第3話 祈りの時間
信之丞様とは、神の名だ。
玲奈の母・
美恵を通して、信之丞様のお言葉を信者に伝える――そういう設定だと玲奈は思っている。
信之丞様とやらに祈れば、不幸から身を守ってくれるだとか、病気が治っただとか、色々なご利益があった的な話を信者たちはしているが、そんなものはただの偶然だ。
偶然起きたことを、自分が熱心に祈りをささげたおかげだと思い込んでいるだけ。
信之丞様とは、元は火村家の玲奈の先祖で、死後に神となったとされている。
そんな尊い火村家を継承していくために、玲奈の父親は喜んで婿養子に入った。
むしろ熱心な信者としては、教祖である美恵に選ばれたことを誇りに思っている。
「男の苗字が代わるなんて……」と、まだ揶揄されてもおかしくない時代に、自ら進んで手を上げたような男だ。
父方の祖父母とは、それが気に入らなかったのかとっくに縁が切れている。
玲奈は小学校に上がる前に一度だけ会ったことがあるが、実の両親が実の息子とその孫を罵倒する、修羅場だった。
当時はなぜ父親がこんなにも敵視されているのか理解できず、怖い人たちだと思っていたが、今ならわかる。
異常なのは自分たちの方で、祖父母はまともだったのだと。
自分の家族がまともじゃないと気がついたきっかけは、一体なんだっただろうか――と、信之丞様の祭壇の前で手を合わせながら、玲奈はいつも考えを巡らせる。
朝ご飯の前、夕食の後、誰も信之丞様にお祈りをしないのを不思議に思った幼稚園のお泊り会。
小学生の頃、友達の家に初めて遊びに行ったとき、みんなの家にあると思っていた信之丞様の掛け軸がないと知った日。
普通の家庭には、お清めの塩も黄色い御札も聖水が入った瓶もないと知った時。
「あの子とは関わらない方がいい」と、誰かの親が話しているのを聞いた時。
成長する度、自分の知見が広がるにつれて、玲奈は暗い闇の中に落とされた気分だった。
普通になりたい。
普通でいたい。
普通がいい。
誰からも嫌われたくない。
異常な家の子供だと思われたくない。
こんな家だから、友達ができても家に人を呼んだことがない。
こんな家だから、家族の事を誰かにちゃんと相談できない。
こんな家だから、本当のことが言えなくて、いつも上辺だけ取り繕ってしまう。
恋人でも出来たら、その人の家に転がり込むのが一番楽かもしれないなと思ったこともあった。
でも、どこで見聞きしているのか、そういう気配があればすぐに止められた。
高校一年の夏、初めて彼氏ができそうだったのに、待ち合わせの場所に美恵がいた。
「この男は駄目。あなたの魂が穢れます」と言われ、駄目になった。
ケーキ屋でのアルバイトは許してくれたけれど、そこに来た大学生と仲良くなって、連絡先の交換をした直後、「その男には三人の女がいますよ」と言われたこともある。
実際、そのうちの一人がオーナーの孫だったことが後から判明したりもした。
「――玲奈、ちゃんとお祈りしなさい。雑念が多すぎますよ」
「……はい」
ちっとも信じていない神に惰性で手を合わせ、叱られる。
美恵が手を上げることはないが、父親は別だ。
熱心な信者である父親は、躾だと言って、美恵の見ていないところで殴る。
美恵はそれを知っているが、何も言わない。
玲奈は、この父親は本当の父親じゃないのではないかと思っていた。
もしかしたら、母親も違うのかも知れない。
自分は養子かもしれないとも思ったが、中学を卒業した頃には、すっかり美恵と同じ顔をしている自分に落胆した。
「玲奈、いつもお母さんは言っているでしょう。信じなさい。今は視えずとも、あなたは火村の血を引いている。修行に励むのが一番だけれども、何かのきっかけで、突然その力が目覚めることだってあるのですよ」
「はい……」
「信じる心が大切なのです。いつも守っていただいているのですから、感謝の心を忘れてはなりません」
「はい……わかりました」
祭壇の前に正座し、鋼の珠で出来た長い数珠を二重に右手に巻き、手を合わせた後、両手を開いて額を床に押し付け、尻を高く上げる。
このお祈りに、何の効果があるというのか。
守られているという意味もわからないまま、一日二回。
必ずこの行為をしなければならないことが、何よりも苦痛だった。
――こんな姿、誰にも見られたくない。
大学生になればこの家から離れて、一人で暮らすようになる。
それまで、ただひたすらに玲奈は耐えた。
そうして、見事に志望校に合格し、玲奈は春から女子寮での生活をスタートさせる。
必ず飾るようにと持たされた信之丞様の掛け軸も長い数珠も、電車に置いて来た。
「もうこんなもの、いらない」
アルバイト先は、実里が経営する新しいケーキ屋の店員。
そこで出会った実里の従兄・
聡太とは二十歳も年の差があったが、彼は優しくて真面目な男で、何より火村家とは全く違う、まさに玲奈の理想的な家庭環境で育った男だった。
片山家本家の長男――それも農家の後継ぎ息子であるため、義両親との同居は必須。
人によってはマイナスの条件ばかりではあるが、義両親は孫ほど年の離れた玲奈を自分の娘のように可愛がってくれた。
「顔合わせ……? そんな、別にいいよ。結婚に親の同意は必要ないんだから」
「いやいや、だって結婚するんだし、ご両親にちゃんとご挨拶くらいは……」
すぐに結婚まで話は発展したが、そうなるとあの両親に聡太を会わせなければならない。
玲奈は正直、実家には帰りたくなかった。
また妙なことを言われて、反対されるかもしれない。
「去年は年末帰ってないんだよね? 今年は成人式だってあるだろうし」
成人式に出席するつもりはなかったが、せめてその時、一度、ご挨拶に活かせてもらえないかと聡太に言われ、仕方がなく玲奈は両親のことを正直に話した。
自分は全く信じていないこと、強要されて迷惑していたかなり特殊なタイプの宗教二世であることも。
聡太は玲奈の話を聞いても、考えを変えることはなかった。
「もしそういう、宗教的なことで駄目だって言われたら、その時は本当に縁を切ればいい」
行きの列車の中で玲奈は、ずっと悪い想像ばかりして、震えていた。
どうか何も起こらないで欲しいと、聡太の手を握って祈り続ける。
だから、何事もなくすんなり結婚を認めた両親に、玲奈は拍子抜けした。
「――いい人を選びましたね、玲奈。やはり、私の娘だわ」
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