聖水の恐怖と聖女の儀式



模擬戦を「圧倒的な力」という誤解で乗り切ったゼノス(ヴァルザーク)は、一息つく間もなく、新たな試練を言い渡された。

「ゼノス勇者。明日、他の五人の勇者と共に、教会の『聖女の祝福儀式』に参加していただきます」

ギルドの職員が、笑顔で告げる。ゼノスの顔は、能面のように固まった。

(聖女?祝福?儀式?…最悪だ。そんなもの、魔王にとって拷問以外の何物でもない!)

ゼノスはすぐさま情報を整理した。


• 儀式の目的: 勇者の紋章に聖水をかけ、聖なる力をチャージする。



・彼の紋章は、手の甲に描いたただの魔力による落書きだ。聖水などかければ、一瞬で溶けて消えるだろう。


・魔族である彼にとって、聖水は毒だ。肌に触れれば激しい苦痛とともに、体内に潜む強大な魔力が暴走し、その存在そのものが魔王だと露見してしまう!


「この儀式だけは参加できない理由を作らねば…!風邪?いや、勇者が風邪では疑われる。急な討伐?いや、王都を出る口実が難しい…!」


ゼノスは心の中で必死に言い訳を考えたが、職員は念を押すように続けた。


「儀式は王様の名により絶対参加でございます。六人揃っての儀式は数年ぶりで、教会も心待ちにしておりますので、遅刻なきよう」


(絶対参加だと!?逃げ場、なし!!)


翌朝。ゼノスは、まるで処刑台へ向かう罪人のような重い足取りで、王都の中心にある大聖堂へと向かっていた。


(仕方ない。魔力で全身を何重にも覆うしかない。皮膚一枚に極限まで魔力を集中させ、聖水が一滴も皮膚に触れないようにガードする。そして、紋章の落書きは…その場で一瞬だけ魔力を強めて維持し、聖水が乾いた瞬間に落書きを再描画するしかない!)


しかし、この策は極めて危険だった。聖水の力は魔力を乱す。少しでも魔力が揺らげば、聖水の侵入を許すか、あるいは防御魔力が暴走して周囲を吹き飛ばしてしまう。


「…私としたことが、人間の小娘一人の儀式で、これほどまでに神経をすり減らすとは」


魔王ヴァルザークは、こんな低レベルな危機感に苛まれる自分が情けなくなり、ギリと歯を食いしばった。


大聖堂の控え室へ案内されると、既に他の五人の勇者たちが待機していた。皆、緊張と期待に満ちた顔をしている。


その部屋の奥から、一人の少女がゆっくりと歩いてきた。


彼女こそが、この儀式を司る聖女だ。純白の衣を纏い、黄金の髪は光を反射して輝いている。何よりも特筆すべきは、その清らかすぎるほどのオーラ。彼女の周囲だけ、空気が澄んでいるかのように感じられる。


(…これが、聖女。確かに、ただの人間ではない。体内に純粋な聖なる力を宿している)


ゼノスは全身の防御魔力を最大まで高め、警戒を露わにした。彼の表情は、聖水の恐怖と、聖女から発せられる清浄な力への生理的な嫌悪感から、見るからに苦しげに歪んでいた。

聖女は五人の勇者に優しく微笑みかけた後、最も異質で、そして最も苦悶の表情を浮かべているゼノスに、まっすぐ視線を向けた。

彼女の瞳は、何かを見透かすように、深く静かだった。


「…あなたが、六人目の勇者様ですね」


聖女は一歩近づき、ゼノスの苦しい顔を見て、優しく微笑んだ。


「ようこそ。その、大変な苦しみを抱えていらっしゃるご様子。…私の力で、少しでも安らぎを与えられますように」


聖女はゼノスの手の甲、例の落書き紋章の上に、そっと手をかざした。


(やめろっ!!触るな!聖なる力で魔力が乱れる!バレる!)


ゼノスの内心の悲鳴がピークに達する中、聖女の清浄な手が、彼の魔力防御の膜に、ゆっくりと触れた。


聖女の清らかな手が、ゼノス(ヴァルザーク)の右手の甲、即席の「勇者の紋章(魔王の落書き)」にかざされた。


「聖なる御加護を…!」


聖女は静かに祈りを捧げ、神聖な力を込めた聖水を一滴、ゼノスの手の甲に落とした。同時に、その手のひらから紋章へ聖なる魔力を流し込もうとする。

しかし、ゼノスの防御魔力は完璧だった。魔王たる彼にとって、聖水は猛毒であり、聖なる力は存在そのものを脅かす。聖水が皮膚に触れる直前、ゼノスは無意識のうちに体内の魔力をさらに絞り出し、防御の膜を岩盤のように強固にした。


キィィン…!


聖なる力がゼノスの防御膜に衝突するたび、極めて微細な高周波の音が鳴り響く。聖水は膜の上で弾かれ、手の甲に描かれた落書き紋章にも、聖なる魔力は一切通らない。


「おかしいわ…」


聖女は顔を曇らせた。他の五人の勇者は、一人一分もかからずに儀式が完了したのだ。紋章は聖なる光を帯び、聖水は紋章に吸い込まれるように消えていった。


だが、ゼノスに対しては、儀式が全く機能しない。


「ゼノス様、もう一度!聖なる導きよ、この勇者の紋章へ!」


聖女は諦めず、何度も何度も聖水を注ぎ、聖なる魔力を流し込もうと試みる。


一方、ゼノスの心の中は既に限界だった。

(いや、もう終わって!?他の勇者1分もかかってないじゃん!? いい加減諦めろ!このままでは、ただでさえ目立っている私が、さらに変な注目を浴びる!防御魔力を緩めれば聖水で死ぬし、強めれば聖女を吹き飛ばしてしまう!)


聖女の額には汗が滲み、呼吸も荒くなってきた。それでも彼女は諦めない。その純粋な眼差しは、ゼノスに向けられている。


「ゼノス様…。あなたは、他の勇者様とは比べ物にならないほど、深く強大な闇の力に覆われている…。私の力が、弾かれてしまう…」


聖女は、ゼノスが魔王であることに薄々気づいているわけではない。彼女は、彼の体から滲み出る強大な魔王のオーラを、「魔王が仕掛けた強烈な呪い」だと解釈したのだ。


「私は…私はあなたを見捨てません!絶対に!その苦しみから、あなたを解放します!」


聖女は涙を浮かべ、決意を込めた眼差しでゼノスを見つめながら、さらに強い聖なる力を紋章(落書き)目掛けて流し込んだ。その瞬間、ゼノスの魔力防御膜にヒビが入った。焦ったゼノスは、無意識のうちに魔王の本体の魔力をわずかに引っ張り出し、防御膜を瞬時に修復した。


その一連の激しい魔力の衝突を目の当たりにした聖女は、ショックで青ざめた。


「こ、これは…!あまりにも強大で悪質すぎる魔力…!ゼノス様!あなたは、魔王から直接、生命を蝕む呪いを受けているに違いありません!これほど強固に聖なる力を拒むなど…!早急に王様に連絡しなくてはなりません!」


聖女は顔面蒼白になり、神官たちに王への緊急連絡を命じた。


ゼノスの心の中で、本日一番の絶叫が上がった。

(「魔王からの呪い」!?変な設定増えたよ! 呪いじゃない、私が魔王本人だ!これでまた、王やギルドに『魔王の呪いを解く』という名目で、面倒なミッションを追加されるではないか!)


聖女の純粋な善意と誤解により、魔王ゼノスの偽りの勇者としての地位は、「魔王の呪いを受けている最強の勇者」という、さらに厄介なものへと上書きされてしまったのだった。


聖女の「魔王の呪い」認定により、ゼノス(ヴァルザーク)には新たな厄介事が舞い込んできた。

王は、聖女の進言を全面的に受け入れ、ゼノスに対しこう命じた。 


「勇者ゼノス!その呪いは、人類にとって最大の脅威である魔王に最も近い証拠。よって、その呪いを解き、力を制御するため、聖女をあなたの専属護衛兼、付きっきりの対策担当とする!共に冒険し、その都度、聖なる力で呪いを鎮めるのだ!」 


(いらん!!断じていらん!!)

ゼノスは心の中で絶叫した。

(そんなことされてみろ!私の命は、常に聖女の機嫌次第になるではないか!聖水で皮膚を焼かれ、聖なる力で魔力が乱され、いずれは魔王だとバレてしまう!それは監視だ!公開処刑だ!)


ゼノスは冷静さを装いながら、最大限の拒否の意思を王に伝えようとした。 


「王よ。聖女殿は、王都の教会で多くの民を癒す重要な職務があるはず。一介の冒険者に付きっきりでは、王国の損失となります。どうか、他の方法を…」


しかし、そのゼノスの言葉を遮ったのは、付き添っていた聖女自身だった。


「いいえ、ゼノス様!」


聖女は、まっすぐな瞳でゼノスを見つめ、切実な思いを口にした。

「これは、私から王様にご要望を申し上げたことです。貴方と魔王との因縁は大きすぎる。あの呪いがどれほど悪質か、私にはわかります」


聖女は、さらに言葉を続ける。その言葉は、純粋な善意と、ゼノスの身を案じる優しさに満ちていた。


「ゼノス様。あの呪いのせいで、あなたの体は聖なる力を拒んでいます。それは、あなたの命の源たる力を蝕んでいる証拠。このままでは、長く生きられないかもしれないのです。私たち人間にとって、その強大すぎる力は毒なのです!」


聖女は、ゼノスが人間でありながら魔王級の力を持つが故に、その力が体内で暴走し、命を縮めているのだと本気で信じていた。

その切実な言葉を聞いたゼノスの心臓が、再び激しく波打った。


(俺にとっては聖水が毒なんだよ!?当たり前だろうが! 私の命を縮めているのは、貴様が毎日浴びせようとしている聖なる力の方だ!私が人間じゃないから、聖なる力が毒になるんだ!何を勝手に心配しているんだ!)


魔王は、己の生存に関わる危機に対し、相手の善意の言葉に遮られ、反論もできず、ただただ心の中で怒鳴り散らすことしかできなかった。


「…頼みます、ゼノス様。貴方の命と力を守らせてください」


聖女の言葉に、王は深く頷いた。

「うむ!六人目の勇者ゼノスと、聖女による共同の旅。これほど心強いものはない!決まりだ!」 


こうして、魔王ヴァルザークは、自らの命を狙う存在である聖女を、最も近くに置くことを強制されてしまうのだった。魔王の、史上最も危険で滑稽な冒険が、いよいよ本格的に幕を開ける。


勇者ゼノスと聖女が王都を発ち、最初のミッションへ向かった夜。王国の最高位の者だけが集まる王の私室では、国王が頭を抱えていた。


「…一体、あの六人目の勇者は、どこから現れたのだ?」


王の問いに、側近たちが顔を見合わせた。


「王よ、聖女様は『魔王の因縁深き呪いを受けた勇者』と申されておりますが…」


「呪いはよい!問題は、私が六人目の勇者を手配していないことだ!」


国王は立ち上がり、イライラを隠せない様子で室内を歩き回った。


「五人の勇者は、我々が厳重な管理のもと、異世界から召喚した。儀式の魔力も、人数も、全て記録してある。五人だ。それなのに、あのゼノスという男は、まるで最初からそこにいるべき存在のように、突如として現れた」


宰相が、恭しく口を開いた。

「紋章については、他の勇者と比べ、確かに異質でした。あの瞳の紋章…あれが、その『呪い』による特異な変化なのでしょうか?」


「いや、違う」王は首を横に振った。

「紋章ではない。あの男の力だ。他の五人の勇者たちも強い。しかし、彼らの力は、我々人間が理解できる範疇にある。だが、ゼノスは…まるで、次元が違う。模擬戦で勇者カイトを吹き飛ばしたあの衝撃波は、もはや天災だ。騎士団長が言っていた通り、『魔王』のように、存在そのものが脅威なのだ」


王の心には、ある種の不安が渦巻いていた。

「もしや、どこかの強大な隣国が、我々に対抗して独自の勇者を密かに召喚したのではないか?しかし、あの力を持つ者を、なぜ今まで隠していた?」


一人の廷臣が、おずおおずと進言した。

「ま、まさか…魔王本人が、我々を欺くために…」


王はそれを一蹴した。

「馬鹿を申すな!いくらなんでも、魔王が自ら、最も危険な勇者たちの中心に飛び込むなど、愚策の極みだ。それに、聖女が付きっきりでいる。魔族なら、聖女の傍で一日と生きていられまい!あのゼノスは、聖女の側にいながら、顔は苦しげとはいえ、立っていられるのだぞ?」


(もちろん、ゼノスは全身の防御魔力を最大にして、必死に耐えているのだが、王はその事実を知る由もない。)


王は深く息を吐き、玉座に座り直した。

「結論は変わらぬ。あの男は、我々が知らぬ間に現れた、規格外の第六の勇者だ。そして、彼は魔王討伐の最大の切り札となるだろう。…しかし、その出自が判明するまで、警戒を怠るな。あの男は、あまりにも予測不能すぎる」


こうして、国王は「ゼノスはどこから来たのか」という謎に頭を悩ませながらも、その規格外の力を利用することを決意。魔王ヴァルザークの潜入は、人間の王国の最高権力者にさえ「手配外の切り札」として認識されるという、最悪の成功を収めてしまったのだった。

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