壊れた信号機
比絽斗
予期せぬ交差点
壊れた信号
高二の秋、街の喧騒はいつもと変わらない。真白(ましろ)は、週末のデートの待ち合わせ場所に向かっていた。今日は、付き合って一年になる恋人、**里奈(りな)**の誕生日プレゼントを探す日だ。里奈は、太陽のような明るさと、周りを気遣う優しさを持った、真白にとって世界の中心のような存在だった。
駅前の大きなショッピングモールの前
真白は里奈との待ち合わせより少し早く着き、待ちぼうけをしないよう、近くのカフェで里奈が好きな甘い飲み物をテイクアウトしようと足を向けた。
その時、視界の隅に見覚えのあるシルエットが飛び込んできた。
「里奈……?」
一瞬、真白の心臓が止まる。それは間違いなく里奈だった。
少し高めのヒールを履き、いつもの明るい笑顔を浮かべている。だが、その隣にいる人物に、真白の視線は釘付けになった。
真白とは違う、別の学校の制服を着た男。
里奈はその男と親密そうに腕を組み、耳元で何かを囁かれ、楽しそうに笑っている。
二人の距離は、真白と里奈が公衆の面前でいる時よりも、ずっと近い。
カフェのガラス窓越しに、二人の姿がくっきりと見えた。
里奈は、真白が贈ったものと同じ、お揃いのキーホルダーをつけたバッグを提げている。
そのバッグを、隣の男が当たり前のように持ち替える。
真白の頭の中で、全ての信号が赤に変わる。
「信じたくない」「見間違いだ」という理性が警鐘を鳴らすが、目と、体の奥底から込み上げる激しい吐き気が、それは現実だと叫んでいた。
里奈が、男の顔を見上げ、笑う。
その笑顔は、真白に向けられる「特別」なものではなく、誰にでも向けられる「ただの愛想笑い」とは決定的に違った。
そこに込められている親密さ、信頼感、そして―愛情。
真白の足は、アスファルトに溶けて張り付いたように動かない。
呼吸の仕方を忘れたように、肺が苦しくなる。彼は、自分の世界が音を立てて崩れ去るのを、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
里奈と男は、真白がいるカフェの方向へ一瞬目を向けたが、真白が動揺のあまり立ち尽くしていることに気づかず、そのままモールの賑やかな人波の中に消えていった。
真白の手から、里奈のために買ったはずのプレゼントの小さな紙袋が、音もなく滑り落ちる。
(なんで……どうして……)
真白の心臓は、激しく、不規則なリズムを打ち続けていた。
深い夜の底
その夜から、真白の日常は色を失った。
里奈からの「ごめん、体調崩したから明日のデートは延期させて」という、昼過ぎに入っていたLINE。そのメッセージの嘘が、刃物のように心臓を貫く。
真白は里奈に何も聞けなかった。問い詰めることさえできなかった。あの光景を里奈の口から聞きたくなかった。
あるいは、もし里奈が「あれは親戚だよ」「誤解だよ」と嘘をついたとして、それを信じられるほど、真白は強くなかった。
彼は部屋の隅で膝を抱え、スマホを握りしめたまま、ただひたすら里奈からの連絡を待った。
しかし、里奈からの連絡は、次のデートの予定を尋ねる事務的なものだけ。まるで、真白の心が壊れていることなど、一切知らないかのように。
翌日、真白は学校を休んだ。理由は「体調不良」。実際、体調は最悪だった。
何も食べられず、少しの音にも体がびくつく。鏡に映る自分の顔は、目の下に濃い影を宿し、まるで別人のようだった。
親友の健太(けんた)が、心配して家にやってきた。
「おい、真白。大丈夫か?里奈も心配してたぞ」
里奈の名前を聞いた瞬間、真白は抑えきれない感情に襲われた。
「健太……俺、里奈に裏切られた」
真白は、震える声で昨日見た光景を話した。健太は言葉を失い、真白の背中をただ力強く叩くことしかできなかった。
「……信じられねぇよ。里奈に限って。でも、お前が見たんだろ?真白……無理に笑うな。お前の気持ちは、俺には全部はわかんねぇ。でも、お前が今、地獄だってことだけはわかる」
健太の言葉は、真白の凍てついた心を少しだけ溶かした。
真白は決心した。このままでは、里奈の優しい嘘に殺されてしまう。
その夜、真白は里奈に一通のメッセージを送った。
真白>>里奈、話がしたい。明日、いつもの公園に来てくれないか。大事な話がある。<<
里奈からの返事は、すぐに来た。
里奈>>わかった。明日、放課後に行くね。真白、心配させてごめんね。<<
「心配させてごめん」……その言葉が、真白をさらに深く傷つけた。本当に心配しているのは、自分だけだ、と。
第3章:再生への一歩
公園のベンチ。秋の終わりを告げる冷たい風が吹いていた。
里奈は、いつものように可愛い笑顔で真白に駆け寄ってきた。
「真白、ごめんね。待った?」
真白は、里奈の顔をまっすぐ見た。あの日の裏切りの光景が、フラッシュバックする。しかし、もう目を逸らさない。
「里奈、俺たち、もう終わりにしよう」
真白の声は、驚くほど冷静で、静かだった。里奈の笑顔が、凍りつく。
「え……真白、どうしたの?急に」
「ごめん、急になんて嘘だ。俺は、もう君を信じられない」
真白は、あの日見た光景を、詳細に、淡々と里奈に伝えた。言葉を選ぶことなく、ただ現実だけを。
里奈の顔はみるみる青ざめ、やがて視線を地面に落とした。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい、真白……」
里奈の口から出たのは、言い訳ではなく、謝罪だった。その一言が、真白の心臓に残った最後の希望を、木っ端微塵に砕いた。
「謝って、どうなるんだよ」
真白の声は震え、涙が溢れそうになったが、彼は歯を食いしばって堪えた。
「俺がお前のこと、どれだけ大切に思ってたか、知ってるだろ。俺はお前が世界の全部だった。なのに、お前は……」
真白は言葉を詰まらせた。それ以上、里奈を責める言葉が出てこなかった。
ただ、胸が張り裂けそうだった。
「わかった。もういい。もう、俺に何も言わないでくれ。お前の顔を見るのも、声を聞くのも、もう無理だ」
真白はベンチから立ち上がり、里奈に背を向けた。
「待って、真白!」
里奈の悲痛な声が背中を追う。しかし、真白は一度も振り返らなかった。
彼は、里奈の背中ではなく、自分自身の心を、これ以上傷つけないことを選んだのだ。
傷を抱きしめて
別れてから数週間、真白の心は廃墟のようだった。
学校で里奈とすれ違うたびに、その場の空気が凍りつく。友人たちも、二人の間に立ち入ることはできなかった。
真白は、別れを決断したことで、里奈という「世界」を失ったが、その代わりに自分自身を取り戻し始めた。
失恋直後の地獄のような数週間を経て、真白は健太の誘いで、バスケ部の練習に顔を出すようになった。
走って、跳んで、汗を流す。肉体の疲労は、心の痛みを一時的に忘れさせてくれた。
彼は、里奈との思い出の品を、一つ残らず箱に詰めた。捨てはしない。
ただ、今は見えないところに仕舞う。
「過去の傷」として、受け止めるために。
ある日の放課後、真白は健太と帰り道を歩いていた。
「最近、少し顔色良くなったな、真白」健太が言う。
「そうか。お前のおかげだよ。ありがとう」
真白は、久しぶりに心の底から笑った気がした。
「里奈のことは……まだ、痛いか?」
健太の率直な問いに、真白は空を見上げた。
「……ああ、まだ痛い。たぶん、この傷は消えない。だけど、この傷があるから、俺はもう裏切りの痛みを知っている人間になれた。これからは、自分を大切にしてくれる人を、もっと大切にできるようになりたい」
真白は、ポケットから小さなメモを取り出した。
それは、
里奈に送るはずだった誕生日プレゼントの包装紙に書かれた、自分へのメッセージだった。
「この痛みは、お前を強くする。お前はもう、泣かない。」
真白は、里奈といた過去を否定しない。それは確かに美しい時間だった。しかし、その終わりは残酷な現実だった。
彼は、その残酷さを乗り越えた。
高校生活はまだ終わらない。
傷は深い。でも、真白は知っている。人間は、傷を負いながらも、強く立ち直れることを。そして、いつか、この傷が「愛を知り、痛みを乗り越えた証」となることを。
真白は、夕焼け空の下、
一歩、また一歩と、新しい自分へと歩み始めた。
💡 次のステップ
**「里奈の視点」**からの
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