらたまちゃん」
「女の子なんだ」
さぁ、わかんないけど。
可愛いから多分女の子だと思うと付け足せば、君の基準は怪しいからなぁと肩をすくめるスミレくん。マグカップを持っては、指先に紫の炎を浮かばせそっと氷を溶かしていく。
ゆるやかに水が氷の表面を覆って、炎がそれを照らす。妖しく美しい時の流れに、つい息を飲んでしまった。まだ、しらたまちゃんにスミレくんを紹介していないのに。見惚れてる場合じゃない。
「しらたまちゃん、しらたまちゃん」
「んみゃ?」
「今隣で炎を操っている彼はスミレくん。水の国の隣国、炎の国出身なんだよ。小さい頃、虐められてたスミレくんを助けてあげたのがきっかげて、今でもたまに会うくらいには仲良くしてもらってるの」
実質、第二のお兄ちゃん的存在。
リグレットメッセージに書いたように、気づいたら私の回収屋さんになるくらいには逞しく成長していたスミレくんだけど最初は泣き虫な男の子だった。
あの頃は可愛かったな〜なんて、しらたまちゃんを撫でれば「それだけ?」と不貞腐れた声が落ちた。
「あれ、他に何かあったっけ」
首を傾げる私に、眉を下げたスミレくんはマグカップを私の方に置いて、気まずそうに口を開いては閉じる。
紡がれる言葉を待つように顔を上げれば、パチリと視線が絡まって。吸い込まれてしまいそうな程に澄んだアメジストの眼は、宝石のように煌めいた。
「――俺は、君の婚約者のひとりだよ」
ふーっとマグカップを冷ましていた息が止まった。ふよふよと湯気が私の頬を撫で、耳を掠める。
言われた内容が衝撃的過ぎて、硬直する私を置いてスミレくんはここぞとばかりに言葉を続けた。
「二年、君に会えなかった。二年も君を、俺は探してたんだ」
「は、はい……」
「なのに、ここに向かっている途中拾った瓶には、カラン島にいますなんて楽しそうに書いてある手紙が入ってるし」
苦しい、淡々と言われる言葉に罪悪感が募ってくる。でもすごい、あのリグレットメッセージ届いたんだ。今思えば、届かないで欲しかった気もするけど。ここに来る道中にたまたま拾ったのかな。
えへへと誤魔化すように笑ってから、逃げるようにお湯を飲む。
「探してたのは、俺だけじゃないけど。それでも、すごく心配したんだよ」
「ひゃい」
「無事でよかった。本当に」
大きな手が、優しく私の髪を掬う。はらりと指の間を落ちていく束は、惜しむように光を纏ってゆっくりと垂れていく。
細められた目は愛おしそうに私を映して、そのまま閉じ込めるようにぎゅっと瞼を閉じた。
「スミレくん」
潤む彼の瞳は、今にでも泣いてしまいそうで。
宥めるように彼の名前を呼べば、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ごめん、かっこつかないなこんなの。でも今だけは、こうしててもいい……?」
話しているうちに、私がここにいる実感が湧いてきてしまったのか、スミレくんは小さくそう呟いて手を伸ばした。
返事をするのも野暮な気がして、代わりにマグカップを置けば、ふわりとリネンの香りが私を包んだ。背中に回る手は、胸に私を仕舞い込むように強く。私の存在を確かめるようだった。
「大丈夫、大丈夫だよ。もう一人で、どこにも行かないから」
その場しのぎの言葉だとしても、安心して欲しかった。けど、それが約束できないことをきっとスミレくんは察したのだろう。ココア色の髪が耳をくすぐって、熱い息が首にかかった。重なる鼓動がどちらのものか分からない。腰に回る腕が強くて、もうつま先立ち状態だった。
流石にこの状態が続くのは、色んな意味でまずい。なんとか手をスミレくんの背中に回してポンポンと叩くが、無反応。仕方がないからさすってみれば「ふはっ」と笑い声が耳元で零れた。
「ごめん。くすぐったかった?」
「ううん、ただ嬉しくてさ」
ゆっくりと私たちの間に隙間が生まれる。元気が出たならよかった。安堵して肩を下ろせば、こつんとおでこがくっついた。
「もし、またいなくなっても。俺が一番に、カランちゃんを見つけるからね」
もうマブカップからは湯気は経っていないのに、スミレくんの背中に回した手は、ずっと熱いままで。これがお湯の温もりなのか、はたまた別のものなのか分からないけれど。
穏やかな笑みを浮かべるスミレくんとは反対に、私の心臓は嵐のように荒れていた。
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