第四章 第四話 我、箒を刃とす――返し技

 放課後の教室は、夕闇ゆうやみに沈み、窓の外の空は薄紫に溶けていた。

 誰もいない教室には、時間だけが静かに流れている。


 彩音は、そっと教室の扉を押し開けた。

 彼女は小さな息を吐き、しのぶように机の間を抜けていく。

 指先が震えていた。

 机の上のかばんに触れた瞬間、その震えがさらに強くなる。


「……彩音。」


 背後から、低く、よく通る声。

 振り返ると――そこに立っていたのは、惠美だった。


 夕光ゆうこう縁取ふちどられたその姿は、どこか異質だった。

 背筋せすじは真っすぐで、眼差まなざしは静謐せいひつ

 まるで、戦場いくさばを見渡すしょうのような落ち着きがあった。


「……惠美、まだ帰ってなかったの?」

 彩音は無理に笑おうとしたが、声はかすれ、笑みは引きつった。


「今日、われ値日ちじつつとめをはたすまでは退しりぞかぬ。」

 惠美は淡々たんたんと答え、壁際のほうきを手に取る。


 その動作に、一切の無駄がなかった。

 長い指がにぎった瞬間――

 まるでかたなさやから抜かれたかのように、空気が一変した。


「……われくべきけがれをのがさぬ。」

 まるで、戦場の号令みたいに。

 古風な響きが空気に溶け、静けさを切り裂いた。


 彩音は、何か言いかけた。

「私も手伝――」


 その言葉は、乱暴に開かれた扉の音にかき消された。


 ――ガンッ!


「おい、しゃべってんじゃねぇよ!」


 綾香が先頭に立ち、獲物えものを見つけたけもののような目でにらみつける。


「彩音ちゃんってさ~」

 里奈がジュースのストローを噛みながら、挑発的に笑う。

「ほんっとりないよね~。あんな“怪物女”とつるむとか、どんな趣味?」


 紗希は無言のまま、

 背後の出口をふさぐように立つ。


「わ、私は……忘れ物……」

 彩音が必死に首を振る。だが声は震えていた。


「言い訳すんな!」

 綾香が机を蹴りつけた。金属音が教室に響き渡る。


「……わざわざ掃除してるなんて、いい子ぶってんの? じゃ、もっと綺麗にしなよ。」


 その言葉と同時に、彼女は手にしていたコーラの缶をひねった。

 ――シュッ。

 黒い液体が床に広がり、炭酸の泡がはじけた。


「うわ、手滑っちゃった~。」

 笑いながら、綾香はもう一本の缶を取り出した。


 彩音は青ざめ、しゃがみ込む。

「わ、私が拭くから……ほんとに、ごめんなさい……!」


 惠美は、動かない。

 ただ、その光景を静かに見つめていた。


「……ねぇ、高橋さん。」

 里奈がわざと甘い声を出し、顔を傾ける。

「あなた、当番でしょ? 見てるだけでいいの~?」


 彼女の指が、別の缶を掴んだ。

 そして、笑みを浮かべたまま、思いきり壁に投げつけた。


 ――ドンッ!!


 爆音が教室に響く。

 コーラが炸裂し、甘い匂いと飛沫ひまつが宙を舞う。


 彩音が悲鳴をあげた瞬間。


 惠美は、動いた。


「――なんじら、また無礼ぶれいを重ねるか。」


 たった一歩。

 それだけで、空気が凍った。


 その足音には、奇妙な重みがあった。

 静かに、しかし確実に迫る。


 綾香が目を細める。

「は? 何様なにさまだ?」


 紗希が腕を解き、冷たい声を放つ。

「……る気?」


確認かくにんしたまで。」

 惠美は箒の柄を握りしめたまま、淡々と告げる。

なんじらの愚か、いまあらたまらぬか……なげかわしきかな、今代こんだいむすめは、言葉ことばでしかたたかえぬのか。」


「はあ? 何それ、中二病こじらせてんじゃねぇよ!」

 綾香が鼻で笑い、もう一本の缶を掲げる。


「じゃあ――見せてやるよ!」


 缶が放たれ、銀色のを描きながら――惠美の頭めがけて一直線いっちょくせんに飛んだ。


「――死ね、怪物女!!」


 ――その瞬間。


「……!」


 空気が震えた。


 次の刹那せつな

 耳をつんざく金属音が鳴り響く。


 缶は空中で砕け、コーラが雨のように降り注ぐ。

 黒板に「ガンッ!」と突き刺さった箒の先端。

 缶は真ん中から潰れ、破裂し、

 炭酸の泡が弾丸だんがんのように散った。


 甘い匂い。

 飛び散る液体が、三人の頬や制服に降りかかる。


 誰も、声を出さなかった。


 惠美だけが静かに箒を下ろし、

 くるりと振り返る。


 衣のすそひとつ乱れず、

 その眼差しは冷たい光を宿していた。


「次の一撃は、顔面おもて穿うがつ!」


 

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