第八章 第三話 拍手と影

 朝の一時間目。

 まだ眠気の残る教室に、窓から差し込む光が黒板を斜めに横切る。

 チョークの粉がその中を漂い、ゆっくりと光を受けて舞っていた。


 先生が出席簿を閉じ、メガネを押し上げながら言う。

 その口元には、めずらしく穏やかな笑みがあった。


「今日は、一ついい知らせがあります。」


 わずかな間を置き、黒板の前に立つ声が響く。


「今年度の全国高校歴史論文コンクール――

 本校から一名、入選しました。……高橋惠美さん、おめでとう。」


 ざわり、と教室が揺れた。


「え、マジ? あの難関のやつに?」


「文芸部の部長でも落ちたのに!」


「すご……てか、あの高橋が……?」


 驚きと感嘆と羨望。

 それらが一斉に湧き上がり、教室の空気を跳ねさせた。


 注がれる視線の先――後列の窓際で立つ一人の少女。

 高橋惠美。


 いつもの落ち着いた無表情が、今だけはほんの少しだけ揺れて見えた。



 チャイムが鳴ると同時に、彩音が勢いよく駆け寄ってきた。


「惠美! すごいよ! 本当に入選したんだね!」

 その目はうるんで光り、誇らしさと喜びをそのまま映していた。


「……ありがとう。」

 

 そこへ、あの三人組が現れる。


 高村紗希が最初に口を開いた。

「おめでとう。正直、驚いたけど……本当に、よくやったわ。」

 淡々とした口調の奥に、わずかに本気の敬意が滲む。


 森下里奈は綾香の肩にもたれ、口の端を上げる。

「へぇ~、やるじゃん。……でもさ。」

 そう言いながら、誰にも見られないように指で小さくグッドサイン。

 そして、惠美にだけ見えるようにウィンクをした。


 佐々木綾香は腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。

「どうせ地味な論文でしょ。あんなの、やる気があれば誰でも書けるって。」

 その言葉にはトゲがあったが、声は妙に低く、

 その目の奥には一瞬だけ、揺れるものがあった。


 拍手、さざめき、嫉妬、称賛――

 それらが混ざり合い、教室の空気をゆるやかに揺らしていた。


 惠美はただ、穏やかな笑みを浮かべたまま立っていた。

 だが、その胸の奥では――あの夜の光景が再び息を吹き返していた。


 街灯の下、父と並んで歩く帰り道。

 そのとき、偶然見てしまった。


 母――高橋貴子。

 彼女は黒い車から降り、運転席の男――大島に笑みを向けていた。

 二人の距離は近く、肩が触れ、言葉を交わす。

 そして――街灯の光の中で、短く、けれど確かに抱き合った。


(……母さん?)


 声が出るより早く、父の手が惠美の腕を掴んだ。

 その手は、異様なほど熱かった。


「違う……あれは、お前の母さんじゃない!」


 掠れた声。

 怒りでもなく、恐れでもなく。

 ただ、何かを否定しなければ崩れてしまうような音だった。


 惠美は腕を振りほどこうとしたが、

「行こう!」

 父の力は強く、まるで逃げるようにその場を離れた。


 街灯が遠ざかり、二人の影が歪んで伸びていく。

 風が冷たい。

 父の手だけが、熱を持っていた。


「父さん!」

 

「痛い、やめて!」


 その一言に、誠一の足が止まる。


 長い沈黙。

 そして、彼は肩を落とした。


「……ごめん。俺、ほんとに情けなよな。」


 低く、掠れた声。

 メガネの奥の瞳が、街灯の光を鈍く反射する。


「お母さんが課長になってから、仕事の付き合いも増えてな……

 俺には何もできない。金も力もない。

 ただ机に向かって、誰にも読まれない原稿を書いてるだけの……どうしようもない男なんだ。」


 惠美は拳を握りしめた。

 胸の奥に、痛みと怒りが混じる。


(この人は……逃げてるだけ。)


 心の底で、李守義りしゅぎの声が響く。


 ――「筆をりて戦う者、その覚悟を失えば、言葉はただの風。

  この男、戦を知らぬのではない。

  ただ、戦うことを怖れているだけだ。」


 惠美は、ゆっくりと息を吸った。

 そして、静かに口を開く。


「父さん。……もし誰かが、父さんの原稿を破ったら、どうしますか。」


「……は?」

 誠一が顔を上げる。

「そんなの……止めるに決まってるだろ!」


「なら、守ってください!母さんを!

 この家を!

 文字を守るように、勇気を持って。」


 彼女の声は、低く、それでいて揺らがなかった。


 誠一の瞳が見開かれる。

 驚きと、恥ずかしさと、わずかな希望。


「父さんの文章は、誰にも理解されなくても、それでも書き続けてきた。

 それは“弱さ”じゃありません。

 ……守るための強さです。」


 惠美の声が、夜風の中で柔らかく溶けていく。


「その強さを、今こそ出す時です。

 父さんが立ち上がらなければ、この家は――本当に壊れてしまいます。」


 風が吹き抜け、誠一の前髪を乱す。

 彼は胸のポケットに手を伸ばし、折り畳まれた原稿をぎゅっと握りしめた。


「……俺に、できるだろうか。」


「できます。父さんなら。」


 二人のあいだを風が通り抜ける。

 その一瞬、街灯の光が彼の瞳の奥で燃えた。


(――武人ぶじんの火を、ついに渡した。

 この男の戦は、ここから始まる。)


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