轍 -わだち- 幼少期編

@nanashi_q

あの夜の静けさを、今も覚えている。

夜の空気は、家の中の静けさとは違う静けさをしていた。

秋の風が乾いた葉を転がし、カサカサという音が遠くで響く。

電柱の灯りは冷たく滲み、アスファルトの上に長い影を落としていた。


弟の小さな手を握りしめ、あてもなく歩いた。

ポケットの中には何もない。買うお金もない。

手のひらから伝わる体温だけが、今をつなぎとめていた。


家の中にいても、静けさはなかった。

何をして怒られたのかは覚えていない。

ただ、母が包丁を握ったまま怒鳴り、私を追いかけてきたことだけは、はっきり覚えている。

怖くて、トイレに逃げ込んだ。

鍵をかける音が、世界でいちばん大きく響いた。


その日から、家の中の静けさが少し怖くなった。


しばらく歩くと、コンビニの灯りが見えた。

母がお金を払って物を受け取る姿を見たことがあったから、

「お金がないと、物はもらえない」──そう思っていた。


店の中にはお客さんがいなかった。

レジの前に立つ女の人が、ちらちらとこちらを見ている。

カメラなんて知らない。

私はその人の死角にまわり、小さなスナック菓子を掴んで服の中に入れた。


走った。

夜風が頬に冷たく当たって、鼓動が耳の奥で響いていた。

誰もいない家に戻ると、冷たい空気が迎えてくれた。

畳の上でスナック菓子を半分こする。

お腹が少しだけ満たされた。


──あの瞬間が、

たぶん私の「人生の始まり」だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

轍 -わだち- 幼少期編 @nanashi_q

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ