保健室

音羽真遊

保健室

「夏ですねぇ」

「はい。夏ですねぇ」

 この春大学を卒業した私、山﨑薫は教師として母校であるこの小学校に戻ってきた。

「いいんですか? こんなところにいて」

「このコーヒー、いただいたら戻りますよ」

 今私がいるのは保健室。教育実習の時、十年前と変わらずというか、変わらない姿で仕事をしていた保健の先生を見て、懐かしさを通り越して心底驚いた。

 それに、先生だけではなく、この場所もあの頃と変わらず、優しく私を迎え入れてくれた。

 風を通すために開かれた窓からは、子供たちの元気な声と蝉時雨が聞こえてくる。

「こうしていると、あなたがまだここの生徒だったときのことを思い出すわねぇ」

「ふふ。そうですね」

 二人の目が合い、思わず笑みがこぼれる。

 息抜きのため、ということもあるけれど、私が仕事の合間にここを訪れるのはそれだけではない。

 この場所には、大切な思い出がある。



「先生~。薫ちゃんがまた貧血です」

 小学生の頃、体の弱かった私はよく保健室のお世話になっていた。

 この日のまた、朝礼の途中でめまいを起こした私は、友達に支えられ保健室に連れてこられた。

「あらあら、そこのベッドに横になって」

 言われるが早いか、私はベッドに倒れ込む。

「じゃ、薫ちゃん、私、戻るね。終わったらまた覗きに来るから」

「うん。ありがとう」

 パタパタと軽快な足音が遠ざかっていく。

 少しぼやけた視界で保険室内を見渡すと、一人の男の子が椅子に座って本を読んでいた。

 その顔には見覚えがあった。確か、格好良くて優しいと、女の子たちの噂になっていた。近くで見ると確かに格好いい。

「先客……ですか?」

 私はよく回らない頭で彼に話しかけてみた。

「まぁ、そう言えなくもないかな」

 本から視線をあげ、ふっと微笑んでみせる。その顔に見とれたまま私の意識は落ちていき、その後のことは記憶にないが、ともかくこれが、私と彼、斎藤遼君の初めての会話だった。

 それから私達は時々保健室で顔を合わせるようになった。不謹慎ながらも、保健室に行くのが密かな楽しみになっていた。

 遼君は一学年上の六年生で、数ヶ月前のある日、心臓の病気が見つかり、激しい運動を止められたのだそうだ。

 去年の運動会で活躍していたことを思い出して、ひどく悲しい気持ちになった。

 開け放された窓からは、涼しい風が入り、蝉時雨が聞こえていた。

 二人の時間は楽しく、あっという間に過ぎていく。あるときはお互いベッドの上でぐったりしながらも、延々話し続けて先生を呆れさせたこともあった。

 けれど、蝉時雨が聞こえなくなった頃、遼君は突然私の前から姿を消した。

 先生から遼君が手術のために外国に行ったと聞かされたとき、私はまた倒れてしまった。

「元気な姿を覚えていて欲しいから」

 と彼は言ったそうだが、せめて、何か言って欲しかった。置いてきぼりにされたような切なさが、胸の中に残っていた。

 恋なんてまだまだ知らない子供で、止まらない涙の理由もわからなかったけれど。私は、遼君のことが好きだった。

 その後、一度も彼には会っていない。



「蝉時雨って言葉、遼君が教えてくれたんですよね」

 コーヒーを飲み干して立ち上がる。

「ごちそうさまでした。そろそろ戻ります」

「お仕事頑張ってね」

 私は廊下の窓からせわしなく聞こえてくる蝉時雨に耳を傾けながら、職員室へと向かった。


「今度顔出します、か。どんな反応するのかしらね、あの二人」

 絵はがきを手にした保健の先生がほくそ笑む。

 蝉時雨が彼らの再会を喜ぶかのように、一層その強さを増した。

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保健室 音羽真遊 @mayu-otowa

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