ご都合主義探偵 権三郎
TT93
第一部『権三郎推参! 犯人? は何者』第一章1〜6
第一章 1
「ウルトラハイパー探偵事務所……よし、ここね」
鳩森郁美は、初めて訪れたその建物を見上げて「なんかイメージと違うなぁ…」と独りごちた。
その探偵事務所は、古びた4階建ての雑居ビルの3Fに所在していた。
築年数35年は軽く経過していると思われる建物に対し、その探偵事務所の看板だけは妙に新しくピカピカとしていて、何ともミスマッチである。
しかも文字のロゴがとっても胡散臭い。『ウルトラハイパー』のカタカナ部分が、まるで特撮ヒーロー番組のタイトルロゴみたいな字体になっている。
だが『探偵事務所』の方は普通のゴシック体だ。インパクトを狙いたいならそこも手抜きすんなよと郁美は思った。
「ホントにここで大丈夫かなぁ」
建物を見ただけでだいぶテンションの下がった郁美だったが、事前のリサーチにおいていま自分の抱えている懸案に関してはこの探偵社に依頼するのがベストだという結論が出ていた。
(ええい、初志貫徹よ郁美。いまから他を探すのは面倒だわ)
いつまでもビルの前に立ち尽くしていては不審者みたいだし、やむを得ず郁美は覚悟を決めた。
ビルの中に入りエレベーターを探したが、この小さなビルにそんな物は存在しないようだった。
郁美はチッ、と小さく舌打ちして、仕方なく階段を登り始めた。
この階段がまた小汚い。しかも幅は狭く傾斜はけっこう急だ。一段づつ上がる度にギシギシと嫌な音を立てる。ビルの内壁も汚く、壁の隅っこには何箇所も蜘蛛の巣が張っている。
(ったく、うるさいわねミシミシと。これじゃまるであたしがデブみたいじゃないの。しかしこのビル、中もきったないわね~。何がウルトラハイパーよ。笑わせんじゃないっつーの)
郁美は心中で毒付きながら3階まで上がり、事務所のドアの前にたどり着いた。
ドアには、例の特撮タイトル風ロゴのネームプレートが張り付けられていた。ただし、外看板は縦書きであったがこちらは横書きだった。
(無駄なとこに労力使ってるわね~)
郁美はそれを鼻で笑い、「さてと」と呟いた。
ドアの周辺を見回したが、信じられないことにベルやインターホンの類は一切ない。しかもドアは無骨で厚みのある金属製で、ノックしても効果は薄そうである。郁美は溜息をついた。
(もう、なんなのここ……)
再び戦意を喪失しそうになった郁美だが、なんとかこらえた。臨時休業でもなさそうなので、いきなりドアを開けるしかないようだ。
ドアノブを掴むと改めて少し緊張した。鍵はかかってないようだ。
(見るからに胡散臭い感じだけど、もうここに賭けるしかないのよ! さあ、勇気を出すのよわたし!)
そう無理矢理に己を鼓舞し、思い切って勢いよくドアを開けた。
「すみませーん」
緊張のせいか声が少し裏返った。
だが返事はない。
入口から見える範囲に人はいないようだ。
「あの、すみませーん!」
今度は大声で呼んでみたがやはり返事はない。
「あのー、調査の依頼に来た者なんですけどー。とりあえず中に入ってもよろしいですかー!」
さっき以上の大声で呼びかけてみたが、依然として返事はない。今度こそ郁美は呆れた。
「まったく、なんなのよここは! 馬鹿にしてるわ!」
そう吐き捨てた郁美が、怒りに任せて踵を返そうとした瞬間、室内の奥の方から男がドタバタと慌ただしく駆け寄ってきた。
「ちょっと、ちょっとお客さん、待って! 帰らないで! そんなに怒らないで!」
男はゼイゼイと息を切らしながらそんなことを口走った。
「え、いたんですか? 私、結構大声で何度も呼んだんですけどぉーー」
郁美は口を尖らせて嫌味ったらしく語尾を延ばした。
「いや~、誠に申し訳ない美しいお嬢さん! これは大変な失礼をしてしまいましたな。失敬失敬」
「はぁ……まあいいですけど」
変なお世辞まで言い出した男に、誠意を感じたというよりは毒気を抜かれた感じの郁美だった。とりあえず帰るのはやめてやるか、と考え直す。
「あの、何かお取り込み中だったんですか?」
郁美が尋ねると、男は全く悪びれる様子もなく、偉そうに腕を組んで喋りはじめた。
「いやぁ、実はその、お客さんの声は聞こえていたんですがね。ただ、まさにそのとき、トイレで便秘と格闘中でして。いやぁ、出るか出ないかの瀬戸際だったもので、返事をする余裕すらなく」
「ああ、もういいですから。分かりました」
男はまだ何か喋ろうとしていたが、郁美が遮った。
男は一瞬バツの悪そうな表情を浮かべたが、すぐ笑顔に戻って、
「と・に・か・く!」
突如、胸の前で両拳を握り締め、大仰にタメを作った。
「このドアを開けたその瞬間に、もうお客様の悩みは解決されたも同然! 大船に乗ったつもりで、この私にす・べ・てお任せあれ!」
男は満面の笑みを浮かべながら、そんな無責任な台詞を恥ずかしげもなく言い放った。
この男、さっきは「お客さん」と言ってなかったっけ。その一貫性の無さにも胡散臭さがプンプン漂う。
「はあ、じゃなくてはい、よろしくお願いします」
郁美は既に断りたくなっていたが、儀礼的に棒読みで挨拶を返した。
「ささ、では中へどうぞ。汚いところで恐縮ですが、コーヒーの味にはちょっと自信アリですぞ」
男はシャーシャーとそんなことを抜かしつつ、薄気味悪い手つきで恭しく郁美を手招きした。
(この人、ここが汚いって自覚は一応あったのね……)
郁美はそんなことを思いながら、言われるまま仕方なく室内に入っていった。
第一章 2
「さ、どうぞお嬢さん。道中お疲れになったでしょう。まずはそこのソファーにお掛けになって下さい!」
男は郁美を事務所に招き入れると、客用とおぼしきソファーを指差して、彼女にそう声をかけた。
「どうも。それじゃ遠慮なく」
いかにも安物っぽいそのソファーは、かなりの年代物らしく、全体的に褪色が激しかった。素材は合成樹脂のようだ。
郁美はソファーに座った。見た目はあまり良くないが、座り心地は悪くない。これでやっと一息つけるわと、郁美がホッとしたその刹那。
ドスン!!
轟音と共にソファーの底が抜けた。
「きゃっ!」
ソファー内部の骨組に背中と太腿を挟まれるような形で、郁美の身体がくの字に曲がった。
「いった~い……なによこれ~、信じらんなーい!」
尻を強打した郁美は、痛みに喘ぎながらも精一杯の悪態をついた。
「あわわわ、だ、大丈夫ですかお嬢さん!」
男は蒼白になって郁美のもとに駆け寄ると、背中と膝の裏に手を掛け、お姫様だっこの要領でソファーの残骸から郁美の身体を引っこ抜いた。
「う、重い……」
「失礼ね!あなたが非力なだけでしょ!」
男はとりあえず自分用のソファーに郁美を降ろして、冷蔵庫からアイスノンを取り出しタオルを巻いて持ってきた。
「お嬢さん、ひとまずこれを尻の下に置いて患部を冷やして下さい!」
「サラッと尻とか言わないでよ!・・・でもそれはお借りします」
郁美は仏頂面でアイスノンを受け取り、尻の下に差し入れた。
郁美が尻をクールダウンさせている間に、男は奥の方にある別室に行って何やらガタガタと物音を立てていた。
郁美は、先ほどの自分のあられもない姿を思い出し、今日は短いスカートを履いてこなくてよかったと思った。もしミニなど履いてきてたら、あの男に下着を見られてしまっていただろう。
尻の痛みがようやく引いてきた頃、男が何かを携えて別室から出てきた。
「ふー、やっと見つかった」
悠長にそんなことをほざきながらこちらに向かってくる。どうやらパイプ椅子を持ってきたようだ。
男はテーブルを挟んで郁美の対面側にパイプ椅子を置き、よっこらせ、などと言いながら椅子に腰を下ろした。
「いやあお嬢さん、本当に大変に失礼いたしました~。もう尻の痛みは引きましたかな?」
「だから尻言うな! ……コホン。まあだいたい引きましたけど、まだ背中と足がちょっと痛いです」
「いやぁ、まさかこんなことになるとは、さすがの私も予想していませんでした。一寸先は闇とはこのことですなハッハッハ」
男のその態度に反省の色は窺えなかった。
自分をこんな目に遭わせておきながらハッハッハだぁ? 郁美の瞳に怒りの火が灯った。
「えっと、探偵さん、そのソファーって何年くらい使ってたんですかね?」
怒りを何とか抑え込んで郁美が尋ねた。
「ええと、年数とかはわからんのですよ、その、恥ずかしながら中古品でしてね」
「買ってからどのくらい経ったんですか?」
「まだ買ったばっかりですよ」
「え、マジで……。その、中古が恥ずかしいとは思いませんけど、いまどきリサイクルショップだってそこまで古い物は売らないと思うんですが。いったいどんな店で買ったんですか?」
「ああ。店じゃないです。バザーですよ。あの公園なんかで時々やってる」
道理で。郁美は話が見えてきた気がした。
「バザー・・ですか。ちなみに、幾らで買ったんですか?」
「あ、その、5円です」
「5円!」
そんなものほぼゴミも同然ではないか。この男は、大事な商談に使う客用ソファーに5円しか投資しなかったのだ。なんというか、商売を舐めてるとしかいいようがない。
「あのー、やっぱり帰ってもいいですか」
郁美がそう言って立ち上がろうとすると、男は跳ねるように椅子から立ち上がって、郁美の傍に走り寄ってきた。
「待って!短気は損気ですよお嬢さん!」
男は郁美の両肩をバッと掴み、そんなことをのたまった。
「もう、触らないで下さい、セクハラで訴えますよ」
「あっ、すみません!焦りのあまりつい…」
男は照れ笑いしつつ、パッと手を離した。
「せっかくこんな所まで来たんですから、せめて話だけでも聞かせて下さいよ。もし依頼して下さるなら、調査費用も勉強させてもらいますから。ねっ♡」
何が「ねっ♡」だ、気持ち悪い。その媚態に郁美はキレそうになったが、理性をフル稼働して何とかこらえた。
「その~、看板なんかに無駄な費用をかける余裕があったら、基本的なところをちゃんとした方がいいと思うんですけど~」
郁美は嫌味たっぷりにそう言ってやった。
「うーむ、お説ご最も。しかし、アレですよお嬢さん。そう、コーヒーだ。当事務所自慢のコーヒーを、お嬢さんはまだ飲んでないじゃありませんか!ここまで来たんですから、せめてコーヒーくらいは飲んで行って下さいよ。帰るのはそれからでもいいじゃないですか」
男は哀願するように郁美を引き止める。なんかもう、怒ることさえアホらしくなってきた郁美は、とりあえずコーヒーを飲んで落ち着くことにした。
「もう……仕方ないですね。とりあえず帰るのはやめますから、まず一息つかせて下さい」
「あ、ありがとうございますお客様!早速コーヒーを淹れますから、まずはゆっくりとお寛ぎ下さい!」
男は嬉しそうにそう言うと、奥の方へスタスタと歩いていった。郁美はそこで基本的な疑問が浮かび、男を呼び止めた。
「あのー、探偵さん」
「ん、何か?」
「コーヒーって、探偵さんが淹れるんですか?」
「はい、そうですけど」
「あの、いまさらですけど、ここって事務の人とか雇ってないんですか?」
「ええ。私一人で全部やってますんで」
男はあっさりそう言った。
「そうですか、それは大変ですね」
「ははは、まあ慣れですよ」
男は苦笑いしながら、今度こそ奥の方へ向かっていった。
男を待っているあいだ、郁美はここに来た経緯を思い出していた。最初は普通に電話でアポイトメントを取るつもりでいたのだが、この事務所に電話をかけた時、繋がったのは留守電だった。そのメッセージは、なぜか綺麗な女性の声で「当事務所は、電話によるアポイトメントは受け付けておりません。ご依頼希望の方は午後2時くらいに直接事務所までお越し下さい。あ、月曜は定休日なのでそこんとこヨロシクね♡」というふざけたものだった。まあそれには目を瞑ってやるとして、郁美はこの事務所が電話でアポを受けないのは、ここが『難事件専門』と銘打っているからだと思っていた。仕事を厳選するがゆえに敷居を高くしているのだろうと、あえて好意的な解釈をしていた。
だが郁美はいま、なぜこの事務所が電話によるアポを受け付けていないのか、その真の理由が何となく分かった気がした。
(事務所なのに、事務員がいなかったからなのね・・・)
第一章 3
コーヒーを淹れに行った男はなかなか戻って来なかったので、郁美は退屈しのぎに事務所の中をおもむろに見回してみた。
この応接室の広さは概ね12畳といったところだろうか。室内には、くだんのソファーとテーブルのほかに、事務机が一基と、そう大きくもない戸棚と本棚が一架ずつあるだけで、色気も素っ気もない。
三方の壁には、ポスターや額縁の類は一切なく、カレンダーの一枚すら貼られていない。安物っぽい掛け時計と、昭和の香り漂う大きなクーラーが設置されているだけだ。そのコンクリートの壁の色は元々は白かったようだが、全体的に黄ばみがひどく、至るところに大小のヒビが入っている。
北側はほぼ一面ガラス張りになっているが、窓ガラスは満遍なく汚く、半ば曇りガラスのようになっていた。窓には事務所の名前と電話番号と「難事件専門」のカッティング文字が貼られている。ちなみにこちらの文字は全部普通の字体である。
事務机も、いかにも年季が入っていそうな感じの、一目で安物と分かる代物だった。あの男のことだから、どうせ倒産した会社あたりからタダ同然で引き取ってきたのではあるまいか。そう郁美は想像した。
テーブルも、粗大ゴミ置き場からそのまま持ってきたのではないかと疑ってしまうほど粗末な物である。表面も汚く、しばらく拭いてないのは明らかだ。
床も薄汚い。ホコリが目視できるレベルで散乱している。ほとんど掃除などしていないのだろう。
こんな無骨な部屋を見回してみたところで暇つぶしにもならなかった。ウルトラハイパーどころか、まるで夜逃げ寸前のオフィスみたいである。
待ちくたびれた郁美がとりあえず携帯でも弄ってようかと思った矢先、奥の別室のドアが開いた。
男が盆の上にコーヒーカップを載せてこちらに向かってくる。
「お待たせしました~」
よほど味に自信があるのか、男は妙に嬉しそうな顔をしている。
そのカップからは馨しい香りが・・あまり漂ってこなかった。
「結構時間かかりましたね。期待していいのかしら?」
郁美はなるべく険のない口調を心がけて言った。
「もちろんですとも!3種類を配合し、私が研究を重ねて生み出したスペシャルブレンドですぞ。ささ、どうぞ!」
男はそんなことを言いながら恭しくソーサーに載せたコーヒーカップを郁美の前に差し出した。
3種類か、これは期待できそうね。と郁美は心の中で舌舐りした……が。
「ミルクと砂糖はお好きにお使い下さい」
そう言って彼が傍らに置いたのは、いかにもお買い得品という感じのスティックシュガーとコーヒーフレッシュだった。郁美は軽く嫌な予感がした。
「ありがとう。まずは少しブラックで頂きますね」
郁美はまずブラックで二口ほど飲んでみた。
(フツー……ね)
コーヒーの味は驚くほど普通だった。
特にブラック派ではない郁美は、今度は砂糖とミルクを一つずつ入れてみたのだが、コーヒーのどうってことない味は相変わらずである。
「あの、探偵さん」
「はい、なんでしょう。あまりの美味さに感動しましたか?」
「……。その、このコーヒーすごくフツーっていうか、ぶっちゃけ全然たいしたことないんですけど」
実は、郁美はコーヒーにかなり拘りがある方だった。家で飲む時もコーヒーメイカーで豆を挽いてドリップしている。
この男は、唯一? コーヒーにだけは絶対の自信を持っている口ぶりだったので、かなり期待していたのだ。だがこのコーヒーは到底人様に自慢できるような上等な代物ではない。そう感じた郁美はつい非難するような言い方をしてしまった。
「え、そんなハズは。これは私が研究に研究を重ねて……」
男はムキになって「研究」とやらを殊更に強調した。
「3種類を配合、とか仰ってましたけど、差し支えなければ豆を見せてくださいませんか? あたし、こう見えてもコーヒーには結構うるさいんです。ていうか、差し支えがあっても見せて欲しいんですけど!」
郁美は有無を言わせない口調で男に迫った。やはりこいつはどうも信用ならない。度重なる不信感がつい彼女をヒートアップさせてしまった。それに郁美にもコーヒー好きとしてのプライドがある。自分がイマイチだと思った以上、このブレンドの正体を暴かずにはいられない衝動に駆られてしまったのだ。
「むう、仕方ありませんな……。これは秘伝の、門外不出のレシピだったのですがね。ま、そこまで仰るならお教えしましょう!」
男は顎に左手を添えて、勿体つけた調子でそんな大仰なセリフを吐いた。
郁美は男に教えを乞うたつもりなど1ミリもなかったのだが、彼の中ではそういうことになっているらしかった。
しかし冷静に考えれば、コーヒーに関してはこいつが達人という可能性も皆無ではない。もしかすると、悔しいけど自分より上等な味覚を持っているかもしれないのだ。
味が分からないのは郁美の方だったとしたら恥をかくことになるが、それでコーヒーの知識が増えるなら良しとしよう。郁美はそう考えることにした。
そんなこんなで男に先導され郁美は別室に入った。さあ、秘伝のレシピとやらを見せてもらおうじゃないの。きっとあたしが聞いたこともないレアな豆を拝ませてもらえるんでしょうね、などと思いながら鼻息荒く男について行った。
しかし、室内にはコーヒーメイカーらしき機材や、コーヒー豆の袋といったものは見当たらない。
郁美が違和感を感じつつ待っていると、男は戸棚から何かを取り出して彼女の目の前に掲げた。
「まず、これが45パーセントです」
それはインスタントコーヒーの瓶だった。
「何これ、インスタントじゃない!」
「ええ、そうですが」
「やっぱりそういうオチか~~!!」
郁美は天を仰ぎ絶叫した。
「騙したのね。だってさっき、3種類の豆を配合して、なんて言ってたじゃない!」
郁美にそう非難されても、男は涼しい顔で反論してきた。
「私は『3種類』とは言いましたけど、『3種類の豆』なんて一言も言ってませんよ」
「アンタね、そういうのは詭弁っていうのよ!」
とうとう郁美はブチ切れた。だが男に怯む様子は全くない。
「とにかく、私は嘘はついていません。あとはこれが35パーセント、これが20パーセントです」
彼はそう言って、戸棚の中からもう2本、さっきとは違うインスタントコーヒーの瓶を取り出し、これ見よがしに郁美へ見せつけた。
「この3つの銘柄を、この比率でブレンドするのが究極なのです。私が気の遠くなるような長年の努力で編み出した、至高の黄金比というわけですよ」
男は陶然と目を瞑り、独りで勝手にウンウンと頷きながら、偉そうに腕を組みつつそう自画自賛するのだった。
「何が長年の努力よっ!だいたいインスタントコーヒーなんて数年おきに新製品と入れ替わるじゃないっ」
そう郁美に突っ込まれても男は意に介さず、「貴女は何も分かってない・・・」と溜息をついてから、上着のポケットからメモとペンを取り出した。
「お嬢さん、このレシピ、メモしてお渡ししますよ」
「いらんわっ!」
郁美は憤然と吐き捨てた。
「一杯飲んだだけじゃ良さが分からないのも無理はありません。是非ご自宅でも毎日試してみてください」
だが男はお構いなしにそう言って、メモに文字を書き始めたので、郁美は慌ててそれを止めた。
「だからいらんちゅーのに。探偵さんも強引な人ですね~」
郁美に拒絶されると、男はさも残念そうな顔をして言った。
「お嬢さん、あまりインスタントを軽視するのは良くないですぞ?それは飲料メーカーに対する冒涜であり、偏見です。差別とは感心しませんな」
そう語る男の目には、憐れみとも軽蔑ともとれる光が宿っていた。
「なにが差別よ。ただの区別でしょ!」
「お嬢さん、インスタントはまともなコーヒーに非ずという考え方は、実に偏狭極まりない小さな思想です。それは世の中すべてのコーヒーを侮辱することであり、ひいては貴女自身の人格さえも偏狭なものだと誤解されかねない危険を孕んでいる」
ドサクサに紛れて男はとんでもないことを言いだした。
「孕んでませんっ! どうぞご心配なく。とにかくもう探偵さんの言うことは全部、話半分で聞かせてもらいますから」
ようやく郁美は悟った。こいつのペースに巻き込まれたら負けなのだと。
「それでは、インスタントに対する偏見は取り去って頂けないということですかな?」
男はよほどインスタントコーヒーに愛着があるのか、しつこく食い下がってくる。
「別に偏見なんてありません! ただあんな前フリされたら、フツー誰だってインスタントが出てくるとは思わないでしょっ!」
「ですから、そういう先入観そのものが既に偏見だと私は言いたいのです」
ああ言えばこう言う、である。郁美は溜息をついた。
「もー……。これ以上探偵さんとコーヒーについて議論するつもりはありませんから。それよりも本題に入りましょう。本題に!」
郁美はいい加減男の相手をすることに疲れ、さっさと用事を済ませてこの場から早く立ち去りたいと思い、先を促した。
「仕方ないですな、分かりましたよ。あーあ、せっかく門外不出のレシピを公開してあげたのになー。あとで後悔してももう教えてあげませんからねー」
男は拗ねた子供のように、まだブツクサとそんなことを言っている。
「いいから! さ、場所を変えましょう」
郁美はそれに取り合わず、男を引っ張って足早に応接室へと歩を進めた。
「あたし、鳩森郁美っていいます。鳥の鳩に森、榊○郁恵の郁に美しい、です」
相談の冒頭で、郁美はまず早口にそう名乗った。
「ほう、はともりいくみさん。これは素敵なお名前ですな」
「それはどうも」
「しかし、随分と懐かしい芸能人の名前がスっと出てきましたな。貴女、若く見えますけど実は結構なお年とか?」
「失礼な! 25です。郁恵さんはうちらの世代だって結構知ってますよ、バラエティーとかで。あーそんなことはどうでもいいんです。ええと、職業は派遣で事務やってます」
早く帰りたいがあまり、郁美の口調はかなりぞんざいになっていた。とにかく要点だけ話せばいい。もうこの男に関して残っている興味は探偵としての実力だけだ。
「ほうほう。いわゆるOLさんですな。いや、こういう言い方はもう古いのかな?確かいまはビジネス、なんとかとか」
「ビジネスパーソンでしょ。まーあたしはそんな大層なもんじゃありませんけど。しがない派遣ですから」
謙遜ではなく本心だった。郁美は現在の仕事を単なる食う手段と捉えている。
「いやいや、派遣だって立派なもんですよ。さて、では鳩森さんのことをざっと紹介して頂いたところで、私の方も自己紹介させてもらいましょう」
男はそう言うと、スーツの上着の胸ポケットから芝居がかった手つきで名刺を1枚取り出して、スっと郁美に手渡した。
「えっと。おおやま、だ、けん、さぶろう…さん。ですか?」
郁美がたどたどしく尋ねると、男は「フッ」と気障ったらしく微笑んで、チッチッチッと人差し指を顔の前で振った。
「おおやまだ、ごんざぶろうと読みます。け・ん、ではなく、ご・んですね。そう、私の名は大山田権三郎……」
男はそこまで言うと、突然、親指と人差し指を立てた右手を、びしっと胸の前にかざした。どうやら決めポーズのつもりらしい。
「人呼んで、ウルトラハイパーデラックスな私立探偵、権三郎!! 以後、お見知りおきを~」
男-大山田権三郎は、そんな厨二臭漂う恥ずかしい見栄を切って、高らかに名乗りを上げたのだった。
郁美はそこでまた軽く溜息をついた。
(は~。今度は「デラックス」までオマケについてきやがったよ……)
第一章 4
その、権三郎の痛々しい自己アピールに内心ドン引きしながらも、郁美はあえて平静を装うことにした。
「へえ、ごんざぶろうさんねぇ。随分とクラシックなお名前ですね」
郁美はなるべく無難そうなコメントを発した。
「よく言われます」
権三郎は特に気を悪くした様子もない。自分でもそう思っているのだろう。
「それにしてもこの名刺……」
そこでふと郁美は、手に持った名刺を見つめながらポツリとつぶやいた。
「ん、名刺がどうかしましたか?」
「赤地に金文字って、またえらくド派手ですね」
郁美は少なくとも堅気の相手からこんな奇抜なカラーリングの名刺を貰ったことはなかった。まあ探偵という仕事が堅気なのかは微妙なところだが。
「いやぁ、お褒めにあずかり恐縮です」
権三郎は何を勘違いしたのか、ポリポリと頭を掻きながらテレ笑いを浮かべた。
「別に褒めてませんけど。でもこれってなにげにコスト高そうですよね」
その特注と思われる加工は、通常の物よりだいぶ値が張りそうな感じである。
「まあ、それなりの費用はかかりましたな。私はインパクトを重視してますのでね」
そう語る権三郎の表情はどこか誇らしげだ。
「ホントあなたって、こういう変なとこにはお金かけますよね~」
郁美は軽く嘲るような調子で言った。すると、権三郎は初めて郁美に対しムッとしたような表情を見せた。
「それに」
郁美にはまだ言いたいことがあった。
「まだ何か?」権三郎が訝しげな顔をする。
「この肩書きのところ、『所長兼探偵』ってそのまんま過ぎませんか?」
郁美は違和感をそのまま口にした。普通、名刺の肩書きに『兼』なんて表記はしないのではないかと思ったのだ。
「特に変ではないと思ってますが。事実そうですからね。私は、形式に囚われすぎるのが日本人の悪い癖だと思っておりますので」
その問いに、権三郎は怒る風でもなく淡々と答えた。
郁美はそこで初めて、ちょっと言い過ぎたかなと反省する。
「あ、ごめんなさい。今のはあたしの失言でした。一人で全部やってるんですもんね。別に変じゃないのかも」
郁美は素直に謝った。
「いやいや、別に怒ってませんよ」
権三郎は穏やかにそう言った。郁美が珍しく殊勝な態度を見せたのが嬉しかったようだ。
郁美はちょっと自己嫌悪した。最低限の会話でさっさと話を進めようとさっき誓ったばかりなのに、何かが気になるとどうしても突っ込まずにはいられない。スルーができない、そういう性分なのだ。権三郎は確かに変な奴だが、自分のツッコミ体質もなかなかに厄介である。
しかしこの権三郎という男、よく見ると妙に年齢不詳な外見をしている。先ほどの邂逅以来、この男の奇天烈なペースに振り回されて顔などじっくり見る余裕もなかったが、いったい何歳なのだろうか?
20代のようにも見えるし、逆に40歳だとしてもさほど違和感がない。目は三白眼気味で、眉毛は薄い。何処となく機械のような雰囲気だ。イケメンというほどではないが顔立ちそのものは割と整っている。ぱっと見、皺やほうれい線も見当たらない。髭は剃っているが、顎のあたりに剃り残しの無精ひげが目立つ。メガネはかけていない。髪はサイドと後ろが肩口のあたりまで無造作に伸びており、緩やかなウェーブがかかっている。前髪は意識的に盛ってるのか分からないが、ふんわりと量が多く目にかかるほど長い。最低限のセットはしてるようだが全体的にラフで、やさぐれたホストのように見えなくもない。ただ髪の色はほぼ黒い。体格は普通ぽい感じだが、背はそこそこ高い。特に腹も出てないようだ。
服装は安物っぽいけどまだ新しそうなグレーのスーツをラフに着こなしている。Yシャツも普通の白だ。平凡といえば平凡で、その奇矯なキャラには不似合いの地味な出で立ちといえなくもない。ただしネクタイだけは赤・青・黄の3色ストライプという変わった柄で、そこに唯一彼らしい個性が感じられた。まあどちらかといえば青年風なのだが、その妙に落ち着いた口調や物腰、地味なスーツなどは中年のようでもある。
「鳩森さん、どうしました?」
さっきから郁美が黙ったままじっと自分を見つめていることに気づいた権三郎が、そう尋ねてきた。
「いや、ちょっとボーっとしちゃって。すみません」
郁美がそう答えると、権三郎はニヤッとやんちゃな男子小学生のような笑顔を浮かべた。
「あ、もしかして私に見とれていたとか?」
権三郎は図に乗ってそんな軽口を叩いてきた。郁美は顔がカッと熱くなった。
「なっ、バカな! 何よそれは」
郁美は真っ赤になって抗議した。
「ハハハハ。では私の顔になにか付いてますかな?」
権三郎にあっさりそう返されたので、郁美は素直に訊いてみることにした。
「そのぉ、たんて、じゃなくて、大山田さんって」
「あ、無理に名前で呼ばなくてもいいですよ」
権三郎がそう言ってくれたので、郁美はそれまで通りにすることした。五文字の苗字はちょっと長くて微妙に発音しにくい。
「それじゃお言葉に甘えて。ところで、探偵さんっていったいお幾つなんですか?」
郁美の問いに、権三郎はキョトンとした顔を見せた。
「幾つって…コーヒーに入れる砂糖の数ですか?」
彼は性懲りもなくコーヒーネタを絡め、ありがちなボケをかましてきた。
「違いますって、お約束だなぁ。あとコーヒーネタは禁止! だから歳ですよ、年齢」
郁美がそう問い直すと、権三郎は「ああ、そっちね」と白々しく呟いた。
「幾つに見えます?」
「そういう定番のやりとりは望んでませんから。察しがつかないから訊いてるんです」
郁美がクールに返すと、権三郎は「ちぇ、つまんないの」と子供のような反応をした。
「31です。先月なったばかりですよ」
権三郎はぶっきらぼうな調子でそう言った。
「え、31! 意外に若いんですね。探偵さんっておじさんみたいな口調で話すから、もう少しいってるのかと思ってました」
郁美はなぜか、その31という実年齢に意外さを感じ、少し興奮してしまった。
「鳩森さんさっき『察しがつかない』って言ってませんでしたか? そうか、私ってそんなにおじさんだと思われていたんですね。ショックやわぁ」
権三郎は割と傷ついてる様子である。それならもっと若々しい口調で喋ればいいのにと郁美は思った。
「あ、すみません。年齢不詳だと思ってたのはホントです。若いなら若いで、全然違和感ないですよ!」
郁美はフォローだか何だかよく分からないことを言った。
「まあいいです。おじさんはおじさんらしく、大人として頼もしい仕事ぶりをお見せするだけですから。あはは……」
権三郎はそう言って力なく笑った。
「もう、だから31に見えますって! まだおじさんじゃないですから。そんなに凹まないで下さいよー」
おじさん、などと余計なことを言ったせいで、郁美は凹んだ彼をなだめる破目になってしまった。
(31か…。意外と近いな。あたしと6つしか違わないのね、こいつ)
権三郎のご機嫌を取りながら、そんなことを思う郁美であった。
彼の機嫌が直ったところで、郁美はようやく本題に入った。
「依頼というのは、あたしの父のことなんです」
「ほう。お父上がどうかなさったのですか?」
「父が……何者かに殺されたんです」
郁美は激情をこらえるように言って、この事務所に来て初めて見せる真剣な眼差しで権三郎の目を見た。
「それはお気の毒に…。そうでしたか、お父上が。それで、殺されたというからにはもちろん警察の捜査は入ったのですよね?」
権三郎は神妙な顔をして郁美の父を悼んでから、探偵らしい鋭い目つきになってそう尋ねてきた。
「もちろんです。でもこの件は、事件というよりも事故として、警察は処理をしてしまったんです」
そこで郁美は含みのある言い方をした。
「どういうことですか? あなたは父上が『殺された』と主張されてますが、警察の見解は違ったということでしょうか」
権三郎に問われると、郁美は事件当時のやりきれない気持ちを思い出して、思わず俯いてしまった。
「そういうことです。ただ警察も、父が何者かに殺されたという事実は認めています」
郁美は俯きながら、囁くようにそう言った。
「むう? それはつまり、犯人に殺意は無かったものの、結果的に父上を死なせてしまったとか、そういう過失致死的な判断だったのですか? しかしあなたの口ぶりだと、まだ犯人は捕まっていないようですが…?」
権三郎が不思議そうな顔で訊いてくる。
そこで郁美は妙なことを言った。
「犯人はまだ捕まってません。でも容疑者は特定されています。そもそも、その『犯人』という呼び方にも当てはまるのかどうか」
「どういう意味ですか?」権三郎が詰め寄ってくる。
「警察がいうには、その容疑者って……」
郁美はそこで一呼吸置いてから、喉から絞り出すような小声で告げた。
「熊、なんだそうです……。あの動物の」
第一章 5
「熊、ですか!?」
容疑者は熊。
郁美のその発言には、さすがの権三郎も驚きを隠せない様子であった。
「はい、熊です。父は熊に襲われて亡くなったというのが、警察の見解です」
郁美は権三郎から視線を逸らし、モジモジと指を絡ませながら恥ずかしそうに告げた。
「なるほど。熊ね……」権三郎が小声で呟く。
そこで十秒ほど沈黙の時が流れた。権三郎がなんともいえない微妙な表情をしているのが、見なくても雰囲気でわかる。
「しかし、それならやはりこの件は事故なのではないですか? 貴女のお父上は不幸なアクシデントによって一命を落とした。残念ですが、それが厳然たる事実なのでは……」
程なくして権三郎は、そのように常識的な見解を述べてきた。口調こそ穏やかであるが、郁美を見つめる彼の眼差しは完全にイタい人に向けるそれである。
郁美は失望した。
実は、彼女はここに来る前に数件の探偵社を訪れていた。だがどこに行っても、熊が絡んでくると知った途端、急に態度が変わり、お引取り下さいという流れになってしまう。郁美が諦めかけたそのとき、信用できるある筋から、難事件・怪事件のたぐいなら、この探偵事務所がお勧めだと言われたのである。だから一縷の望みをかけてここまでやってきたのだ。何だかんだ言いつつ権三郎の奇矯な言動に目を瞑ってきたのも、ここならちゃんと話を聞いてもらえると期待していたからだ。だが結局いつものパターンである。容疑者は熊だといえば、権三郎は自分も変人の分際で郁美をイタい子扱いしている。熊が絡んでくればそれは必ず事故なのか? 犯罪性はゼロなのか? やはりここも警察や普通の探偵社と同じではないか。
「へぇ。探偵さんも案外普通なこと言うんですね。難事件専門なんて謳い文句のくせに、ここもやっぱり他の所と変わらないんだ」
郁美は失望を隠そうともせず、斜め下の方向に視線を泳がせながら、不貞腐れた調子でそう吐き捨てた。
すると権三郎は、プライドを傷つけられたのか、いかにも不本意だといわんばかりの表情を見せた。
「何をおっしゃいますか!不肖この大山田権三郎、地球上に解けない謎はないと自負しております。むしろ、難しければ難しいほど燃えてくるのが私の性分です。ダテに難事件専門を謳っちゃぁいませんぜ!」
権三郎が吼えた。
「へぇ~。でもその割りには、『熊』というキーワードを出した途端に、探偵さん明らかに引いてましたよね?」
郁美はまだ拗ねた口調のままでそう続けた。
「別に引いてませんよ」
「嘘だぁ。引いてましたよ。どうせあたしのこと馬鹿な女だと思ったんでしょ?」
拗ね続ける郁美をなだめるように、権三郎は「いやいやそんな」と手を振った。
「まあさすがの私も、熊探しを依頼されたのは初めてですからね。ちょっと驚いただけですよ。なあに、難事件に貴賎はありません」
権三郎は強がるようにそんなことを言った。
「え?」
そこで郁美は動揺した。
「でも、ホントに探すんですか? 熊……」
さっきの威勢はどこへやら、権三郎は目を泳がせながら、情けない声でそんなことを言う。
「ええぇ~~っ!?」
そこで郁美は叫んだ。
「ど、どうしました鳩森さん?」
権三郎はビックリした様子で郁美に声をかけてきた。
ここにきて郁美は、権三郎がある誤解をしていることに気づいたのだった。
「それ、探偵さんの早とちりです。いくらなんでも熊探しなんて探偵事務所に依頼しませんよ! それなら猟師の方にお願いしますって。あたしが頼みたいのは、もっと違う角度からの調査です」
郁美はそう言ってさっそく権三郎の誤解を解いた。いやはや、とんでもない誤解をされたものである。熊探しとなれば、そりゃ権三郎でなくとも尻ごみするだろう。郁美もさすがにそこまで馬鹿ではない。彼女が頼みたかったのは、警察や猟師には頼めない違う角度からのアプローチであった。
「なんだ……そうだったんですか。いやぁ命拾いしたなぁ」
権三郎は安堵の溜息をついたようだ。思わず本音が漏れたところにそれは伺える。
「ごめんなさい。あたしの説明が下手だったせいで誤解させちゃったみたいですね」
郁美がそう謝ると、権三郎は微苦笑を浮かべながら答えた。
「いやいや、鳩森さんのせいじゃありません。先走ったのは私の方ですよ」
雰囲気が柔らかくなったところで、権三郎が郁美に尋ねてきた。
「お父上が熊に襲われたらしいということ、少なくとも警察がそう結論付けたのはわかりました。しかし、あなたのいう『違う角度からの調査』とは、具体的にどんなことなのでしょう?」
そう問われた郁美は、今度は誤解されないよう思考を整理しつつ上手な説明の仕方を考えた。まず、この件のいったい何が異常なのか。郁美がこれを「事故」ではないと感じた根拠は何なのか。それを話すことにした。
「はい。上手く説明できるか自信ないですけど、それをお話します。まず最初にあたしが変だと思ったのは、父の遺体が発見された場所です」
「ほう」
郁美のその発言を受けて、権三郎の眼が鋭く光った。
「そこは、一応山の中ではあったのですが、いまだかつて熊なんて一度も出たことがないらしい区域だったんです」
第一章 6
遺体発見現場に違和感を感じたという郁美の発言に、権三郎は大いに興味をそそられたようである。その反応に郁美は手応えを感じた。
「ほぅ……熊など出そうもない区域であると。そこは、具体的にどういった場所なのでしょうか?」
「まず大まかな場所をいうと、S県のH町というところの、ある小さな山の中です。あたしの自宅から車で20分ほどのところにあります」
「それは近いですね」
「はい、どこにでもあるような、そこらへんの低い山です」
郁美は『そこらへん』という部分を強調した。
「なるほど、S県ねぇ…そのH町というのは、S県のどのあたりに位置してるのですか?」
「ほぼ中央のあたりだと思います」
「ふむ、中央部とな…」
権三郎は何やら考え込んでいる。この事務所は一応都内に所在しているが、権三郎は隣県であるS県の地理にはそれほど明るくないらしい。
「そのH町というのは、おおよそどういった地形なのですか?」
権三郎にそう問われ、郁美は少しうろたえた。
「地形、ですか。H町というのはウチの隣町なのですが、まあ『町』ですから、県内でも田舎のほうだとは思います。その、地形としては、そうねぇ…山、さんち、…でもないかな。ん~、何だろ? 山と平地の中間みたいな。何ていうのかなぁ」
郁美がしどろもどろに返答する。
「山間部という感じですかね。山に囲まれた町ってところでしょうか?」
権三郎のフォローが入る。
「いえ、そこまでド田舎じゃないです。あたしが住んでるのは地味な地方都市で、H市というんですけど、そこと地続きですから。H町はなんていうのかな~、そう、たしか盆地? とかいうのかしら。すみません、こういう用語ってよく分からなくて」
郁美は、はにかみながらそう答えた。
「いえいえ、なんとなくイメージは掴めてきましたよ。盆地でいいと思います。で、そのH町って住宅地はかなりあるんですか?」
「はい、かなりあります。山っぽい場所の割に結構大きなニュータウンみたいのがあって、お店もたくさんあるし、意外と栄えてますよ。意外っていうのも失礼ですけど」
「なるほど。比較的高所にありながらも街としてはまあまあ栄えていると。いうなれば平野と山間部が融合したような土地柄という感じですかね」
「はい、あたし的にはそんなイメージです。山というか、丘の上に街がある、みたいな」
「だいたいわかりました。いずれにせよ現場には後ほど実際に行ってみるとしましょう。ところで、S県といえば西部に大きな山岳地帯がありますよね。そこにはツキノワグマが多少なりとも生息してると思われますが、そのH町というところでも、過去に熊が出現した事例はあるんですか?」
来た、と郁美は思った。それはこの件の核心に触れる部分である。
「そこが、はっきりとはわからないんです」
郁美は自信なさげにそう答えた。
「しかし、警察がそう断定したということは……」
「今回はそう断定されました。なので、父がH町において熊による最初の犠牲者ということになるみたいです」
「ですが、そう断定するにはそれなりの根拠というものが」
権三郎にとって、この点は曖昧にしておけないことのようである。
「一応根拠はあるようです。父が被害に遭った場所、M山っていうんですけど、過去に熊らしき大きな黒っぽい動物の目撃情報は何度かあったそうです。実際、山中のある場所には『熊出没注意』の看板もありました。ただし、今回父の一件が起こるまでは本格的な調査が入ったことはなかったそうです」
「なるほど。ではその本格的な調査によって、熊が存在した証拠が見つかったという訳ですね」
「はい、一応そうみたいです。あくまで警察がいう分には、ですけど」
郁美がそう答えると、権三郎はそれなりに納得した顔つきになった。
「むう、確かにグレーゾーンではありますな」
郁美はここで、いよいよこの事件の最もミステリアスな部分を開陳する時がきたと思い、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「でも、その看板のある辺りで父の遺体が発見されたというなら、まだあたしも熊犯人説を信じられたかもしれません。でも、でもですよ、父の遺体が発見された場所って、いったいどこだと思います?」
郁美はそう興奮気味に、勿体付けた言い方で権三郎に謎かけした。
「いや、そう言われましても。私は現地に行ったことないんで、何とも」
爛々と目を光らせながら答えを待つ郁美の迫力にたじろいだのか、権三郎は引き気味にそう答えた。
「あ、そっか。そりゃそうですよね。ごめんなさい」
謎かけはあっさりパスされたが、郁美はめげなかった。
「実は、その発見現場というのは、なんと、なんとですね…」
郁美はしつこく勿体つける。
「なんと…?」
権三郎がゴクリと生唾を飲み込む音がする。
「山頂にある、公園の敷地内だったんですよ!」
郁美は「どうだ、驚いたか!」とでも言いたげな顔をしてそう言い放った。
だが、権三郎はそれほど驚いてる風でもない。郁美としては衝撃の事実を告げたつもりであるが、これはどうしたことか。彼の淡白な反応に郁美は拍子抜けした。
「あの、探偵さん?」
「はい」
「その、そんなに驚いてないみたいですけど」
「いや、確かに異常だと思いますよ」
「でも、そのわりにリアクション薄くないですか?」
「まあ、一応熊らしき動物の目撃情報はあるということですしね。何より私は、まだそのM山とかいう場所について十分な知識がないもので」
権三郎にそう返され、郁美はちょっとばかり凹んでしまった。
彼の反応が薄かったのは、まだまだ事件の経緯及びディティールの説明が足りてなかったからなのだ。
「すみません……。あたしよく、人から説明が下手だって言われるんです。段取りをつけるのが苦手っていうか、経過をすっとばして結論を言ってしまうようなところがあるらしいんです」
郁美が自嘲気味にそう言うと、権三郎はニコリと微笑んだ。
「いやいや、私は別にあなたの説明が下手だとは思いませんよ。怪事件を人にわかるよう説明するというのは、そう簡単なことではないでしょう」
権三郎が優しげに言ってくれたので、郁美は柄にもなく少し感動してしまった。
「あ、ありがとうございます! あたし、初めて探偵さんの言葉で感激しちゃいました!」
郁美は頬を紅潮させながら、胸の前で両手を組み合わせて、似合いもしない乙女のようなリアクションをした。
この事件を追求し始めてからというもの、郁美の言動に対し周囲の反応は概ね冷淡だった。言葉で他人に理解を求めることの難しさを痛感していた彼女にとって、今の権三郎の言葉は胸に染みるものがあったのだ。
「いや~、そんな大げさな。私はただ思ったままを言っただけですよ」
権三郎は照れくさそうにそう言って、さらにこう続けた。
「そして、遺体発見現場は確かに妙だと思います。公園の敷地内で熊に襲われたなんていう話は、私も寡聞にして、あまり聞いたことがない」
その発言で更に気を良くした郁美は、改めて順を追ってことの経緯を丁寧に説明することにした。
「ひとまず、そこを理解してもらえただけでも嬉しいです。じゃあ、今度こそ順を追って丁寧にお話しますね。ちょっと長くなりますけど、いいですか?」
郁美は念を押すようにそう断りを入れた。
「ええ、いくら長くなってもいいですからじっくりとお話を聞かせて下さい」
権三郎にそう言われると、郁美は軽く頷いて、事件のいきさつを語り始めた。
「あたしの父は、若い頃登山が趣味で、日本中のいろんな山を制覇したとよく自慢していました。あたしがまだ小さい頃までは、父に連れられて家族で何度か山登りに行った記憶もあります。そんな父も、中年になってからは殆ど山には行かなくなっていたのですが、今年の春に会社を定年退職したのがきっかけで、また登山を再開すると言い出したのです」
「なるほど。よく聞く話ですな」
「で、登山を再開するにはまず体力作りからだと言って、退職直後から、近所のハイキングコースを歩くのが日課のようになっていました」
「ふむふむ」
「お弁当と水筒を携えて、まぁ遠足のようなノリでやってたんだと思います。そのうち父は、くだんのM山に目を付けました」
「ほう、そこでM山が登場するわけですな」
「はい。車で20分ほどの近さですからね。このM山は正確にいうと、I丘陵という大きな森のてっぺんにある場所で、H町からさらに隣町のM町にかけて、数キロほどのハイキングコースの出口になっているんです」
「出口? 入口ではなくて?」
「はい。スタートラインはМ町のほうで、そこから登っていくんです」
「ほう。ともかく父君は登山というよりはハイキングの一環として、M山に通っていたわけですね」
「そのようでした。なにしろこのM山は、山といっても高さはせいぜい150メートルほどの、丘に毛が生えたようなものなのです。頂上まで行ったところで、とても登山なんて呼べるシロモノじゃありません」
続く。
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