第二章 第一話 教室は修羅場

「ガラッ。」


 木の扉が開いた瞬間、ざわついていた教室は一斉に沈黙した。

 数十の視線が一斉に、高橋惠美たかはしめぐみへと突き刺さる。


 惠美は深く息を吸い、指先に残る冷たいドアノブの感触を意識する。

 背筋を正し、堂々と歩みを進めるその姿は、まるで戦場いくさばへ踏み入る武人ぶじんのようだった。


 記憶に刻まれた所作に従い、教壇きょうだんへ進み出ると――

 右拳ゆうけん左掌さしょうに当て、かつての軍中礼法ぐんちゅうれいほうさながらに深く一礼する。


学子がくし・高橋惠美、万死ばんしあたすれば、どうかお許しを!」


 一瞬、教室の空気が凍りついた。


 だが、その静寂は刹那にして弾け飛ぶ。

 笑い声が、乾いた火花ひばなのようにあちこちで弾け、たちまち炎のごとく広がっていった。


「なにあれ?」

「中二病じゃね?」

「マジで笑える!」


 教壇の教師も目を丸くし、ひたい青筋あおすじを浮かべて口をひきつらせる。

「……あー、高橋。来たのか。……席に戻れ。」


 惠美は顔色ひとつ変えず、おごそかにうなずく。

 その表情は、命令を受けた将兵しょうへいのように凛然りんぜんとしていた。


 廊下側を通りかかると、窓際の席に座る彩音あやねと視線が交わる。

 心配と緊張が入り混じるその瞳。


 惠美は軽く顎を引き、静かに頷いた。

 ――声なき安堵あんどを伝えるために。


 しかし背後からは、再び嘲笑が押し寄せてくる。

 潮のように押し寄せ、背を叩き、耳を突く。


 李守義りしゅぎは胸中で低く呟いた。


わらうか――。

 箭雨せんうりし沙場しゃじょうにても、われはなお血河けつがに立てり。

 この場など、ただ皮袋かわぶくろを替えし修羅場しゅらばに過ぎぬ。」


 机に腰を下ろし、静かに教科書を開く。

 嘲笑ちょうしょうも、冷たい視線も、矢のごとく突き刺さる。

 だが、筆先ふでさきは揺らがず、紙面しめんに文字を刻んでいった。


すでる以上、ここを戦場いくさばさだむべし。

 退しりぞくこと――二度と許されぬ。」


「キーンコーン、カーンコーン。」


 チャイムが鳴り響くと、張り詰めた空気は破れ、教室は再びざわめきに満ちた。


 その時、机の横に彩音が駆け寄り、声をひそめてささやく。

「惠美……本当に来てくれたんだね。」


 その瞳は、星の光を宿やどす湖のように揺れていた。


 惠美は一瞬きょとんとしたが、胸の奥に温もりが広がるのを感じ、短く頷いた。

「……ああ。」


 彩音は小さく笑みを浮かべたが、すぐに表情を曇らせ、さらに小声で続ける。

「でも……大丈夫? 昨日から、なんか……いつもと違う気がするの。」


「違う?」惠美は眉を寄せ、首をかしげる。


 彩音はさらに顔を近づけ、怯えるように言葉を紡いだ。

「うん……なんか、惠美じゃないみたい。」


 その声音は、周囲に聞かれるのを恐れながらも、真剣な不安を滲ませていた。


 惠美は彼女の瞳を見つめ返す。

 そこに宿る複雑な色を受け止め、ほんのわずかに口角を上げる。


「……ただ、少しばかり。思い至ったことがあるだけだ。」


 彩音は呆気に取られ、彼女を見つめ返した。

 やがて小さく息を吐き、困ったように笑う。

「……そう。ならいいんだけど。」


 安心と疑念ぎねんが入り混じる瞳。

 ――確かにそこにいるのは、友人の惠美。

 けれど、宿る光は、見知ったものとは違って見えた。

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