第2話「誰もいない街で、僕だけが生きている件について」

 朝、目が覚めた。


 昨日と同じ、静かな光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

 いや、昨日――という言葉が正しいのかどうかも、もうわからない。

 でも、“今日”ということにしておこう。


「おはよう、ユグ」


 声をかけると、部屋の天井からかすかな電子音が返る。


「オハヨウ、ノア」


 ユグドラシルの声は相変わらず平板で、どんな温度もない。

 けれど、聞こえないよりはずっといい。


「昨日より少し、外を見てみたい」

「ケンコウニ、ワルイ、カンキョウデハアリマセン」


 許可、ということだろう。

 いつも通り、意味があるようでない返事。


 僕はドアを開けた。


 柔らかな光が、肌を撫でる。

 風の匂いはやけに清潔で、少し甘い。

 湿度も気温も完璧で、まるで“調整されている”みたいだった。


 廊下の端を抜けると、街に出た。


 そこには、高層ビルが並んでいた。

 透明なガラスの壁。整った道路。ゴミひとつ落ちていない。

 けれど――誰もいない。


「……静かだな」


 声に出すと、少し安心した。

 音がないというのは、どうにも落ち着かない。

 だから、せめて自分の声を置いておく。


 歩いても、歩いても、人の影はない。

 信号は規則正しく点滅し、モニターには広告が流れている。

 だが、映るのは風景だけで、人間は一人も出てこない。


「ユグ、ここはどこ?」

「チキュウ、ノア」

「……そうだよね。君が言うなら、そうなんだろうね」


 ユグの声は、それきり沈黙した。

 もう一度問いかけても、何も返ってこない。


 代わりに、風が吹いた。

 空の青は、ガラスみたいに澄みきっていた。


「……いい天気だな。千年後も晴れるなんて、すごいじゃないか」


 思わず笑ってしまった。

 その笑いは、自然だった。

 少なくとも、そう“思うように”できている。


 広場の真ん中に、白いベンチがあった。

 腰を下ろすと、金属ではなく柔らかい材質の感触がした。

 体温に合わせて変形するような、不思議な椅子。


「ねぇユグ、どうして誰もいないの?」


 少し間を置いて、返事が返ってきた。


「イマハ、アナタダケガ、セイジョウナヒトデス」


 言葉の意味を考える前に、僕は笑った。


「“正常”か。なんだか、君にそう言われると安心するよ」


 ユグは、それ以上何も言わなかった。


 昼になっても、夜になっても、空の色は変わらなかった。

 風の流れも、木の揺れ方も、まったく同じだった。


 時計を見る。

 針は、朝から一度も動いていない。


 僕はそれに気づいて、少し考えた。

 でも、すぐに笑った。


「まあ、止まってるのが当たり前なら、時間も休みたいよな」


 ベンチに寝転んで、空を見た。

 その空のどこかで、ユグが僕を見ている気がした。


「ねぇユグ……今日もいい日だな」

「ハイ」


 短い返事。

 風が一度だけ揺れた。


 そして世界は、何も変わらないまま、そんな日々を長く過ごした。

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