第17話:賢者への道標
ヴァルム遺跡を命からがら脱出した俺たちに、休息の時間はなかった。 タイムリミットは、三日。 イグニスさんの命を救うため、俺たちはゼフィルさんが示した唯一の希望、「禁断の地下水路」の入り口があるという谷底へと向かっていた。
イグニスさんの意識は戻らない。呼吸は浅く、顔色は土気色だ。 あの屈強な体が、今はただ重い肉の塊のように感じられる。 俺たちは、彼の重い鋼鉄の鎧を脱がせ、少しでも軽くした状態で、交互に肩を貸しながら山道を下っていた。
「……はぁ、はぁ……。ここが、谷底……」
たどり着いた場所は、大小様々な滝が轟音を立てて流れ落ちる、絶望的な光景だった。 水しぶきが霧となって視界を遮り、会話すら大声を出さなければ届かない。
「文献によれば、この辺りの筈だが……」
ゼフィルさんが、疲労の滲む声で呟く。 手掛かりは『双頭の鷲の滝、その左目に道は開かれん』という、あまりに曖昧な記述のみ。
「どの滝も同じに見えます……本当に、ここなのでしょうか?」
リリアさんが、不安そうに辺りを見回す。彼女の足取りも限界に近い。
「手分けして探しましょう! 時間がありません!」
俺の叫びを合図に、三人は焦りからバラバラに行動しようとした。 だが、俺はすぐに足を止めた。 闇雲に探しても、体力と時間を浪費するだけだ。冷静になれ。俺は「目」だ。
俺は、目を閉じて深呼吸し、再びカッと見開いた。 岩肌の形状、水の流れ、そして――太陽の位置。
双頭の鷲……。岩の形そのものじゃない。影だ!
俺は、数ある滝の一つ、その岩肌に、風化してほとんど見えなくなっている突起を見つけた。 朝日がその突起を照らし、岩壁に「影」を落としている。 その影の形が、翼を広げた鷲のように見えた。そして、もう一つの「頭」にあたる岩の窪みが、水しぶきを受けて虹色に輝いている。
「……あそこだ!」
俺の叫びに、二人が駆け寄ってくる。 俺が指差したのは、滝の裏側に隠された、小さな岩棚だった。 鷲の「左目」にあたる位置。
「……! そうか、『光と影の反転』か! 影が鷲を形作る時間帯……アレン、よく気づいた!」
ゼフィルさんが驚嘆する。
俺たちは滑りやすい岩場を慎重に進んだ。俺の履いている**『消音の靴』**が、苔むした岩の上でも不思議とグリップし、足音を立てずに確実に体を支えてくれる。 遺品に助けられた。
三人で力を合わせて、隠された岩を押し込む。 ズズズ……と重い音を立てて、地下水路へと続く洞窟の入り口が、ついにその姿を現した。
◇
だが、洞窟の先に広がっていたのは、さらなる絶望だった。 凄まじい轟音と共に激しい川が流れる、巨大な地下空間。 対岸は見えず、道は完全に途絶えている。
「……川、ですね」
リリアさんが、絶句する。
「これほどの激流……泳ぐなんて不可能です」
「……ここまで来て、終わりだというのか」
ゼフィルさんが、膝をつきそうになる。彼もまた、魔力枯渇による眩暈に耐えているのだ。
「船がないなら、作りましょう」
俺の静かな言葉に、ゼフィルさんは信じられないといった目で俺を見た。
「正気か、アレン! 素人がありあわせの廃材で組んだ舟など、あの激流では木屑になるだけだ! それに、釘もロープも足りない!」
「でも、やるしかないんです! ここで諦めたら、イグニスさんは死にます!」
俺は、洞窟の入り口付近に流れ着いていた流木や、枯れた蔦(つた)をかき集め始めた。 そして、地面に木の枝で設計図を描く。
「四角形じゃありません。三角形です」
俺は、三角形をいくつも組み合わせた、格子状の模様を描いた。
「流木を組む時、この『三角形(トライアングル)』の構造を基本にします。四角形は歪みやすいですが、三角形は力が加わっても形が崩れにくい。最小限の材料で、最大限の強度を出せます!」
現代の「トラス構造」の応用だ。
「……三角形……」
ゼフィルさんが、その図形を見て目を見開いた。
「……幾何学的な安定構造か。確かに、古代の結界魔法陣も三角形を基盤としている。力の分散に優れた形だ……。理屈は通っている」
「ゼフィルさん、蔦を強化する魔法は使えますか?」
「……残り少ないが、植物の繊維を硬化させる程度なら」
俺たちは、時間との戦いに挑んだ。 俺が構造を指示し、リリアさんが蔦を編み、ゼフィルさんがそれを魔法で鋼のように硬化させて固定する。 不格好だが、驚くほど頑丈ないかだが完成した。
◇
イグニスさんの命の限界まで、あと二日。 俺たちは、意識のない彼をいかだの中心にしっかりと縛り付け、互いの顔を見合わせた。
「行きますよ」
「はいっ」
「……ああ。運を天に任せるか」
俺が、いかだを繋ぎ止めていた最後の蔓を断ち切ると、いかだは暗黒の激流へと、その身を投じた。
ドッ、バァァァァン!!
凄まじい水しぶきと轟音が、俺たちを襲う。 いかだは木の葉のように揉まれ、回転する。
「きゃあっ!」
「くそっ、何て揺れだ!」
「諦めないでください!」
俺は船頭に這うように移動し、叫んだ。
「俺が先を読みます! 二人は俺の指示通りに動いてください! 俺たちは『チーム』です!」
俺は、このパーティーの「目」だ。 暗闇の中、水面の微かなうねり、壁から跳ね返ってくる反響音、そして肌に感じる風の流れ。 全ての情報を、頭の中で処理する。
「右前方、岩が来ます! ゼフィルさん、左へ!」
「リリアさん、重心を右へ! 俺と逆に!」
司令塔としての俺の指示。 ゼフィルさんが、杖で水を叩き、微弱な衝撃波で軌道を変える。 リリアさんが、イグニスさんを庇いながら体重移動をする。
三位一体。 俺たちは、奇跡のような連携で、次々と現れる障害を乗り越えていく。 トラス構造のいかだは、岩にぶつかっても軋むだけで、決してバラバラにはならなかった。
どれくらいそうしていただろうか。 永遠にも思える時間の果てに、前方の音が変わった。
ゴォォォォォォォォ……
地鳴りのような、腹の底に響く重低音。 それは、これまでの激流とは比較にならない「落差」を意味していた。
「……おい、アレン。あの音は……」
ゼフィルさんの顔色が青ざめる。
俺たちが前方を見ると、川が、途切れていた。 その先は、底が見えないほどの巨大な縦穴。 全ての水が雪崩落ちていく、地下の大瀑布(フォール)。
「嘘……でしょ……」
リリアさんが息を呑む。
引き返せない。流れが速すぎて、岸に寄せることもできない。 いかだは、無慈悲に奈落へと引きずり込まれていく。
「……ここまで、か」
ゼフィルさんが、全ての抵抗を諦めたかのように杖を下ろそうとした。
「諦めるな!!」
俺は、ゼフィルさんの胸ぐらを掴んで叫んだ。
「落ちたら死ぬ? 違う! 落ち方を間違えなければ助かる!」
俺は、奈落の底を凝視した。 水煙の向こう、遥か下に、叩きつけられる水面が見える。 岩じゃない。水だ。深さはある。
「垂直に落ちたら、水面がコンクリートみたいになって砕け散ります! でも、角度をつけて入水すれば……!」
俺は叫んだ。
「ゼフィルさん! 最後の魔力で、いかだの船首を持ち上げてください! 少しだけでいい! 垂直落下を避けるんです!」
「……くっ、注文の多い司令塔だ!」
いかだが滝の縁から飛び出した、その瞬間。 ゼフィルさんが、自らの生命力を削るようにして、杖を振り上げた。
「風よ、舞い上がれぇぇぇっ!」
いかだの下で風が爆ぜる。 船首がフワリと持ち上がり、いかだは槍のように鋭角に水面へと突っ込んでいく。
「衝撃に備えてぇぇぇっ!!」
俺は、イグニスさんとリリアさんに覆いかぶさった。
ドォォォォォォン!!!!
鼓膜が破れそうな衝撃音と共に、世界から全ての色が消えた。 冷たい水が全身を打ちつけ、意識が闇へと飲み込まれていく。
死ぬ……? いや、まだだ……!
水の泡の中で、俺は必死に仲間の手を探した。 離さない。絶対に、離さない。
◇
びしょ濡れの体を引きずり上げ、冷たい岩肌の上に倒れ込んだ時、俺たちの体力は、もう一滴も残っていなかった。 いかだはバラバラに砕け散り、残骸となって漂っている。
「……げほっ、げほっ……!」
「リリアさん、ゼフィルさん……無事ですか……」
「……なんとか、な。骨の二、三本はいったかもしれんが」
ゼフィルさんが、濡れた髪をかき上げながら苦笑する。
そして、イグニスさん。 彼は、岸辺に打ち上げられていた。 まだ、息はある。だが、その呼吸は以前よりもさらに弱々しい。
「イグニスさん……!」
リリアさんが駆け寄り、診察する。
「……傷口が開いてしまっています。体温も下がりきっている……。このままでは……もう、一日も……」
彼女の声が震え、涙がこぼれ落ちる。 ここまで来たのに。命懸けで、激流を乗り越えたのに。
「……くそっ」
俺は、濡れた岩を拳で殴りつけた。
「どこだ……賢者は、どこにいるんだ……!」
ゼフィルさんが、なけなしの魔力で火を起こそうと、杖の先を岩に打ち付けた。 その、頼りなく瞬く火花が、偶然、俺たちの背後の壁を照らし出した。
俺は、息を呑んだ。 壁に、自然にできたものとは思えない、幾何学的な紋様が薄く刻まれていたのだ。 それは、ヴァルム遺跡の奥で見たものと同じ、古代の印。
「……ゼフィルさん、あれを……」
俺の声に、ゼフィルさんも顔を上げる。 彼は、その紋様を食い入るように見つめ、やがて、その目が驚愕と希望に見開かれた。
「……間違いない。師の文献にあった、古代の『巡礼路』の印だ」
彼は、震える指でその紋様に触れた。
「この道は……伝説によれば、森の賢者の元へと続いているという……!」
「じゃあ、俺たちは……!」
「ああ。偶然ではない。我々は、正しい道にたどり着いたんだ」
絶望の底で見つけた、細い細い蜘蛛の糸。 だが、今の俺たちにとって、それは唯一すがるべき、確かな希望の光だった。
俺たちは、意識のないイグニスさんを背負い直した。 足は鉛のように重い。体は凍えている。 だが、その目には、再び燃え上がるような意志の光が宿っていた。
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