第15話 コミティア~Side白~
日曜日。朝8時。
あたしは黒澤と、電車に乗っていた。
向かうは、東京ビッグサイト。コミティア、同人誌即売会。
あたしたちの第1作を売る場所。
「……緊張する」
小声で言う。
「……俺もだ」
黒澤も緊張してる。
二人とも、緊張している。
本は、印刷所から会場に直接搬入される手配をした。
30冊。
『隣の席の吸血鬼』。
あたしたちの第1作。
「……30部も、売れるかな」
不安そうに聞く。
「……わからない」
黒澤が正直に答える。
30部。
多いのか、少ないのか。
初めてだから、わからない。
……でも、刷っちゃったし。
印刷所に入稿する時、部数を決めた。
最初は10部でいいかと思った。
でも、単価を見て――
10部だと1冊600円。30部なら480円。
あたしが「単価が高すぎる。30部にしよう」と言った。
在庫リスクより、赤字回避を選んだ。
だから、30部刷った。
……売れるかな。
不安がよぎる。
でも、今更どうしようもない。
電車が、到着する。
国際展示場駅。
東京ビッグサイト。
「……着いた」
「……うん」
二人で降りる。
◆
会場に入る。
すごい人。
すごい数のサークル。
テーブルが並んでいる。
全部、同人誌を売ってる。
「……すごいな」
黒澤が呟く。
「……本当ね」
圧倒される。
でも、あたしたちもその一つ。
受付で、サークル参加証をもらう。
スペース番号を確認する。
「え-24」
「……ここね」
あたしたちのスペース。
テーブルが一つ。
椅子が二つ。
「……ここで、売るんだな」
黒澤が言う。
「……そうね」
スペースの下を見ると、段ボールが置いてある。
印刷所から直接搬入された本だ。
段ボールを開ける。
匂いが、する。
紙の匂い。インクの匂い。
同人誌特有の、あの香り。
……ああ。
これを、あたしたちが作ったんだ。
中には、本。
30冊。
『隣の席の吸血鬼』。
あたしたちが作った、第1作。
一冊、手に取る。
重さがある。物理的な実在感。
見本誌を見た時も思ったけど――
やっぱり、本物だ。
データじゃない。本。
……嬉しい。
すごく、嬉しい。
あたしたちが作った本。
ページをめくる。
表紙。ハルトとルイーゼ。あたしの絵が、綺麗に印刷されてる。
1ページ目。タイトルロゴ。『隣の席の吸血鬼』。
いい感じだ。
2ページ目。
ハルトが教室で目を覚ますシーン。
「吸血鬼の彼女が、俺の性器を吸う――」
……あ。
……え?
もう一度、読む。
「吸血鬼の彼女が、俺の性器を吸う――」
……性器?
……精気、でしょ。
誤植だ。
「精気を吸う」が「性器を吸う」になってる。
……最悪。
エロ漫画なのに。
いや、エロ漫画だからこそ。
この誤植は、致命的。
意味が変わる。
全然、変わる。
……やっちゃった。
手が、震える。
さらにめくる。
3ページ目。問題なし。
4ページ目。問題なし。
5ページ目。問題なし。
6ページ目。問題なし。
……よかった。
他は大丈夫かも――
7ページ目。
……あ。
断ち切りで顔が切れてる。
ハルトの顔が、半分しか見えない。
セリフの吹き出しも、一部切れてる。
「俺は――」の後が切れて、続きが読めない。
……。
……ミスだらけ。
見本誌で確認したのに。
黒澤も、入稿前にチェックしたのに。
でも、気づかなかった。
印刷されて、初めてわかった。
さっきまでの嬉しさが、消える。
一気に、萎える。
「……どうした?」
黒澤が心配そうに聞く。
「……誤植と、断ち切りミスがある」
本を黒澤に見せる。
黒澤が、固まる。
「……あ」
「……誤字1箇所。断ち切りで顔とセリフが切れてる」
「……ごめん」
あたしが謝る。
「……いや、俺も確認したから」
二人とも、黙る。
……でも、もう遅い。
印刷された。30冊。
全部、このミス入り。
「……どうする?」
あたしが不安そうに聞く。
「……売るしかない」
「……でも」
「今更、刷り直せない」
「……」
「……このまま、売ろう」
あたしは、悲しそうに頷く。
……初めての本。
誤植と断ち切りミス付き。
最悪のスタート。
でも――
やるしかない。
テーブルに並べる。
表紙が見えるように。
ハルトとルイーゼが並んで立っている。
タイトルロゴ。
『隣の席の吸血鬼』。
サークル名。
『黒白』。
……あたしたちの本。
全部、並べる。
「……お前の絵、綺麗だな。すごく表紙映えしてるよ」
黒澤が落ち込むあたしを慰めてくれる。
「……ありがと」
あたしたちの本。
実際に、並んでいる。
売り物として。
……売れるかな。
不安と期待が、入り混じる。
値段札を置く。
「500円」
ネットで調べた。
16ページの同人誌は、だいたい300-500円。
あたしたちは、500円にした。
印刷代を回収したいから。
30部×500円=15000円。
印刷代は、14400円。
全部売れたら、600円の黒字。
……でも、全部売れるわけないよね。
現実的に考える。
半分売れたら、いい方。
15部×500円=7500円。
印刷代の半分くらい。
……まあ、それでもいいか。
初めてだし。
開場時間が近づく。
周りのサークルも、準備を終えている。
「……もうすぐだな」
黒澤が言う。
「……うん」
あたしは緊張してる。
心臓がドキドキしている。
……来てくれるかな。
買ってくれる人。
いるかな。
アナウンスが流れる。
「まもなく、開場いたします」
開場。
人が、流れ込んでくる。
すごい数の人。
みんな、目当てのサークルへ向かう。
あたしたちのスペースの前も――
人が、通り過ぎる。
誰も、立ち止まらない。
「……」
「……」
二人とも、黙る。
通り過ぎる人たち。
誰も、あたしたちの本を見向きもしない。
……当たり前か。
あたしたちは、無名だ。
Pixivで少し評価されただけ。
リアルのイベントでは、誰も知らない。
でも――
……一人くらい、来てくれないかな。
期待してしまう。
◆
30分後。
まだ、一冊も売れていない。
人は通り過ぎる。
でも、誰も立ち止まらない。
「……」
あたしは、不安になる。
黒澤も、同じ顔をしてる。
……やっぱり、売れないのか。
現実を、思い知らされる。
同人誌即売会。
プロも、上手い人も、たくさんいる。
あたしたちみたいな初心者の本なんて――
誰も、見向きもしない。
でも、その時――
一人の男性が、立ち止まった。
「……!」
あたしは小さく声を出す。
男性が、あたしたちの本を手に取る。
表紙を見る。
ページをめくる。
中身を確認している。
……買ってくれるの?
心臓が、うるさい。
男性が――
本を戻す。
……あ。
やっぱり、ダメか。
「……」
「……」
二人とも、黙る。
……手に取ってもらえただけでも、すごいのに。
でも、買ってもらえない。
悲しい。
さらに10分後。
今度は女性が立ち止まった。
「……!」
また、期待してしまう。
女性が、本を手に取る。
ページをめくる。
エロシーンを見て――
顔をしかめて、本を戻す。
……あ。
……ダメだった。
「……」
あたしは、落ち込む。
黒澤も、珍しく落ち込んでる。
……やっぱり、売れないのか。
手に取ってもらえても、買ってもらえない。
中身を見て、戻される。
誤植のせいかもしれない。
断ち切りミスのせいかもしれない。
それとも――
単純に、面白くないのかもしれない。
……辛い。
1時間後。
何人かが手に取った。
でも、全員が戻す。
一冊も、売れない。
「……」
「……」
二人とも、無言。
……もう、売れないのかもしれない。
30冊。
全部、在庫。
そんな予感がする。
2時間後。
もう、諦めかけていた。
その時――
一人の女性が、立ち止まった。
……また、ダメだろうな。
期待しないようにする。
女性が、本を手に取る。
ページをめくる。
エロシーンを見る。
表紙に戻る。
もう一度、中身を確認する。
……長い。
いつもより、長く見ている。
そして――
「……これ、ください」
女性が言った。
「!」
あたしと黒澤が、同時に顔を上げる。
「え、あ、はい!500円です!」
あたしが慌てて言う。
声が裏返ってる。
女性が、500円を渡す。
あたしが、本を手渡す。
手が震えてる。
「ありがとうございます!」
あたしと黒澤が、同時に頭を下げる。
女性が、微笑んで去る。
静寂。
「……」
「……」
数秒後――
「……売れた!」
あたしが叫ぶ。
「売れたな!」
黒澤も叫ぶ。
「やった!」
「やったな!」
二人で、ハイタッチ。
周りのサークルが、ちらっと見る。
恥ずかしい。
でも、嬉しい。
一冊。
初めて。
売れた。
2時間かかった。
でも、売れた。
あたしたちの本が。
誰かに、買われた。
……すごい。
感動で、胸がいっぱいになる。
たった一冊。
たった500円。
2時間待った。
何度も戻された。
でも――
すごく、嬉しい。
あたしたちの作品を。
誰かが、お金を払って買ってくれた。
認めてくれた。
……やった。
黒澤と目が合う。
黒澤も、嬉しそうに笑っている。
あたし、涙目だ。
黒澤も、多分、涙目。
「……やったな」
「……うん」
初めての一冊。
絶対、忘れられない。
◆
1時間後。
二冊目が売れた。
男性が、買ってくれた。
「エロいですね」と笑って。
「……ありがとうございます」
あたしたちは、頭を下げる。
さらに1時間後。
三冊目が売れた。
若い男性。
「続き、出ますか?」と聞かれた。
「……頑張ります」
黒澤が答える。
でも――
……続き、出せるかな。
不安がよぎる。
三冊。
三冊しか、売れていない。
周りのサークルを見る。
人だかりができているサークルもある。
次々と本が売れている。
でも、あたしたちのスペースは――
閑散としている。
たまに、人が立ち止まる。
でも、ほとんどが素通り。
テーブルには、まだ27冊残っている。
「……」
あたしは、不安になる。
「……大丈夫か?」
黒澤が聞く。
「……わからない」
あたしは小さく答える。
「……三冊しか、売れてない」
「……ああ」
「……30部も、刷らなければよかった」
あたしが後悔の声を出す。
「……」
黒澤も、同じことを考えてるみたい。
30部。
多すぎた。
10部でよかった。
いや、10部でも売れたかわからない。
……厳しいな。
現実を、思い知らされる。
同人誌即売会。
簡単じゃない。
ただ本を並べただけじゃ、売れない。
知名度。
実力。
宣伝。
全部、必要だ。
あたしたちには、何もない。
だから――
売れない。
さらに2時間後。
四冊目が売れた。
でも、それだけ。
終了時間が近づく。
「まもなく、閉場いたします」
アナウンスが流れる。
閉場。
人が、帰り始める。
あたしたちも、片付ける。
テーブルの上の本。
26冊。
売れたのは、4冊。
たった、4冊。
段ボールに、本を戻す。
重い。すごく、重い。
「……」
「……」
二人とも、黙っている。
言葉が、出ない。
30部刷って、4冊。
売上、2000円。
印刷代、14400円。
大赤字。
12400円の赤字。
しかも、在庫が26冊。
……どうしよう、これ。
また売る機会はある。次のイベントに出ればいい。でも、また売れないかもしれない。
正直期待していた。もっと売れると思っていた。
でも、現実は厳しかった。
黒澤も、悲しそうな顔をしている。
「……ごめん」
あたしが言う。
「……何が?」
「あたしの絵が、下手だから……」
「……違う」
黒澤が即答する。
「お前の絵は、上手い」
「……でも」
「売れなかったのは、俺たちが無名だからだ」
「……」
「お前のせいじゃない」
「……」
あたしは、黙る。
でも、まだ悲しい。
黒澤も、悲しそう。
……30部も刷らなければよかった。身の丈にあった冊数にしておけばよかった。
後悔が、押し寄せる。
◆
帰りの電車。
あたしと黒澤は、段ボールをキャリーカートに載せて重たい足取りで帰路についていた。
在庫26冊。
重い。物理的にも、精神的にも。
「……」
「……」
二人とも、黙っている。
疲れた。悲しい。
でも――
ふと、最初の一冊を思い出す。
2時間待って、ようやく買ってくれたあの女性。
『これ、ください』
あの言葉。あの笑顔。
……すごく、嬉しかった。
「……なあ」
黒澤が言う。
あたしは顔を上げる。
「……4冊、売れたな」
「……うん」
「4人が、俺たちの本を読んでくれる」
「……そうね」
「……すごいことだよな」
あたしは、少し考えて。
「……そうね。無名なのに、4人も」
「……ああ」
「……嬉しいわね」
「……ああ」
二人で、小さく笑う。
在庫26冊。印刷代も回収できなかった。
でも――4人が、認めてくれた。
「……次も、頑張るか」
黒澤が言う。
「……え?」
「次の作品」
「……次も、描くの?」
「……ああ」
あたしは、驚いた顔をする。
「……でも、4冊しか売れなかったのに」
「4冊も、売れたんだ」
「……」
「次は、もっと売れるかもしれない」
「……」
「もっと上手くなって、もっと面白い作品を描けば」
「……」
「もっと、売れるかもしれない」
あたしは、ゆっくり頷く。
「……そうね」
「……次、頑張ろう」
「……うん」
二人で、笑う。
もっと上手くなる。
もっと面白い作品を。
もっと、売れる作品を。
……次こそ。
あたしは、拳を握った。黒澤も、同じように拳を握っている。
二人で、頑張ろう。
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