マーちゃんの決断
@asobukodomono
第1話 マーちゃんに起こったこと
瀬戸内海に注ぐ大鷺川の川べりから、のんびり歩いて十分の距離にある天ぷら屋、真庵は、テイクアウトを専門とする天ぷら屋だった。十年前までは座敷でも天ぷらを提供していたのだが、店を切り盛りするのがマーちゃん一人になったので、店内での飲食は取りやめた。
マーちゃんは今年で八十歳だった。マーちゃんというのは、もちろん通称で、本名を天野真美という。週六日間、天ぷらを揚げて、月曜日だけ店を閉めた。誰かがマーちゃんに「どうしてそんなに働くのですか」と尋ねたところ、「休んでも暇なだけだしね。天ぷらを揚げるのは、ネタの具合やら気候やらで水の割合とか変えなきゃいけないんだけど、そういったことを工夫するのが面白いんだよ」と答えたという。
働き者のマーちゃんだが、グランドゴルフという趣味もあった。五〇歳から始めた。週一回、欠かさず続けていた。
「お父ちゃんはもうできないから、その分もやっておこうと思うんだ。そうして上達ぶりを、今度、会ったときに自慢してやるんだよ」
嬉しそうに語った。
マーちゃんの夫は十年前に亡くなっていた。二人は高校の同級生だった。三十歳の時に夫がサラリーマンを辞めて二人で天ぷら屋を始めた。それ以来、亡くなる日まで毎日ずっと一緒に過ごしていた。マーちゃんが言うには、当時、学校のマドンナ(今で言うアイドル)だったマーちゃんに言い寄る男たちの中で、一番、お父ちゃん(夫のこと)がしょぼくれていたので彼氏に選んだのだそうだ。だから、一番自分のことを大切にしてくれるだろう、と思ったのだ。そして、その判断は正しかった。
実際、マーちゃんは可愛らしかった。くりんとした両目は二重瞼が愛らしく、その笑顔は今なお周りの人たちの気持ちを明るくさせた。もちろん、目尻のシワは、もう無数に刻まれているし、顔の輪郭も随分とふくよかになっていた。肩のあたりも丸くなっている。だが、今も背筋は真っ直ぐとしていて品があるし、何より、たくさんの火傷の跡を残してなお、きちんと手入れのされたその両手のみずみずしさは、マーちゃんの内面の可愛らしさを表していた。
マーちゃんには子どもがいなかった。子どもは欲しかったのだが、できなかった。もっとも、それならそれも神様の思し召しで、夫と二人で楽しく生きていこう、としか考えなかった。それに、天ぷら屋の仕事が忙しく、悩んだりする暇もなかった。
お客さんと話をするのが好きだった。座敷で食事を出していた頃は当然だし、テイクアウト専門になっても、代金を受け取り、品物を渡す合間には、必ずお客さんと挨拶以上の言葉を交わした。特に、お使いに来た子どもたちとは、よく話した。子どもたちにとって、大人から真剣に話を聞いてもらえることは少なかったので、近所の子どもたちにとってマーちゃんは格好の話し相手だった。平成の頃には、夕方の営業時間前に勝手口から、それこそ勝手に入ってきて話をする子どもたちもいた。今、真庵に天ぷらを買いに来る大人たちの中には、幼い頃、マーちゃんに熱心に話を聞いてもらっていた大人たちも、少なくなかった。
マーちゃんは、ずっと病知らずだった。ところが、二週間前に思っても見なかったことが起こった。コロナのワクチンを注射するために訪れた病院で、内診に当たった医者が、首を傾げて大学病院を紹介したのだ。そして、一日中かかって面倒な検査を済ませた後、三日前に、マーちゃんは、肺ガンのステージⅡa、という告知を受けたのだった。
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