第一章 第一話 記憶、制服、そして恐ろしい鏡

 目の前にあったのは、狭いが整えられた二階建ての家だった。

 玄関の扉を押し開けると、木の床板と細長い廊下、壁に掛けられた簡素な収納ラック。


 李守義りしゅぎは玄関口で立ち尽くした。入るべきか、退くべきか、一瞬迷う。

 その刹那せつな、彼の意識にいくつかの断片だんぺんひらめいた――靴を脱ぎ、スリッパに履き替える習慣。

 家に入れば「ただいま」と声をかける響き。

 それは彼自身のものではない記憶きおくだった。

 けれども妙に身体を突き動かす。


 無意識に足を下ろすと、マットが柔らかく沈み、かすかな音を立てた。

 まるで足が代わりに決断けつだんを下したようだった。


 整然せいぜんと並んだ靴の列の中で、黒いローファーが一際目を引く。

 磨かれたつやを保ちながらも、履き口はすり減っている。

 通学に毎日履いている証拠。

 床に残る細長い足跡あしあとが、この身体の本来の持ち主を語っていた。


 息を殺し、彼は一歩踏み出す。

 木の床は小さなきしみを返し、静まり返った室内に反響する。

 ようやく気づく――家の中には誰もいないのだ。


 食卓の上に、一枚のメモが置かれていた。


惠美めぐみ、頑張って! ママも今日も頑張るから!』

 可愛らしい文字と、横に描かれた笑顔のイラスト。


 李守義りしゅぎの目は釘付けになった。

 脳裏のうりに、またいくつかの記憶が走る。

 あかりの下、丸まった背中。

 優しい声での応答。

 深夜に疲れた身体で帰宅する姿――。


 その断片は刃物のようにするどく、容赦ようしゃなく心に突き刺さる。


 彼は小さく息を吐き、声にならぬ声でつぶやいた。


「これは……母の手か。」


 気づけば手に、黒い布製のリュックを握りしめていた。

 ジッパーには色褪せた人形のキーホルダー。長年使い込んだ痕跡こんせきが刻まれている。


 彼はそれを凝視ぎょうしし、頭の中の雑音が少しずつ低くなるのを感じた。

 散乱さんらんしていた断片がつながりを持ち始める。

 朝の電車。

 教科書の筆跡ひっせき

 同級生の嘲笑ちょうしょう

 夜更よふけの溜息ためいき


 それは彼にとっては未知みちの世界。

 けれども、このリュックと同じように確かな「現実げんじつ」だった。


 荒れていた胸の内が、次第に静まっていく。

 彼はそっと手を伸ばし、確かめるようにてのひらを見つめた。

 細く白い指先。強く握りすぎて、赤くなっている。


「これが……今の私か。」


 李守義りしゅぎは心の奥で、重く溜息をついた。

 記憶と環境の双方そうほうから、この状況を解き明かそうとする。


 やがて意を決し、リュックのジッパーを引いた。

 中には教科書やノートがきちんと収まっている。

 角はり切れ、何度も開かれた形跡があった。

 文字は清楚ながら急ぎ足で、追い立てられるような筆跡。


 仕切りの間から、一枚のカードを指先が捉える。

 取り出すと、そこには名前と写真。


 高橋惠美たかはしめぐみ


 横にはこう記されていた。

『東京都立櫻川高等学校』


 カードの縁は白く摩耗まもうしている。毎日持ち歩いているのだろう。

 写真に映るのは制服姿の少女。緊張きんちょうした面持ち、おびえたような視線。


 胸の奥が再び痛む。


「高橋惠美……」


 小さく呟く。その名をきざみつけるように。


 階段を上がる。木の段板が「ギシ」と鳴り、空気には木の香と紙の匂い。

 扉を押し開ければ、小さな一室が広がっていた。


 机には教科書、参考書、厚いノートの山。

 隅には小さなランプ。シェードには子供っぽいシール。

 本棚には小説や漫画。表紙は擦れて色を失っている。


 ベッドは整えられ、薄桃色の布団の上にはぬいぐるみの猫。

 耳は潰れ、何年も寄り添ってきたことを示していた。


 その時。視線が偶然、壁際かべぎわ姿見すがたみに触れた。


 足が止まる。


 映っていたのは制服をまとう少女。


 白いシャツに灰色のベスト。赤いチェックのリボン。

 紺のプリーツスカートは膝まで。黒いソックスに包まれた脚が床を軽く叩く。


 背は高く、華奢きゃしゃで、どこか疲れた面差おもざし。

 黒髪は肩に流れ、光を受けてかすかにきらめく。

 乱れた前髪が瞳を隠し、その瞳はんでいながらも怯えと空虚くうきょたたえていた。


 まるで、今にもくだけてしまいそうに。


 李守義りしゅぎは息を止めた。


 鏡の中の顔は確かに見知らぬもの。

 だが押し寄せる記憶の欠片と共に、その輪郭は「高橋惠美」という名で満たされていく。


 思わず手を伸ばし、冷たい鏡面きょうめんに触れる。

 その冷気が、まぼろしではないと告げていた。


 机の上のペン。

 棚のゆがんだ本。

 ベッド脇の充電器。


 すべてが現実で、すべてが「高橋惠美」の日常。


 机に戻り、学生証を指ででる。

 沈黙の中、彼は初めてさとった。


 自分は、まったく異なる世界と身分に置かれたのだと。


 日記帳を開けば、最初のページにはこうある。

『新学期、今度こそ続けられますように』


 だが進むにつれ、文字は乱れ、ページは破り取られ、黒い塗り潰しで覆われた|箇所かしょもある。


 その筆跡の裏に、あせりと無力むりょくが透けて見えた。


 日記を閉じた瞬間、胸に重い影が落ちた。


 彼の脳裏に、不穏ふおんな記憶が浮かび上がろうとしていた。

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