『自殺台』
@WakameOG
自殺台
町の外れ、海を見下ろす断崖に「自殺台」と呼ばれる古い木製の台があった。
誰が何のために置いたのか、いつから置かれていたのかは誰も知らない。ただ、昔からそこには、小さく平たい踏み場と、海へ向けて真っ直ぐ伸びる木の板があった。だいぶ年季の入ったその台は、朽ちかけてはいるものの、仕口の呼吸は乱れず、造り手の手だけは未だそこに立っていた。
誰もそれを撤去しようとはしなかった。
−
ある朝、青年・藍沢はその台の前に立っていた。
藍沢には帰る場所が多くはなかった。
母子家庭で高校を出てすぐ働き始め、母と二人で暮らしていた頃から、
「迷惑をかけないこと」だけが彼の中の小さな誇りだった。
小学校から続けていたバスケットボールよりもバイトを優先し、進学よりも生活を選んだ。
それが間違いだと思ったことはなかった。
選んだ道の上でただ立ち止まってしまっただけだった。
自分だけが止まったまま取り残されたように感じた。
海の風はセーターの網目を感じさせるほど強く冷たかった。
細い板の上に朝日に照らされた自分の影だけがぼんやりと伸びていた。
「ここに立てば、終わる」
藍沢はそう思った。
どこにも帰れない気がしていた。
そのとき、先客がいたことに気づいた。
ひとりの老人が台の端に腰を下ろしていた。
白い髪を海風に揺らし、砂時計のように細い目をして、海を眺めている。
その傍にはいくつもの小石が静かに積まれていた。
「午後から雨が降る」
老人は海の方を見ながら言った。
冬の海が断崖へ荒く波を叩きつけているのに、その声だけは不思議なほど鮮明に聞こえた。
藍沢は戸惑いながらうなずこうとしたが、代わりに言葉がこぼれた。
「……もう選択肢がないので」
老人は少し笑って、台を軽く叩いた。
「ここに来る人は、皆そう言うよ」
「あなたも?」
「もちろん。だけど、結局わしは飛べなかった」
理由を尋ねようとしたとき、老人はそのまま海のほうを見ながら続けた。
「人生ってのはな、終わろうとした時にやっと『本当はこう生きたかった』って思いが浮かぶんだ。ここは死ぬための台じゃない。この台を作った彼も死の入り口として作ったのではないはずだ。自分が“まだ手放せないもの”を思い出す場所なんだよ。」
藍沢は言葉を返さなかった。
先程まで朝の低い陽に細く伸びていた藍沢の影は、いつの間にか台の縁から少しずつ離れていた。
強く吹く風に抗うように、藍沢はゆっくりと木の台に座った。
二人はしばらく何も話さなかった。
ただ波が砕ける音だけが聞こえていた。
やがて藍沢はポケットから携帯を取り出し、何度も打っては消したままだったテキストボックスに、たった一文を入力した。
藍沢は立ち上がると、老人に頭を下げた。
「ありがとうございます」
老人は藍沢に背を向けたまま手を振った。
「また来たっていい。飛ばなきゃ、何度でもな」
青年は海に背を向けて歩き出した。
背中を風ではない“何か”が押していた。
藍沢の携帯が鳴った。
−
自殺台は、今日も海を見下ろす断崖の上にある。
けれどそこから飛ぶ者はほとんどいない。
人は、台の上で思い出すのだ。
まだ終われない理由を。
−
あとがき
この物語は 「死」を選ぶ心を否定せず、同時に寄り添い、そこから戻る始まりの入り口を描くことを目的に書いています。
もし今、心がしんどいなら、この物語に出てきた台の上に、“心の中で” そっと立ってみてください。
あなたはひとりではない。
生きることが辛いと思うのは、誰よりも生きることに真摯に向き合ってる証なのだから。
『自殺台』 @WakameOG
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