第5話
(……ねむれない)
横になって目を閉じるけど、全く眠れない。
色んなことが頭に浮かんで来る。
父が死ぬことを考えたことがあるか、という
そもそも何故周瑜にあんなに腹が立ったのかということ。
周瑜の笛のこと。
机の上の花瓶に、花の代わりに挿した周瑜の笛が目に入る。
むくり、と孫策は身を起こした。
寝台から抜け出し、笛を取ってみる。
色付けはされていないが、笛の表面には綺麗な文様まで刻まれていた。
(凝り性なんだよなあ)
それにやはり、器用だ。
職人みたいに美しく花の模様と線が入っている。
(あいつ彫り師にもなれんじゃねえのかな)
……そうなのだ。
周瑜が何をやらせても優秀にこなすなど、とうに分かり切ったことだったはずだ。
今に始まったことじゃない。
孫策が今の所確実に周瑜より出来ると自信が持てるのは、釣りくらいだ。
剣術も時々は勝つが、時々は負けた。
力比べでは勝てる。しかし体術は周瑜の方が極めている。
不用意に近づくと力では孫策が勝るのに、肩口でも腕でも胸倉でも掴まれて、投げ飛ばされることがある。
でも、不思議と悔しくなかった。
いや勿論、負ければ悔しい。
それでも心のどこかで「こいつには敵わない」と孫策は思ったことがなかった。
なにか、こうやっていつも遣り合っていれば、いつか対等に遣り合えるようになれるんじゃないかと、そんな風に思う。
根拠はない。
だが一番最初は圧倒された。
圧倒されていたそれが、組み合うのを重ねるうちに、少しずつだが前よりも組み合えるようになって来たのを感じるからだ。
例えば体術にしても、どこをどうすれば周瑜に投げ飛ばされる隙を与えるのか、段々と分かって来る。
そうしないように修正すると、一瞬、周瑜との差は縮まるが、そのうちに周瑜が今度は対策を立てて来て、また別の突破口を見つけて来る。
孫策は周瑜の攻撃に慣れ、また対策を立てる。
そんな風にしているうちに、ある日修錬で周瑜以外の人間と遣り合った時に、驚くほど立ち合いがやりやすく、今までより簡単に勝つことが出来た。
日々手強い人間と組み合っているからなのだと理解して、周瑜と遣り合える自分は、なかなか悪くないと思うようになった。きっと周瑜だって、自分が手強いと思っているはずだと、彼の表情や気配から感じる。
周瑜と競うことは、何もかもが実りになる。
勿論、万能に才能を発揮する周瑜には、全く太刀打ち出来ないものも孫策はある。
それでも全てを競いたいとは思わなかったから、別にそれは、嫉妬したりはしなかった。
(不思議だ)
周瑜に嫉妬したのは、初めてのことだった。
だから戸惑っているのだ。
優秀な周瑜が父親といたら、たった一日で孫策が周瑜に心を開いたように、父親もまた、周瑜の非凡さに気づいてしまうだろう。
そうしたら父親は何をするにもまず、周瑜を頼るようになるのではないか……そんな風に考えたから?
(あれ? ……いま、なんか、)
一瞬何かが変だった。
何か違和感を感じた。
「あー……くそ……っ! 今なんか分かりそうだったのに!」
また何かが霧散してしまった。
孫策は夜衣のまま窓から庭に出ると、屋敷の壁を越えて、降り立った。
周家屋敷の正門に近づくと、篝火の中、二人の衛兵が一瞬何奴、という感じで身構えたが、孫策の姿に息をつく。
「孫策さま、このような夜更けに……」
「シーッ!」
孫策が顔の前で人差し指を立てると、あまりに必死の孫策の顔に、衛兵は思わず口を手で押さえた。
孫策がこくこくと頷いて見せる。
頷きながら、そろりそろりと門の中に入って行く。
衛兵は孫策の不審な姿を呆気に取られたように見ていた。
彼はガサガサ……と庭先を過りながら、去って行く。
「……あの方は」
ようやく口を閉ざしていた衛兵が顔を見合わせながら言葉を発した。
「…………こんな時間に何をしに来られたんだ……?」
「さぁ……」
彼らにはよく、分からなかった。
◇ ◇ ◇
庭を通って行くと、昼間見た同じ場所で、周瑜がまだ笛を削っていた。
今日は月の光が強いから、灯かりもいらないのだ。
青白い景色の中で、無心に削っているらしい。
一瞬、まさかあいつ今の今までずっと削ってたんじゃないだろうなと思ったが、よく見ると昼間と着ている衣が違う。
今は夜衣だ。
シャリ、シャリ、と白い百合の側で、慎重に笛を削っている。
少しの狂いもないように、時々月の光に翳しながら、そうしている周瑜の姿を見ながら、孫策は段々と心のざわめきが収まって行くのを感じた。
ざわめきというのは――何故、父と周瑜が共に旅立ったと聞いた時、あれほど腹が立ったのか、ということである。
答えがすぐそこにある気がした。
(こいつは、元々才能のある奴だけど)
その才能に奢っているだけじゃない。
周瑜にはそれよりも根本的な、努力する才能があった。
物事に没頭する力もだ。
人の見えない所で、きっと周瑜は同年代の子供の何倍も色んなことを考えて、何倍も集中して、何倍も努力しているのだ。
初めて会った時も、夜、周瑜はこうして独りで庭にいた。
あの時は芍薬の花を植え替えていたのだ。
朝まで待てばいいのを、思い立ったからと、夜に一人で植え替えていた。
幾度か、月に笛を翳していた周瑜が、ふと、庭先に立つ孫策に気づいた。
孫策の視界の中で、周瑜が静かに微笑む。
周瑜のその笑みを見た瞬間、孫策の心はこの静かな月の光のように、ざわめきが完全に収まったのだった。
◇ ◇ ◇
周瑜は立ち上がって、木くずの落ちた衣の、腿の辺りを軽く払うと、こちらにゆっくり歩いて来た。
「なんだか昼間、同じ景色を見た気がするけど。私の気のせいか?」
「……いや。ちがう」
周瑜は微笑んだが、孫策が笑わなかったので、やがて彼は笑みを収めて小さく息をついた。
「こんな夜中に、どうした。伯符」
「お前こそ、何してるんだよ」
「寝れなかったから笛を削ってた。この作業は無心になれるんだよ」
「……」
「で? 君はなんだ」
「うん……」
「私に何か、言いたいことがあるんじゃないのか」
周瑜の顔を見る。
やはり彼はあの静かな夜色の瞳で、孫策を見つめて来ていた。
「……あるよ」
周瑜は腰に挟んでいた鞘に小刀を収め、笛を手に持ったまま、腕を組む。
「では、聞こう」
「…………お前の笛、捨てたの俺なんだ! ごめん!」
組んだばかりの腕を外し、周瑜はさすがに目を見開いた。
「捨てた?」
「捨てた……」
「どこに」
「あの……遠乗りでいつも行く、崖の下の、川のとこに……」
周瑜は脳内で場所を確認するような間を作ってから、厳しい表情になった。
それはそうだ。
怒って当然である。
「――訳を聞かせてくれ」
「訳……、訳は――……」
「君は訳もなく、私の大切な笛を棄てたのか。違うだろう」
孫策は慌てて頷いた。
「三週間前お前が、親父と
「その腹いせ?」
そんなことで? という色が周瑜の声に響く。
「そんなことで、君は私の、死んだ母親の形見を棄てたのか?」
またずしり、と胸に来る。
「い、言い訳はしたくないけど! でも言わせてもらうと、あれが別に、お前の母親の形見と知ってて捨てたんじゃない! 大切なものだとは思ったけど……」
周瑜の夜色の瞳はまだ、厳しく孫策を見据えている。
「では、あれが私の母の形見だと知っていたら、君は捨てなかったのか」
「捨てなかったよ!」
「本当に?」
「う……、捨てなかった、はずだ……」
「本当に言い切れるか?」
「捨てなかったと……信じたい」
「……自分が腹立ったなら、帰って来た私に堂々と文句を言えばいいことだ。
それを、人の留守中に大切なものを勝手に捨てるなどということを勢いの感情でやってしまうような人間なら、他の大切なものだろうと母の形見だろうと、そんな律儀な区別がつくとは思えないが」
「か、形見には手は出さない! だって……、自分がそうされたと思ったら…………すげぇ、傷つくだろ……」
「……。」
「本当に、ちょっとお前を困らせてやりたいっていうか、悲しませてやりたいというか、そういう気持ちで」
「……なら、君の企みは見事に成功したというわけだな」
孫策は周瑜の顔を見る。
「確かに悲しいよ」
一瞬、斬り付けて来そうな厳しい表情をしていた周瑜の瞳が揺れた。
それを見た孫策は、ずきりと胸が痛んだ。
「……。実は君が私の笛を、隠したんだと思ったんだ。昼間会って……」
「隠した?」
「昼間に母のことを言っただろ。君が怒っているのは、ここに帰って来た時にもう分かったし、自分なりに考えて、私が孫堅さまの供をして君が出来なかったことを、君が怒っているのだろうということも、分かった。
でもあのことは私が、伯符より私を連れてって欲しいと願ったことじゃない。
孫堅さまが許して下さったことなんだ。諸将の顔が一堂に見れる機会は滅多にない。
勿論、私自身も見てみたかったよ。でも、君がいつか軍を持った時に、諸将の顔を知ってる人間がいるというのは悪いことではないはず。
私は舒に戻って来るあの瞬間まで、自分が君に恨まれてるなんて微塵も考えていなかった」
「……公瑾」
「なのに君は、私が不在だった二週間、ずっと私を怒って、恨んで、大切な笛も投げ捨ててしまったんだな」
「……、」
捨てたかったわけじゃない。
そう喉から言葉が出かけて、なんて身勝手な言い訳だと思い、飲み込んだ。
これ以上変なことを言って、これ以上周瑜に嫌われたくないと思った。
孫策が押し黙ったので、周瑜は額を押さえる。
「……少し分からないんだが」
「……。」
「この一週間、顔を出さなかったのは何故だ?
君は文句があるなら、すぐに言って来るはずでは?
来なかったということは、自分でも何か、自分の行いに思うことがあったんだろう」
「……笛を、捨てたから。それで、……どうやって謝ろうかと」
笛のことはずっと忘れていたが、そんな風に言葉が出た。
周瑜の前で嘘を付くと、どうしてこんなに憂鬱になるんだろう。
母親に詰問されたり、弟妹達の前では嘘をついたって、程度にもよるけど、罪悪感などあまり無かった。
「……。私は、君が笛を隠したと思ってたんだよ。だから昼間、母親の笛だと君に言ったんだ。
そういえば……君の性格を思えば、きっとどんなに私に腹を立てていたって、返してくれると思ったから。でも君は、無断で捨ててしまったんだな」
「……公瑾……ごめん」
「どうしてそんな酷いことが出来るんだ?」
周瑜は真っ直ぐ、尋ねて来る。
怒って詰問するというよりもそれは、本当に心の底から理解出来ないと、説明を求めるような声だった。
「君はそんな人じゃないだろう」
孫策は顔を上げる。
「誰かに怒っても、そんな陰湿なやり方で復讐したりしないはずだ。君は。
例え理不尽でも、直接真っ直ぐ私に言って来て、文句を言うなり殴って来るなりする。
どうして今回だけ、こんなことを?」
「す、するつもりはなかったって何度も……」
「でもしたじゃないか」
「……、」
「孫策。別に、理由が本当に無いならそれでいい。君も時には陰湿なことをする人だと、私はこれからそう思うようになるだけだ。
でも何か言ってない理由があるなら、言って欲しい。
そうじゃないなら、私は君との友情は考え直す。
本当の友情は考え直したりするものじゃないとは思うけど、でも、本当の友情は、考え直したりすることも出来ない、そういうものでもないと思う。
何度考えなおしても、やはりこの人とは真の友だと思える人と友情は結びたい」
孫策はこれには、頷いた。
「それは、君にも分かるだろ」
もう一度頷く。
だが押し黙っている孫策に、周瑜は深く息をついた。
「……もういいよ。捨ててしまったなら、もうどうしようもない。笛は諦めるからいい」
周瑜は背を向け、歩き出した。
「取られる、って思ったんだよ!」
突然、静かな庭に、大声が響いた。
周瑜が振り返る。
「親父がお前を連れて行ったって聞いて……そういうの、初めてだっただろ。
一緒に釣りとかには連れて行って貰ったことあるけど、遠駆けとかも……けど、二週間もずっとお前と親父が二人だけっていうことは無かったから」
「……別に二人きりだったわけではないぞ。
「お前は優秀だから!」
孫策はまだ釈然としないながらも、とにかく何かを喋らなければと思った。
このままだと本当に周瑜の心を失うと、そう感じたからだ。
「お前は、何もかも、俺より優秀だから!
剣も、体術も出来る。足も速いし、勉強もできる。
利発で、俺みたいに短気じゃない。
我慢強いし、笛も吹ける。礼儀正しいし、顔もいい」
「……
周瑜は眉を潜めた。
「親父が俺よりお前の方を、好きになっちまうと思ったんだよ!」
周瑜は驚いた顔をした。
予想もしていなかったことを言われた顔だ。
それから、彼の表情は非常に複雑に感情が揺れた。
一瞬、唇が綻び、笑うのかと思ったのに、凍り付き――感情が、顔から波が退くように消えた。
部屋に戻ろうとしていた、壁に掛けた手を下ろし、周瑜は孫策を振り返った。
「嫉妬ということか?」
「……そ、そうとも言うかもな。……笑うなよ! 分かってんだ!
すげえ下らない、ガキみてえなことだって!
これじゃ、いつも親父に飛びついて遊びたい遊びたいって言ってる権や黎と何にも変わらねえって……すげえ、この三週間……自分が情けなくなって……、
別にそんな、四六時中親父にべったりくっつきたいわけじゃないんだぞ⁉
けど、……親父が俺よりお前を気に入ったら、俺は……。
……分かってる! 馬鹿なことしたよ! ホント悪かった!」
「――いえ!」
孫策は渾身の力で周瑜の前に頭を下げたが、周瑜はそれを遮った。
「顔を上げて下さい。
え? と孫策は敬語で言われて、恐る恐る顔を上げた。
周瑜はもう険しい顔はしていなかった。
じっと、あの静かな夜色の瞳で、自分を見ている。
「……私は、君が怒ったのは、君が出来なかった経験を、私だけがしたからだと思ってた。
だから君が子供という立場で、他所の子を評価したり、可愛がる父親に対して、寂しがったり嫌な気持ちになるということは、一切考えてなかった。……全く思いつかなかった」
寂しがったりと言われ、孫策は赤面した。
だが、周瑜は別に孫策をからかって口にしたのではない。
彼の顔はひたすら真剣だった。
それどことか周瑜は突然、孫策の前に深く頭を下げた。
「ごめん、孫策」
「え……、」
孫策は戸惑う。これは自分が勝手に機嫌を損ねて周瑜に八つ当たりをかまし、大切な形見の笛まで捨てたのだ。
周瑜は父親に呼ばれて供をしたのだ。何も非はない。
周瑜は謝ることなど、何一つないのだ。
「私が、考え無しに変なことをしたから。
……でも……そうだね。
自分の父親が、自分にまだ教えてくれていないことを、他所の家の子に先に教えてやったり、一緒にやったりしたら、それはきっとすごく悔しくて、寂しいことだ」
ごめん。
もう一度周瑜は孫策に謝った。
「もう二度と、そういうことはしない」
「……いや、別におれ、お前に謝って貰いたいわけじゃ……それに今回のことは、親父が言ったんだし、それに、うろついて狩りなんかしてた俺だって、悪かったんだし……」
謝られて、戸惑いばかりだ。
助かったとか、良かったとか、そんな安堵感は何もない。
「……私はやっぱり……どうもそういう、父親とか、母親とか、…………そういうものに対する、人の繊細な感情を、察してあげることが出来ないみたいだ……」
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