第17話 泥底の宿屋
アルトは手のひらに鉄貨5枚を強く握りしめ、トビーに教えられた宿屋へと向かった。
宿屋は泥底の建物の中でも、より一段と老朽化していた。建物の壁は何度も塗り直された跡がありながらも、至るところで漆喰が剥がれ落ち、露出した木材は黒ずんで腐食し始めている。窓ガラスはほとんどが割れて木板で塞がれており、唯一残った窓も煤と埃で濁り、内部の光を全く通していなかった。全体から湿気とカビが入り混じったような、陰鬱な匂いが漂っている。
アルトは一瞬不安に駆られたが、意を決して扉に手をかけた。扉は木材が反り、蝶番が錆びきっているのか、開くと『ガタガタ』と不協和音を立てた。扉をあけると、すぐ目の前にカウンターがあった。
カウンターの向こうには、大柄な体躯を持ち、体中に入れ墨が入った屈強な男が、木製の椅子にどっしりと座っている。男の額には、【蜘蛛】の入れ墨、濃く彫られていた。
男はアルトを見ると、その冷たい、鋭い眼光で睨みつけ、威圧的に一言だけ発した。
「金はあるのか」
アルトは一瞬体が硬直したが、震える手を抑え、握っていた鉄貨5枚を見せた。
男は鉄貨を一瞥し、カウンターの端を指差した。
「まず、その金をおけ。そして、横のシャワー室で体を洗浄しろ。そこにこの宿屋のルールが貼っているのでよく読め。ルールを守れないヤツは、二度とこの宿屋を使わせない」
アルトは男の迫力に怯えながら、カウンターにお金を置き、言われた通り横のシャワー室へ入った。
シャワー室の壁には、宿主の言った通り、汚れた紙に殴り書きされた厳格なルールが張り付いていた。【体は丁寧に洗浄しろ】【服も全て洗浄し、ベランダに干せ】【宿服は朝に必ず洗浄して、ベランダに干せ】【会話はするな】【盗みはするな】【チェックアウトは7時、1分でも過ぎれば鉄貨5枚の罰則金を支払え】【1つでもここのルールを破ると、二度とこの宿屋を使わせない】。
アルトは張り紙を読み終えると、身を震わせながら、冷たい冷水で体中の汗と埃を綺麗に洗い流した。次に、手提げ袋に入れていたゴミ山の汚れが染みついた自分の服を必死に洗い、宿屋から渡された清潔だが粗末な布地の宿服に着替えた。
体と服の洗浄を終えると、アルトはカウンターの奥にある重たい扉を開いた。扉の奥は大部屋だった。
約二十畳ほどの空間に、二十人ほどの男性が、隙間なく体を寄せ合って横になっていた。会話はなく、かすかな寝息と、熱気と体臭が混じり合った重い空気が満ちている。アルトは、目を凝らしながら男性たちの体を踏まないように気をつけ、部屋の奥にある小さなベランダへ出て服を干した。部屋に戻ると、アルトは壁際の一角に、他の男性の体になるべく触れないよう、小さく身を寄せて横になった。
ここは、王都の煌びやかな光が届かない、泥底の現実そのものだった。
泥底の宿屋の朝は早かった。
チェックアウトの時刻は午前7時と厳格に定められており、それまでに外に干した自分の服に着替え、宿服を洗濯し、再びベランダに干し終えなければならない。そのため、大部屋て雑魚寝していた宿泊客たちは、誰も遅れるまいと午前6時には一斉に目を覚ましていた。アルトも、周囲がバタバタと動き出す音で目を覚ました。シャワー室の前には、宿服の洗濯を待つ男たちの列ができていた。アルトも急いで自分の服に着替え、列の最後尾に並ぶ。午前6時45分。やっとアルトの順番が回ってきた。彼は冷水で急いで宿服を洗い、ベランダへ駆け出して干した。部屋に戻り、カウンターへ向かう途中で壁の時計に目をやると、時刻は午前6時58分を示している。
アルトは必死の形相でカウンターに駆け込んだ。なんとかチェックアウトギリギリで間に合ったことに安堵する。カウンターの屈強な男は、アルトの慌てた様子を一瞥した。
「ほれ、これを持っていけ」
男はカウンターの上に置いてある大皿におにぎりが1個だけ残っているのを指差した。
「こ、これ、貰ってもよいのですか……?」
アルトは目の前のいかつい顔と、額に刻まれた蜘蛛の入れ墨の威圧的な雰囲気に呑まれながらもおそるおそる尋ねた。
「サービスだ。今日も一日頑張れよ」
それは、ドスの聞いた威圧的な低い声だが、アルトにはなぜか心に温かいものを感じた。この宿主もまた、泥底のルールに従って冷酷に振る舞っているだけで、わずかながら人情を持ち合わせているのかもしれない。アルトはおにぎりを掴んで、「ありがとうございます」と頭を下げたて宿屋を出た。
アルトは宿主の小さな優しさを胸に抱き、おにぎりを食べながら、トビーとの約束の場所である職業案内所へと向かった。
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