第2話 呪われ先輩

シャン、シャン――

この音がサンタクロースのものだったなら、どんなに良かっただろう。


しかし生憎、今は七月だ。

あのふくよかな老人は、きっと浜辺でサーフィンでも楽しんでいる頃だろう。


そんなくだらない想像でもしていなければ、正気を保てそうにない。

咲空は、廊下を走りながらそう思っていた。


反転した学校。

廊下に響くその音は、絶え間なく背後から近づいてくる。

まるで咲空を追い立てるかのように。


――シャン、シャン。


だが、振り返っても誰もいない。

サンタも、トナカイも。

――何者も、いない。


何が起きているのか分からない。

見えている光景が幻覚で、聞こえる音が幻聴だとしても。

ただひとつ確かなのは、逃げなければならないということだけだった。


走る途中、窓の外に駐輪場が見えた。

夏休みの夜。がらんとしたそこにあるのは、ただ一台――幼馴染の自転車だけ。


ポケットの中で、紙がカサリと音を立てる。


咲空が校舎に入る直前、幼馴染の立花から渡された手紙だ。


「さっき月歌ちゃんに会ってね。咲空に渡しといてって言われたよ」


後輩、福家月歌(ふくや つきか)からの手紙。

封筒には『時が来たら三人で開封してください』と書かれていた。


そうだ。昨日、アイツは――。


記憶がよみがえる。

昨日の朝。研究会へ向かっていたときのことだ。


古びた制服をまとった、あの謎の少女の幻覚を見た直後。

学校に着いた咲空は、無言で校門をくぐり、北校舎裏の駐輪場へ自転車を押していった。


体育館からは運動部の声。

インターハイ前だからか、気合いの入った掛け声が夜の空気を震わせていた。


「運動部ならまだ分かるんだが……俺のところは意味不明な活動だからな……非公式だし顧問いないし」


愚痴をこぼしながら昇降口へ向かっていたそのとき――。


「呪われ先輩っ!!」


背後から、突然の大声。

咲空は思わず振り返った。


そこにいたのは、分厚い占い本を抱えた女子――福家月歌。

期待に満ちた目を輝かせ、咲空を見つめていた。


彼女は“占い同好会”という、これまた理解不能な同好会の部長である。

――もっとも、部員は一年の彼女ひとり。もちろん非公式だ。


「ずばりっ! 今日、不思議なことが起こりましたね!?」


本を胸に抱えたまま一歩前に出る姿は、まるで舞台役者のように堂々としている。


「……朝からこのテンションかよ……」


咲空は額に手を当て、頭痛を押さえた。


「ええ、ハイテンションですとも!」

福家は力強くうなずき、房の髪がふわりと揺れる。

「だって、先輩が遅刻するって、私の占い通りでしたから!」


「……バカバカしいと思うが……仮に、仮にだぞ?知ってたんなら止めろよ!!」


声を荒げた自分に、少しだけ後悔する。

怒っても仕方ないと分かっているのに、こいつの調子に、どうにもペースを乱される。


「私、先輩のLINK知りませんし。言ったところで、信じました?」


福家はきょとんと首をかしげ、くるりと本を抱え直す。


咲空は言葉に詰まる。

ああ、こういう論理のすり替えをされると弱い。

彼女が本気なのか、冗談なのか――判断がつかない。


「……いや、信じないな」


「じゃあ伝えるだけムダじゃないですか!!」


胸を張って笑う福家に、咲空は深い溜息をついた。

――そのやり取りに慣れつつある自分に気づき、うんざりする。


「で? どうせ、その占いとやらは、まだ続きがあるんだろ?」


いつもの流れなら続きがある。さっさと聞いて部室へ行ってしまおう。こんな部活でも遅刻を詰められたくはない。


「はい!“大きな変化が訪れる日”って出ました!もうこれは運命です!絶対に、何かが起こる日なんです!」


福家はきらきらと目を輝かせながら身を乗り出してくる。


「で?で?何か起きましたか!?」


一瞬、通学路での出来事が咲空の脳裏をよぎったが、気のせいだと押し殺す。


「いや、特に何も無いけど?っていうか、“呪われ先輩”って何だよ、それ」


「呪われ先輩は、私が勝手に付けた先輩のあだ名です!」


福家は胸を張って言い切ると、今度は照れたように頬をほんのり染めた。


「だって、咲空先輩のその真っ赤な瞳、絶対に普通じゃないですもん。絶対、呪われてますよ!!」


目を丸くしながら身を乗り出してくる福家。声のトーンはまるで、珍しい現象に心を奪われた研究者のようだ。


「はぁ……これは遺伝だよ」


咲空はため息混じりに頭をかく。


「姉も妹も赤い目なんだ。家系的にメラニンが薄いだけ。医学的に説明つく」


理屈で返したはずなのに、福家は意味深にうなずく。


「でも――それだけじゃ説明できないこと、いっぱい経験してますよね?」


いたずらっぽい声。確信めいた響き。

その言葉が、咲空の胸の奥をざわつかせる。


一瞬、福家の姿が十年前の記者たちと重なり、嫌な汗がにじむ。


「……その呼び名、やめろ」


しばらくの沈黙のあと、ようやく絞り出したその一言も、月歌の耳には届いていない。


「いいじゃないですか~。呼び名なんて、減るもんじゃないですしっ!」


ひらひらと手を振る笑顔が、妙に癪に障る。咲空は小さく舌打ちした。


呪い、占い、オカルト――

人は非現実に意味を見出したがる。

それ自体は構わない。だが、咲空はそれらに巻き込まれたくはなかった。


「減るとかじゃなくて要らないんだよ。俺は普通の高校生活を送りたいだけだ。……部活に遅れてるから、じゃあな」


福家の返事は聞かない。

遅刻しているのに立ち話している場合じゃない――そう自分に言い訳して踵を返し、オカルト研究会の部室へ向かった。


「占い結果は……大きな変化が訪れる日。それと――イレギュラーズ・オブジェクトには要注意ですか。……このままじゃ先輩は死んじゃうかもですね」


ギュッ、と本を握る細い指が震える。

しかし、その呟きは蝉時雨と運動部の掛け声にかき消され、咲空の耳には届かなかった。


「……くそっ!いよいよ思考が現実逃避を始めてきやがったな」


鏡のように反転した校舎。

床も壁も天井も、すべてが“正しい世界”と左右反転している。


そんな異常空間に居続けて、正気であることのほうが難しいだろう。


――いや。

もしこれが幻覚や幻聴による錯乱だとしたら、その時点で手遅れなんだが。


それでも咲空は、必死に自己分析しながら冷静を装う。

鼓動の速さを無視し、呼吸を一定に保ち、耳を澄ませる。


シャン――シャン……シャン……。


鈴の音が、かすかに遠ざかっていく気がした。


「……仮にアレが目に見えない……光学迷彩なんだとしたら」


咲空は北校舎へ続く連絡通路を駆け抜け、最寄りの空き教室へ飛び込む。

震える指先で鍵を捻り、ガチャリと施錠。

背中を扉に預けたまま、大きく息を吐く。


隠れることで逃げ切れるのか。

そんな保証はどこにもない。


しかし、動かずにいても道はない。それだけは確かであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Irregulars Object サード @3rdProject

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る