27.6人

第1話 27.6人

「知っているかね?」


黒いコートの男が呟く。声は乾いていて、部屋の隅まで届く。

銃口が光を受けて微かに揺れた。

床に落ちた書類や埃が、微かに舞っている。


「人生の中で、殺人犯とすれ違う回数は――16回なんだそうだ」


私の視線は、彼の指先に絡め取られる。

引き金の動作、銃口の角度、床に落ちる影。

息を潜めながら、すべてを記憶するように見つめた。


「1日に15人とすれ違うとして、84年生きれば――ざっくり46万人」


彼は床の影に目もくれず、淡々と数字を並べる。

硝煙の匂いが鼻を刺す。

小さな破裂音。私の心臓は、驚くほど静かに脈打った。


「その中で、殺人犯は10万人に6人。

君も、もう何度かすれ違ったことがあるかもしれない」


床の破片が、足元で微かに光る。

彼はそれを踏み、また歩く。

無表情な足取り、無表情な語り口。

世界のすべてが、数字の中に溶けていくようだった。


「つまり人生で出会うのは27.6人――君も、どこかですれ違っている……残念だったね。出会ったのが27.6人の内の1人の“暗殺者の私”で」


私はただ、静かに見ていた。

恐怖ではなく、観察。

息を殺し、呼吸を整え、数字と銃声と静寂に集中した。

男は床の影を踏みながら、ゆっくりと語り始めた。


「人はね、死を恐れる。だが面白いことに、死を与える側の心臓は、意外と静かなんだ」


銃口が光を受けて揺れる。


「撃つ瞬間、呼吸を整える。心臓の動き、血流の音、微かに反射する光……全てを計算に入れる。手順を守るだけで、余計な恐怖や失敗は減る」


私は机の陰からその動きを追う。

息を殺し、目の前の一挙手一投足を観察する。

銃口がわずかに傾く角度、指先の微かな動き、床に落ちる影の形。

そのすべてが、どこか美しい。


「経験を重ねると、人の反応を予測できるようになる。恐怖の度合い、瞬きの間隔、息の乱れ――命の最後の瞬間に現れる微細な変化を、ね」


言葉を聞きながら、私は胸の奥が静かに震えるのを感じた。

恐怖ではない。むしろ、息をのむ美しさ。

世界が数字や技術の上で、計算通りに動いているような感覚。


「初めて標的を殺したのは、二十歳の時だった。あの時も、心は静かだった。

面白いと思ったのは、予想以上に静かに倒れる奴がいたことだ。

数字や理論では語れない、生の面白さ──これが殺人の妙味だ」


私は小さく息を吐く。

弾を込める姿すら美しい――殺しの瞬間が、こんなにも整って見えるなんて、なんて不思議な人なんだろう。


「統計や確率は便利だ。数字にすれば、死を抽象化できる。

でも、目の前の一人ひとりは数字じゃない。息づく生の塊だ。

それをどう扱うか、それが全てだ」


その声を聞きながら、私は自分の心を確かめる。

動揺はない。ただ、胸の奥がざわめき、頬がわずかに熱くなる。

男の存在と、世界の秩序と、死の瞬間の静謐さに、私は心を奪われていた。


「撃つ時に気をつけるのはね、光だよ」

彼は床にある割れた蛍光灯の残骸を指で示すようにして、ゆっくりと言った。

「光は嘘をつく。光が強いと肌の色は飛ぶ。影が深いと表情は消える。いい角度で、いい量の光を残すと、人は美しく倒れるんだ」


その言葉に、私は肩の力を抜く。光、影、表情――すべて彼が秩序立てている。

銃を構える角度も、ただの作業ではないらしい。彼の指先が触れるたびに世界の輪郭が整っていくように見えた。


「次に音だ。音は記憶を刻む。大きい音はパニックを生むが、静かな一発は記憶により深く刺さる。サイレンサーはそのためにある。音を潰して、感覚だけを残す。残るのは、目の中の光、息遣い、そして沈黙だ」


私の耳は彼の言葉の後ろで、まだ小さな破裂音の余韻を追っている。

静けさという名の余白に、彼の語る“手順”が一つずつ丁寧に積み重なる。


「間合いも大事だ。遠すぎれば精度が落ちる、近すぎれば雑になる。身体は覚える。最初はぎこちないが、数をこなせば手が勝手に動く。そこで初めて、余計な感情が排される。恐怖も躊躇も、身体が吸収していくんだ」


その“身体が覚える”という言葉に、私の内側で何かが反応する。

記憶する、覚える、反復する――それは私がいつもしてきたことと、似ている気がした。

ノートに書き写すように、彼の動きを頭に写し取っていく自分に気づく。


「あと、死体の扱い方だね。汚れを残すな、遠方への痕跡を残すな。誰かが来る前に、世界を元に戻す。美しく仕事を終えるとはそういうことだ」


彼はそう言って、倒れたものを軽く足でずらした。

その所作は丁寧で、儀式のようだった。私はそれを、儀式の見習いのように見つめる。


「だがな、手順さえ知っていれば良いというわけでもない。面白いのは、予測不能な反応だ。あれはね、計算が狂う一瞬で、そこに面白みがある。人は最後にどんな顔をするか分からない。驚きか、諦めか、あるいは理解か。理解の顔が出たときは、ぞくっとくるよ」


私は目を細める。理解の顔──その言葉が胸に小さく響いた。

彼の語る『理解』は、単なる認識ではない。深いところでの“承認”のように聞こえた。

誰かに理解されるということが、逆説的に生の証明であるなら、私はその瞬間をこっそり見たいと感じている自分がいた。


「初めての仕事は覚えているかって? 覚えているさ。若造の頃、肝心なところで手が震えた。だが、理由は簡単だ。準備が足りなかった。準備というのは、技術だけでなく心の整理でもあるんだ」


彼は少しだけ笑ったように、しかしすぐに表情を消した。

その笑みの痕跡は、私の中で小さな火花のように跳ねた。

心の整理。準備。私はそれを、明日のテスト前の夜のように想像した。


「君はどうだね。恐怖はあるか。逃げたいか」


彼の声が、ふと近づいたように感じた。だが彼は私を見つめたまま、質問の答えを待たない。


「答えなくていいよ、僕は何者にも期待してないからね。答えは行動に出るものだ。だが、観察する者は案外始末に負えない。観察しながら自分を作っていく。そういう奴は、本当に厄介だ」


その“厄介”という言葉の投げかけに、私は小さく体の内側で笑う。

観察し、学び、準備する――それは私のやり方だった。だが今、それがどこへ向かうのか、私はまだ言えない。言葉がないことの安心が、胸を満たす。


彼はさらに昔話のように、ある標的とのやり取りを話し始めた。

小さな雑談のような語り口で、だが内容は冷静で緻密だった。標的の習慣、到着時間、好むカフェの窓の向き。最後の一日は、予想外に風が強かったことまで――そういった些細な事柄一つで勝敗が変わるのだと言った。


「その日、風が強くて、紙片が舞った。標的は紙に顔を埋め、瞬間的に視線を逸らした。あの動きが勝負を決めた。小さな動きだ」


彼がそう語るたび、私はその“勝負”の場面を自分のなかで反芻した。小さな動き――視線の逸れ。紙片の舞い。すべてが一つの竜巻のように意味を持っていく。私は自分がその竜巻の中心を見ている気分になった。


「結局ね、殺すってのは技術でもあり、美学でもある。数字は入り口に過ぎない。数字は出会いの確率を示すだけで、実際の行為はもっと細かい。細部が、すべてを変えるんだよ」


彼の話は尽きることがなかった。声は変わらず淡々として、しかしその中に確かな熱量が滲んでいた。

私は黙って聞き続け、彼の言葉を自分の中にしまい込む。

胸のざわめきはゆっくりと深くなり、頬がいつの間にか温かくなっていた。


やがて彼は一度、銃を軽く振ってからぽつりと言った。

「……まあ、長々と話してしまったね。だが、運がいいのか悪いのか――君はその27.6人の1人かもしれない。ああ、もう行かないと」


背を向ける彼の背中を、私は動かずに見送った。

足音が床に刻まれ、廊下を去る音が小さく遠ざかっていく。

部屋に残されたのは硝煙と、私の頬の熱だけだった。

背後に隠した物に、男は気づいたのかもしれない。いや、気づいていたのに、それでも去って行った。興味がないのだろうか、それとも単純に面倒だったのかもしれない。

それでも、と私は思う。オレンジゴールドの髪、黒縁のメガネ、黒いコート、サイレンサー付きのコルト――そのすべてに、頬が熱くなるのを感じた。視界の片隅で、銃口の残像がまだ揺れている。


低いうめきが漏れる。私は無言で立ち上がり、うめき声のした場所へ向かい、辛うじて生きているブタの後始末をした。

なんて、素晴らしい日なのだろう……。手にしたマチェットが血を帯び、初めて得た感覚に酔いしれた。手に伝わる冷たさと重さが、胸の高鳴りと奇妙に絡み合う。


──これが、恋というものだろうか。


なんて、キラキラした世界なのだろう。今まで灰色たったのに、今は虹色の世界だ。ワルツを踊りたくなる様な音楽を奏でる鼓動は止まらない。 

残った硝煙を肺いっぱいに吸い込む。頬の熱は引かず、呼吸と胸の奥のざわめきがシンクロする。

床に散らばった紙片や書類の隙間に、微かに光が差し込む。光と影、血の赤、そしてまだ乾かぬ血の匂い。全てが、五感を刺激する舞台装置のように感じられた。


「27.6人か……自分もその中に入っているのに、あぁ、なんて素晴らしいんだろう……」


思わず小さく息を漏らす。数字の中に自分を置くことで、現実が少し魔法のように思える。

私は、倒れた死体に一瞥を投げ、視線を空間全体に巡らせる。

光が壁を照らす角度、硝煙の残る空気の密度、微かな反響音――全てが、まだ男の存在を残しているかのように感じられた。

指先がマチェットの柄に触れる。冷たい鉄の感触が、胸の高鳴りをさらに煽る。


ふと、無線の音が廊下の隅で小さく響く。


『……ピッ…ガガ…キャス、始末は終わったか』

「終わったんだけど、ダブルブッキングしてたよ」

「はぁ? 何だそれ、ちょっと確認する。お前はいつものセーフハウスにでも帰ってろ」

「はーいはい。あ、ねぇ、オレンジゴールドの髪に、黒縁メガネ、黒いコート、サイレンサー付きのコルト、使う暗殺者知らない?」

「はぁ?……宛はあるが、調べとくよ」

「よろしく!じゃ、依頼入ったら声掛けて」


マチェットを部屋の隅に放り投げられていたバイオリンケースに収めると、夜の繁華街へ滑るように消えていく足取りが、弾むように感じられた。

まだ鼓動は落ち着かない。頬は熱く、呼吸は浅く、全身が生きている感覚で震えている。

初めて知った感情、初めて経験した高揚……胸の奥に、言葉にならない興奮が渦巻く。


私は、どこにでもいる『27.6』にはならない。

心の中でつぶやく。『楽しみ』――あぁ…これが『楽しみ』これが『恋』その言葉だけが、静かな夜に溶けていく。

背後に残る硝煙と影の余韻を胸に抱えながら、私は闇の中に溶けていった。

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