第10話 冴木の前の会社2

 此処に来る途中で独り言のように言っていたが、社内では颯爽と社員の中を通り抜けていった。今岡の話では、見かたによれば動物が巣穴に一目散に逃げ込む姿にも見える。彼の話では此処は冴木さんにとって居心地が悪いのか、弟と話があるためだけに来るのかどっちとも取れる。

 昼休みになると此処の屋上から市内をぐるりと取りまく山を眺めると、今岡は気分が落ち着くそうだ。囲まれた山が自分を包んでくれるようなのだ。彼がこの町に郷愁を感じているのは此の三方から包み込む山肌から来るこの地形だろう。囲まれた山々から来る反動で寒さも暑さも包み込んでしまう。それがまたたるむ心を引き締めてくれるようだ。

 昼休みに屋上へ上がる動機を、今岡はこんな風に語って、この仕事とのバランスを取っていた。 

「専務もそんなところがありますよ」

 郷土拝見というコラムに実際に現場に行って見て、地元の人に聞いて此処でパソコンのワープロ機能を使って文章を作成して、なくなった先代の社長が居た出版社に、載せてもらう。これが中々良い文章が出来ない時に、屋上に上がると専務がいた。多分、今岡と同じ心境でも、そんなことは口が裂けても言えない。自分と同じように手元のキーボード入力の指がほとんど動かずに、パソコン画面を眺めている。その時はやはり同じ顔をして屋上の金網越しに遠くの山を眺めている。しかし傍まで行くと直ぐに難しい顔に戻る。

「此処では冴木さんはそうなんですか」

「先代の社長が亡くなってから解放されたようですが、家ではどうなんです」

 缶コーヒーを飲み干してしまった。

「まだ入居したばかりで判りませんが、美紗和さんの話だと伯父さんが用事も無く手ぶらで出掛けるときは散歩だそうだ。家の高台から下りで五キロ以上十キロも歩く場合がある。帰りが問題で、タクシーを拾えない場合、携帯電話で迎えを頼まれる。出掛ける用事が決まってる場合でも、タクシーを呼ぶのが面倒で、美紗和さんに車の運転を頼むそうですよ」

「専務がぶらっと出るときは、此処でもそうですが繁華街には行かないんですよ。山上さんは、家からだと五条高倉を曲がって此処の会社に来たでしょう」

「五条通からふた筋目を曲がったがあれは高倉通ですか?」

「一筋目が富小路でふた筋目が高倉通ですよ」

「そうですが、それも美紗和さんから訊いたんですか?」

「それだけじゃないですよ。根詰めてパソコン画面と睨めっこすれば、普通の社員は繁華街の河原町に行きますが、専務は反対の人気のない間之町通から東洞院を超えて東本願寺のお堂の前でしゃがみ込んでますね。まあこの辺はタクシーが頻繁に通りますが深泥池の裏通りなんて、空車のタクシーなんて走ってませんよ。呼び出された美紗和さんもえらい迷惑でしょうね」

 気分転換に普通は賑やかな所に行くのに、専務はうらぶれた場所に逃げ込む。

「ほう〜、今岡さんが会社に居るときからそうなんですか。何でまた冴木さんは殺風景な所ばかり散歩するんですか?」

「今まで専務を見ていると現社会からの逃避じゃないですか、でも良く解らない。会社経営に携わる人は、我々ペイペイでは及びも付かない思慮を持ってるんでしょう」

 否定しないまでも、皮肉交じりに聞こえるのは、冴木に対して一定の距離を保っているようだ。

「冴木さんはいつも此処にどれくらい居るんですか」

「一時間以内です」

「来る日は決まっているのか」

「まちまちで、それで何の用か見当も付かないんですよ」

「毎日はいたくないか。何が不満何だろう?」

 さあと考えるうちに冴木がやって来て「イヤー待たして済まない」と一声掛けるとサッサと出口に向かい慌てて後を追って、二人はエレベーターに乗った。

「弟とはつい話が面白くなってねぇ」

「何を話すんです」

「亡くなった社長の遣り方について色々と話した」

「でも亡くなられてもうかなり日が経つのに、何で今頃なんですか」

「先代の社長は偉大すぎて我々には考えが及ばない。それで整理してやっとこういうことだろうと弟と今まで話を詰めていたんだ」

「それじゃあ、話がまとまればもう当分此処には来なくて良いんですね」

「そうだなあ、君にも美紗和と同じ仕事があるからそう頻繁には頼めん、タクシーにするよ」

「エッ、まだ来るんですか」

「会社を盛り立てないとダメだろう」

「でも冴木さんはもう会社を辞められたんですよね」

「辞めたんでなく退いたのだ」

 行きしなの車内でブツブツ言っていた話と違う。

 コインパーキングに戻り車を走らせた。途中で酒屋に寄るように言われ、冴木さんが呑むのと思った。冴木さんは五百ミリリットルの缶ビール一ダース買って来た。君の名前で個人用の冷蔵庫に入れておくように云われた。後で美紗和さんに訊くとタクシー代だそうだ。とにかく今日はそのまま家まで帰ってきた。冴木さんが玄関で下りた後、車を前方させて缶ビール一ダースを冷蔵庫に入れてダイニングルームに座り込むと、美紗和さんが部屋から出て来てくれた。

「どう、今日の伯父さんは、何か判った」

「いえ、ますます判らない」

 ビールの話では、美紗和さんも冷蔵庫に貯まっていた。わざわざタクシーを使わないのはタクシー代として、みんなに還元させたいのが本音のようだ。だから休日は免許を持ってる柳沢吉行君にあたしの代わりに振っている。

「それでロング缶のビールで偶にここで飲み食いしているのか」

「そうよ、三百五十ミリリットル以外は間接的には伯父様が出してるようなものね」

 会社で会った今岡の話をすれば、あの子はうちのお父さんが眼を掛けて、丁度良い相手と知り合えた。彼なら此処のシェアハウスの人より情報が多いと期待させてくれた。 

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