第8話 最初の日々2

 九時になると二階のドアが次々と開いて、学生たちがダイニングルームを取りまく廊下を伝って下りてくる。昨日の冴木さん一人の登場と違って、実に賑やかな光景が下から眺められた。夕べ賑わったダイニングテーブルを通り過ぎて、奥のキッチンルームにやって来た。今度は時間に余裕があるのか、美紗和さんはさっきの二人のようにはしない。総て学生たちに任していた。彼女たちが作ったハムエッグをキッチンテーブルに並べ出す。出来上がったトーストにバターや蜂蜜を塗り、ワイワイと喋りながら食べる姿は、柳沢や北原の時とは正反対な賑やかな食卓風景になった。それぞれが自分の作品に携わっているにも拘わらず、そんな話は一向に聞こえなかった。ほとんどがたわいもない大学内の話に尽きた。朝食が終わるとみんな食器を洗い、各自部屋に引き上げ、身繕いをして学生たちは出掛けた。

「朝に関しては学生たちと社会人では、完全に二分化されてるんですか」

 キッチンテーブルを拭き終わり、一段落した美紗和さんに訊ねた。

「まあ、そうね。吉行君と祥吾君は生活が掛かっているけど、二階の学生たちはそうじゃあない。自由だけど彼らは一般教養学部でなく芸術分野の指向だけに、それだけ自分を律するのはある意味で辛いところもあるわね」

「それで冴木さんはそう謂う若者を住まわせたんですか。それはいつから気にしだしたんですか」

「父の話だと伯父は長男ですから、祖父の会社の跡取りとして育てました。でも元々伯父は芸術には関心がなかった。余り大きな会社でないですけど……」

 どうも会社は弟が主にやって、兄はほとんどタッチしてない。祖父が亡くなると此の家を貰って会社から一切手を引いた。

「そうなんですか、祖父が亡くなるまでは一応会社には籍を置いても、机に座って居るだけでは、周囲から嫌な眼で見られて、冴木さんは居心地は良くなかったでしょう」

「それが出版関係の仕事で、取材と称して出歩くか、机に向かってパソコンを打ち込んでいれば良いだけで、結果は数字でしか見えないものですから、周囲の社員に直接見えていても余り目立たないのよ」

「それでは会社に居ても此処と同じないではないですか。ではどうして辞めたのか当時はまだ五十代で定年でもないのに……」

「伯父は表面は何事もなく、日々会社で仕事の真似事をして過ごしていても、気持ちは穏やかでなかったようなの」

 言われるのが嫌でサッサと仕事を熟す人と、言われるのを判っていながらやらない人。此の違いは阿倍先生からどう教わったのか、復習するように彼女は言っている。

「おそらく、それで祖父の死で押さえられていたものから一気に解放されて、此の家に籠もったのかしら」

 あなたは伯父が祖父から抑圧されていたものを探り出さないと、伯父の心の根源はその辺りにあると、素人ながら鋭い追求に山上は圧迫されそうだ。

「冴木さんは、会社では充実感はなかったと言うんですか」

「それはあたしでなく、傍に居た父の見立てで、そこから導いた結果論をあなたに言ってるまで。それを詳しく分析するのがあなたの仕事。先ずは会社関係の人から話を詰めて訊けばどうかしら」

「冴木さんはもうどれぐらい会社とご無沙汰してるんです」

 阿倍先生のお父さんが亡くなって後を追うように祖父も亡くなったそうだ。

「祖父が亡くなって直ぐですから三年半かしら。あたしが父に言われてここに来たのが三年ほど前かしら。四回生の時はここから大学に行って卒業したのよ」

 当時は何でそこまでと考えても、父には伯父が不安だったらしい。

「急に此の家に来て、卒業前の四回生の卒論は大変でしたでしょう」

「それがけっこう参考にして卒論を仕上げましたから、大学生活と此の家がごちゃ混ぜになって、その所為せいか今思うと理想的なシェアハウスだと思えてくるのね」

「それで会社とはもう縁が切れてるんですか」

「それが、そうでもないようなのよ」

 伯父は自分の原稿以外に、社員が寄稿した文書に目を通して校正のようなものもやっていた。現に二階の自室で今もやってるかも知れない。

「冴木さん、今日はどうしてるんです」

 特に決まった日課はなく、ほとんどがその日の思いつきで動いて、目が離せないそうだ。

「ずっと前からそんな放浪癖があるんですか」

「父の話だと若い頃はあちこち気ままに出歩いていたそう。でも、その真意は弟である父も掴みきれないそうなの」

 初見でその人が抱えている心の襞を掴まえれば、何も精神に特化した医者も専門家も要らないんだ。そうか医者が患者を診るには、下僕のように常に顔色を窺ってないと、相手の考えを察しきれないように暫く様子を見るしかない。

「冴木さんの今日の予定がなければ僕にもすることはなさそうだ。どうですか昨日柳沢吉行が言った美紗和さん自身の時間を取り戻しませんか」

「どう言うこと?」

「食事の世話はあなたでなく、通いでも良いからまかないのおばさんを雇うべきです」

 柳沢吉行じゃないが、僅か一日だけの彼女の日常を見ればそう言いたくなる。

「それは昨日も言ったけど、伯父が決めるものでしょう」

「でもあなたの代役です。冴木さんにそれを強要する権利はない」

 彼女は薄笑いを浮かべて、

「日常に変化がなければ症状は判らない。それがあなたのやり方なら、そして伯父を見極めるためなら言ってみましょう」

 今度は意味深い瞳を美紗和は浮かべた。それを見詰めると空虚になり慌てて逸らした。

 俺は阿倍先生の下で一体何を学んできたんだ。普通、何処も異常が認められないと精神科医が判断した人を対象に先生から学んだのに、まだ切っ掛けさえ掴めない、何も手の施しようもないなんて。

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