[掌編]たゆたう

レネ

⛈️


「私たち、どうしてこうなっちゃったのかしら」

「それは……互いに尊重がたりなかったのかな」

「私は尊重してきたわ。いつも、あなたを」

「いや、君は僕を尊重していなかった。思いやりも持っていなかった」

「持つわ、思いやりを。あなたを尊重するわ。だからもう一度やり直せないかしら」

「君は怒りっぽい。いくら相手を尊重しても、すぐに怒ってケンカになっては意味がない」

 玲奈は、寝返りを打って向こう側を向くとポソっと言った。

「性格は変えられないものね。私ってダメなのね、結局」

 僕は上半身を起こしてベッドから降りると服を着ながら、玲奈に背を向けたまま言った。

「そんなに深刻になる必要はない。ただ、こうした関係に終止符を打とうと言ってるだけだ。君は若い。家族もあればまだまだ未来がある。そしてそれはある意味僕もそうだ。気が向いたら、いつでも会って、一緒にワインでも飲めばいい。ただお互いそれぞれの人生を歩もうと言ってるだけだ」

 玲奈がすすり泣くのがわかったが、もう同情しようという気にはならなかった。だって、僕は2人にとってこれが1番いいと信じているから。



 あれは2年前の冬の夜だった。

 僕はコンビニで、温かいコーヒーを買うために、レジの列に並んでいた。僕の前に、温かそうなカフェラテを持った三十代くらいの女性が並んでいる。後ろからだと顔はよく見えないが、ウールみたいな生地の、落ち着いた色合いのコートを着た、スタイルのいい女性だった。


 彼女の番になると、店員が160円です,と伝えた。しばらくバッグをごそごそあさっていた彼女は、急にあせって、

「ごめんなさい。財布忘れたみたい。それ、置いておいてください。すぐに取ってきます。家は近くなんです。本当にすみません」

と、あわててその場を去ろうとした。

「あっ、僕払いますよ。この寒い中、取りに行くの大変でしょう」


 僕はその可愛らしい声と、そして何よりも振り向いて僕を見た時の彼女の感じの良さに、つい持ち前の親切心を出してしまい、店員に自分の缶コーヒーと一緒でいくらかと聞いた。

「そんな、申し訳ないです。すぐに取りに行きますので」

 と彼女が言う間に、僕は小銭を差し出し、店員に「いいんです。いいんです」と言ってそのまま会計した。

 どうすればいいのか分からないといった感じで一部始終を見ていた彼女に、どうぞ、とカフェラテを差し出した。

 それが、出会いだった。


 彼女には、夫と小学生の娘が1人いた。

 僕は独身で、もうすぐ40になるが、母と2人暮らしだった。

 結婚なんて、ばかばかしい。一生1人の女のために働くなんて、僕には考えられなかった。

 世の中は娯楽に困ることはないし、時々女性とも付き合ったが、それほど深く愛することもなく、悪く言えばはけ口みたいに思っていた。大抵の女性も、そんなものだと思っていたようだ。飽きたら、それでおしまい。それはお互い様のことだった。


 でも玲奈はちょっと違っていた。とても感じが良く、整った容貌をしていて、僕は時として、本気になりそうな自分を戒めた。何しろ,彼女には家庭があるのだから。


「私たち、どうする? こんな関係になっちゃって」

 ある日、ベッドの中で玲奈は僕に言った。

「運命って、不思議だね。君があの時財布を忘れなければこんなことにはならなかった」

「あら、じゃあ私が悪いの?」

「いい、悪いの問題じゃない。ただ、男と女って、不思議だな、と思って」

「実はね,あの時、あなたがお金を払ってくれようとした時、私PayPay持ってるの、思い出したの」

「えっ? なんだPayPay持ってたのか」

「うん、でもせっかくのあなたの厚意に、あっ、PayPayありますなんて、言えないじゃない?」

「ははは、じゃあ、僕の親切心と、君の思いやりが、僕たちを結びつけたわけだ」

「そうね、そう言えるわね。あなたって優しいから、だからこうなっちゃったのよね」

「なんだ、僕のせいか」

「そうよ、あなたのせいよ」

そう言いながら玲奈は僕を強く抱きしめる。

ーーこんなことでいいのだろうか。僕はちょっと不安になる。


 彼女の夫は夜勤中心の仕事をしていた。医療関係だと言っていた。だから僕たちは、彼女が子供を寝かしつけるのを待って、彼女の家のすぐ近くのバーで待ち合わせした。のんびり酒を飲んで、それだけで別れることもあったが、時々はこうしてホテルに部屋を借りた。


 そんな関係を続けていたある日、僕の母が脳梗塞で倒れ、寝たきりになった。僕は生計維持のための仕事だけでなく、母の介護もしなければならなくなった。


 彼女と思うように会えなくなった僕に、彼女は時々イライラをぶつけるようになった。

どうして会えないのは仕方のないことだと理解してくれないのか、玲奈のことがよく分からなくなった。玲奈はかなり盲目的にのめり込んでいたのだろうか。

 これはまずい、と僕は思った。しかも母の病気は多発性脳梗塞というもので、病状は悪化する一方で、僕は恋愛にうつつをぬかしている気になれなくなった。そうして、半年が過ぎた。相変わらず、僕たちの関係はギクシャクしていた。そして……。


 ーー母が亡くなったんだ。

 その言葉を、僕はかろうじて飲み込んだ。彼女にしてみれば、それは朗報に違いないからだ。

 僕はもう、疲れて涙も出なかった。

 この先、ひとりぼっちで生きていくのかな。身内は遠い親戚がいるだけだ。

 なぜ家族のある玲奈なんかと付き合っているんだろう? せめて、しばらく僕に寄り添ってくれるような独り身の女性だったら良かったのに。


 僕は何だかこれから寂しくなるなあと思いながら、初めて自分の人生と向かい合い、女性との付き合い方も真剣に考えるようになった。

 このままではいけない。玲奈と別れよう。そういう考えがはっきりと浮かんだ。その夜、僕は玲奈に別れ話を持ち出し、2人の関係は振り出しに戻ることになった。


 僕はある夜、コンビニに寄って温かい缶コーヒーを買った。と、僕の前に並んでいた女性が、カフェラテを買おうとして自分のバッグをあさり始めた。僕はその時、もう財布の中には200円しか持っていなかった。

「あっ、あった、良かった」

と女性は言い、金を払って出口へ向かった。

 僕はその女性を最初から最後まで見ていた。でも、ただそれだけだった。

                了

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[掌編]たゆたう レネ @asamurakamei

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