第3話 屈辱の朝

妖霧は目を覚ました――汚い天井が目に入る。それに綿の抜けたベッドの裏側も見える。


「ここは?」

起き上がると、足関節と首回りがまだ痛むのが分かった。

長いこと悪夢をみていた気がする……埃まみれの空気を吸い込み、妖霧はため息をついた。


「ここは布袋エリア、沼乃探偵事務所ッス」


冷静沈着な、少女の声がすぐ隣からした。

そちらを向くと、褐色肌に銀髪という少女がこちらを見ていた。


「探偵……事務所?」



その少女は、小さく笑った。


「わたしはフレイヤ・ホットバード。一応あかり所長の、助手みたいなポジションっす」


「……そりゃまた、ご丁寧にどうも」


「一応説明すると……あんたは所長の絞め技で気絶して、わたしがここまで運んできたんです。

あんた外じゃ随分有名人みたいで……隠れて運ぶのに、一苦労でしたよ」


そんな言葉を聞いて、妖霧は血の気が引くのがわかった。

もしかしておれ、あの寝技少女に負けた……? あの世界最強と恐れられ、風の四天王も瞬殺した、この馬尾妖霧さまが?!


「確かあんた、風マナ使い最強とかですよね?

そんなあんたが、何でうちの所長なんかに?」


「あー、あー! 聞こえない聞こえない!」


屈辱で頭が真っ白になり、思わず妖霧は叫んだ。


「とにかく! おれ、帰るから!」


「帰るって……どこにです?」


「どこだっていいだろうが! とにかく、こんなクソ探偵事務所のことなんて知らんから!」


妖霧はベッドから這い出ると、さっさと部屋のドアを開いた――目の前には、あのピンク髪の少女・あかりが立っていた。

真っ青になり、冷や汗が流れるのを感じる。


「どうも。どこかにお出かけですか?」


あかりはそう言いながら、妖霧の胸に手をやりにっと笑った。


「そうそう。探偵事務所プログラムに参加するっていうサイン、まだもらってないからさ。ちゃちゃっと済ませようか?」


彼女は恐怖で固まる妖霧を、ぐいぐいと部屋に押し戻した。


「いや、その、おれ……帰ろうかなって」


「帰る場所なんてどうせないでしょ。ほら、そこに座る」


錆びた事務机の前に座らせられ、タブレット端末を投げてよこされる。


「手短に説明するね。

今この探偵事務所には、所長であるあたしと、助手のフレイヤしかいないの。

探偵事務所が、この都市の更生プログラムとして成立するには……あと二人必要なわけ。で、その二人がいないと……この探偵事務所プログラムは、廃業になっちゃうんだよ。それって、すごく困るよね?」


「そ、そうだね……」


理由はわからないが、妖霧の風魔法は一切この女に通じない。

今機嫌を損ねたら、それこそこのあかりに何されるか、わかったものではない。

骨をボキボキに折られて、肉塊にくかいになってその辺に投げ捨てられるかも……


泣く子も黙る最強の風マナ使い妖霧は、冷や汗を流しながら震える声でかろうじて返事をした。


「でもそこに、親切にもこの探偵事務所で働いてもいいなって人がいたら?

そんな人がいてくれたら、サインしてくれると助かると思わない?」


あかりはにやにやしながら、妖霧の両肩に手を置いた。

明らかにこちらを下とみて、配下に加えようとしているらしい。


「サ・イ・ン! サ・イ・ン!」


あかりによる、えげつないサインコールが響く。


「ダメ! サイン、絶対!」


妖霧は両耳をふさぎながら、全力で拒否した。


「あの……所長、そのやり方じゃダメですってば」


フレイヤという少女が、飽きれたように立ち上がった。

まさに助け船という感じだ――この娘は、だいぶ良識があるじゃないか。


「こういう時は、こうです」


フレイヤはそう言って、妖霧に向かいに座った。


「おらあああ! はよサインせんかいこら! 今度はあかり所長のむっちり太ももかにばさみで、地獄……いや天国に送ったるぞこらあああ!」


あ……ダメだ。こいつら、本当に頭がおかしい。

学園都市についたばかりの少年を拉致った挙句、無理やり探偵事務所に入れようとする、恐ろしい妖怪か何かだ。


「すみません。トイレ、行きたいんですが」


「トイレね。はい、そこのドアだよ」


「……どうも」


妖霧はせまく汚いトイレに入った瞬間、とっさに出口を探した。

人が一人抜けられるかという小さな窓に、さびた鉄格子がはまっているのがわかった。


妖霧は便座を閉めて上に登ると、鉄格子に手をかける。


「よし、ここからなら――」


「抜け出せると思った?」


突然格子の向こうから、あかりと目が合い、妖霧は悲鳴をあげた。


「残念。絶対そうくると思ったから、トイレの窓を見張ってました」


「おのれ! かくなるうえは――」


トイレのドアを開けると、妖霧はフレイヤの制止を振り切って外につながるドアを開けた。

しかしそこには、あのあかりが立ちふさがっている。


何としても、何としてもここから出てマナリーグ本部に向かわなければ!


「どけ!」


妖霧は陰の気配を使い、あかりの目の前から姿を消した。

――彼女は目をすっと細め、つぶやくように言った。


「ダメです!」


妖霧はあかりの豊満な肉体とぶつかったと思うと、そのまま左の太ももをからめとられ、その場に転がされた。

さらにあかりの非情な足関節技を食らい、妖霧は悲鳴をあげながらその場に倒れた。


「はいはい、脱出はできないっすからね。サインしましょうねー」


フレイヤは淡々とそう言いながら、目の前のドアを閉じてしまう。



「助けて! 誰か、助けてーーーー!」


妖霧の悲鳴は、ドアが閉じるとどこにも聞こえなくなった。

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