第七章 第二話 歴史の授業

 朝の光が黒板を斜めに横切り、粉チョークの白がきらりと光る。

 半開きの窓から吹き込む春風が、かすかに眠気をさらっていった。


「はい、今日は“各国の古代試験制度”について話をしよう。」

 教師が眼鏡を押し上げ、教科書を開いた。

「中国の科挙かきょ、日本の朱子学しゅしがく、ヨーロッパの官吏かんり登用試験――形は違えど、いずれも“才能を試し、選ぶ”ための仕組みです。」


 その声を聞きながら、教室のあちこちでペンを回す音がする。

 誰かは小さく欠伸をし、誰かは机の下でスマホをいじっている。

 ただ一人、彩音あやねだけが真面目にノートを取りつつ、時折ちらりと隣を見た。


 惠美――背筋を伸ばし、目を伏せ、まるで静物画の中の人物のように動かない。


清代しんだい八股文制度はっこぶんせいど――」

 教師が黒板に文字を書きながら続ける。

「最初は学問の方向を定めるためのものでしたが、やがて形式だけが残り、自由な発想を縛るものになってしまいました。」


 その時。


「先生。」


 静かな声が、教室の空気を裂いた。

 黒板にチョークの音が止まり、教師が驚いたように顔を上げる。


「……高橋?」


 惠美が立ち上がる。

 姿勢はまっすぐ、目は揺らがない。


科挙かきょの制度は、初めこそ志ある者に門を開いたが、時が経つにつれて、形だけが残った。

 才ある者、文の枠に縛られ、

 まるで鳥籠とりかごとらわれた雀のごとし――羽ばたかんとしても、そらに届かぬ。」


 一瞬、教室の空気が凍りついた。

 誰も息をすることさえ忘れる。


 惠美は少しだけ間を置き、静かに続けた。

「だが、この仕組みがあったからこそ、

 まずしき者にも道はあった。

 不完全ではあれど、“夢を見られる枠”が、そこにあったのだと思います。」


 教室がざわりと揺れた。


「……は? 何それ。」


「また始まったよ、“中二モード”だ。」


 笑い声がいくつか漏れたが、教師は微笑んで首を振った。

「いや、高橋さん。とてもいい視点ですよ。

 制度の功罪こうざいを、両面から見るのは大切なことです。

 では――もし“試験制度”そのものがなくなったとしたら?

 どうやって人の力を見極めると思いますか?」


 惠美はわずかに目を伏せ、少しの間考える。

 そして、静かに息を整えて答えた。


「人のさい紙上しじょうのみにてははかれぬものです。。

 昔は戦場にて刀を振るい、今は学び舎にて筆を取る。

 けれど――どちらも、“努力をもって道を求める”という点では同じです。」


 その声は、心の奥から静かに湧き上がり、教室の隅々まで沁みていくようだった。


「私たちは、飢えも戦も知らず、

 この机の前で学べる。

 すうを解き、詩を読み、歴史を知る。

 それは――過去の誰かが夢に見た“平和の形”。

 だからこそ、この時間を大切にしたい。

 一つの問題に悩み、一つの言葉に心を動かせること。

 それこそが、今を生きる者の“幸せ”だと思うんです。」


 しん……とした沈黙。


 風が窓から吹き込み、紙の端がはらりとめくれる。


「……青春ってやつ?」


「マンガ読みすぎやろう?」


「でも……なんか、カッコよくね?」


 小さな笑いとささやきが交錯する。

 誰かがあざけり、誰かが感嘆し、誰かはただ黙って考えていた。


 教師は少し目を細め、ゆっくりと頷いた。

「……素晴らしい発想ですね。

 “学べること”そのものが、私たちの自由。

 それを忘れないでください。」


 鐘が鳴る。


 教室が再びざわめき始めた。

 それでも、どこか空気が違っていた。


 彩音は俯いたままペンを握りしめ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 ――これが、あなたの“本当の姿”なんだね、惠美。


 彼女の隣で、惠美は無言のままノートを閉じる。

 指先がほんの一瞬だけ止まり、心の奥で呟く。


 ――父のあかりの下、筆を執る背中。

 あの光が、今の自分に、少し重なった気がした。


 そして、静かに息を吐く。


「……筆を執りて、己の道を刻む。

 たとえ剣を持たずとも、これは――わたしのいくさ。 」


 春の光が、窓辺の紙を照らす。

 風がそっとページをめくり、次の一行を促すように。


 それは、新しい日々の始まりを告げる音だった。


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